涙、のち笑顔
……あ、その光景を見た時、まず最初に思ったのが楽しそうだな≠セった。傷付いたかと聞かれればそりゃ傷付きはしたけれど、でも、なんだろう。どちらかと言えば納得の方が大きかったように思う。
夏油くんや硝子ちゃんと駄弁っている時の、悪戯っ子のような笑顔とは違う、やさしくて、あたたかい笑顔だった。
そしてそれは当然、私に向けられたことだってない。
話しかけようとして伸ばしかけた手を引っ込めた。よかった、直前でやめて。きっと私が声をかけた瞬間にあの笑顔は消えてしまうだろうから。
何の話をしていたかは聞こえなかったけれど、楽しそうに、嬉しそうに話している後輩の子と五条くんは、私には気付かずそのままどこかへ行ってしまった。
自室に戻った私は一人ベッドの上で膝を抱える。電気をつけるか悩んだ結果、部屋を明るくする気分ではなかったので真っ暗なまま。
……あんな顔、初めて見たなぁ。
いつも私に向けるのは不機嫌そうにしたものばっかりだったから。そもそも笑顔なんて、向けられたことが無い。
――私たちの関係は、五条くんからの告白で始まったはずだった。もともと私も彼のことが好きで、告白されたときは舞い上がっていたけれど。よく考えればあの時だって不機嫌そうにしていたかもしれない。
そして浮かんだ、ひとつの可能性。
これは、もしかして、……遊ばれてた……?
いや五条くんがわざわざ私で遊ぶなんて考えられないけれど。でも。だって……。
ぐるぐると考えて、でも私は五条くんではないから何を思って私と付き合っているのかわかるわけもなく。ただこの状況になってそういえば、と思い出すことはたくさんあった。
まだ付き合い始めて数か月しか経っていないけれど、キスどころか手を繋いだこともない。デートだってもちろん、したことが無かった。ただ二人の関係を表す言葉が、同級生≠ゥら恋人≠ノ変わっただけで、他は何も、変わってなんかいない。
やっぱり、遊ばれてる……?
もし、もしも、そうだとしたら、
――私は、自分のためにも別れを切り出すことしかできない。
とんとん、と肩を叩かれて後ろを振り返った。なぜかそこには驚いた顔をした夏油くんがいた。彼はすぐに顔を崩してにっこりと笑う。
「……先生が探してたよ」
「ほんと? 教えてくれてありがとう」
「ぼーっとしてるなんて珍しいね」
「そうかな……?」
落ちてきた髪を耳にかけながら曖昧に笑う。
言われるぐらい珍しいかな?
「悩み事?」
「う、うーん……悩み事って言うか……、もう決め手はいるんだけど、ちょっと勇気が出ないって言うか……」
「……私で良ければ背中を押してあげるよ」
「ほんと?」
「もちろん」
「じゃあ、お願いしようかな」
夏油くんは優しいなぁ。その優しさにいつも甘えている気がするけど、今回も甘えさせてもらうことにしよう。だって決意はしたものの勇気が足りない。……嫌いになった訳ではないから、なおさら。
「私、五条くんと別れようと思って」
「………………え?」
たっぷり数秒間を置いた夏油くんは、ぽかんと口を開けている。私たちの普段のやり取りを見ていればそんなに驚くことでもないだろうに。
「……ごめん、もう一度言ってくれないか」
「え? だから五条くんと別れようと思って」
「それは……、どうして?」
「だって五条くん、私と一緒にいても何も楽しそうじゃないし……。昨日、見ちゃったんだよね、後輩の子と楽しそうにしてるところ。……私じゃきっと、あんな顔させられないから」
あぁ、と納得した様子を見せる夏油くんに、ほらやっぱり、と心の中で呟く。周りから見ても五条くんはそう見えているみたいで良かった。
「うん、まぁ、それは悟が悪いね……。一つだけ確認しておきたいのだけれど、悟の事を嫌いになった訳ではないんだよね?」
「……、うん」
「そうか、うん。それなら頑張って。悪い方にはいかないから」
少し夏油くんの言葉が引っかかったけど、ありがとう、と礼を言って、そういえば先生が私の事を探していたことを思い出す。
「ごめんね、本当にありがとう! 私、先生のところに行ってくるね」
「うん、気を付けて」
……そういえば、悪い方にはいかないってどういう意味なんだろう。誰にとって、悪い方≠ネんだろう。
* * *
メールで五条くんを呼び出す。こうやって連絡を取ることも、付き合う前からずっとしてこなかった。もちろん、五条くんから連絡が来ることもない。
夏油くんに背中を押してもらったけれど心臓がバクバクとうるさい。胸の前で拳を作って、落ち着けるように深呼吸を繰り返す。
「……呼び出して、何?」
ズボンのポケットに手を突っ込んで、だるそうに背を少し丸めながら正面からやってきた五条くんは、やっぱり不機嫌顔だ。
「えっと、ごめんね」
「べつに、いいけど」
五条くんは真っ黒なサングラスをかけているから、その奥の瞳は見えない。ふぅ、と息を吐き出して、でも五条くんの事は真っすぐ見れないまま、ゆっくりと口を開く。
「……わたしと、わかれてください」
言った。言えた……!
達成感に満たされて、緊張が抜けていく。その場に座り込みそうになるのをなんとか耐えて、五条くんに気を使わせないように笑って見せた。
「返事はわかってるから大丈夫だよ。ありがとう、こんな私と付き合ってくれて」
あの子と幸せにね、とまでは言えなかった。
だって私は彼のことを嫌いになった訳じゃない。少なくとも、あの日五条くんに告白された時はとても嬉しかった。……何も気付けないほど、舞い上がるぐらいには。
それじゃあ、と踵を返そうとしたところ、腕を掴まれて動けなくなってしまった。
「え、っと、……五条くん?」
「……なんで」
「なんで……?」
「なんで別れてとか言うわけ?」
「えっと、」
まさか質問されるとは思っていなくて口ごもる。どう答えるべきなんだろう。わからない。遊びだったんでしょう? 後輩のあの子が好きなんでしょう? 楽しそうに、嬉しそうに、今まで見たことないぐらいやさしいかおをして、
……それを、自分の口から言えと?
なんて残酷なんだろう。何度も言うが私は五条くんのことが嫌いになったわけじゃない。むしろ好きだ。あんな光景を見たあとでもそう思う。
だからこそ、惨めにならないように、守るように、別れを告げたのに。
「俺は、いやだけど」
……こんなの、あんまりだ。
「わ、私は、別れて、欲しい、です」
「だから何で? 理由もないのに別れる必要ある?」
掴まれている腕に力がこもって痛い。声は出なかったけれど顔は顰めてしまった。それを見た五条くんはゆっくりと力を抜いて、私の力でも振り解けるようになった。
だから、――ゆっくりと、解いた。
それについて彼は何も言ってこない。……つまり、そういうことでしょ?
「……私は、五条くんと恋人になれて、嬉しかったよ」
「じゃあなんでだよ」
「だって……、」
だって、私だけが好きでいたって、意味ないんだもん。
そう呟いた声は震えてて、とても小さかった。五条くんの耳に届いたかはわからないけど、正直、届かなくてもいいと思った。こんな、情に訴えるような言葉、聞かなくていい。
そうは思っていても一度声に出してしまった言葉は取り消せない。しっかりと届いてしまったらしい五条くんは、ハ? と呆気に取られたような声を出した。
「待て待て待て、は? いや、おまえ、それ誰から聞いたの?」
「……聞いてない、けど」
でもほら、そう言うってことは、やっぱり私はお遊びで、ずっと私の一方通行だったってことで、
「じゃあお前がそう思ったってこと? なんで?」
「……言わなきゃ、ダメ?」
「ン、……だめ」
真っすぐ見つめられているように、視線が突き刺さる。もう腕は掴まれていないけれど、五条くんを無視して立ち去ることもできなかった。
「……。きのう」
「昨日?」
ゆっくりと紡いだ言葉を繰り返されて頷く。心当たりがないのか五条くんはピンと来ていないみたい。
「……後輩の子と、一緒にいることろ、みちゃったの」
「アー…………」
「五条くん、あんなにやさしく笑えるんだね」
私、初めて知ったよ。
最後に強がって五条くんの顔を見た。
へらりとわらった。
五条くんが突然大きく息を吐き出してその場にしゃがみ込む。ガシガシと乱暴に髪を乱したかと思えば、サングラスの隙間から綺麗な瞳が顔を覗かせていた。
「それで?」
「……あ、えっと。それで、五条くんが好きなのは、あの子なのかな、って」
「……なんでそう思った?」
「え? ……だって、私といる時はいつも不機嫌そうにしてるから、だから、えっと、その、……ごめんなさい」
「あー…………、それ、全部違うから」
「……ちが、う?」
そう。呟いた五条くんの瞳はまた隠れて見えなくなってしまった。
何が違うんだろう。本当は今からでもこの場を立ち去ることはできたはずなのに、こんな五条くんを見るなんて初めてで、ちゃんと、向き合えるような気がして。
だから、続きをじっと待つ。
「お前といるときは、……あー」
「……無理しなくていいんだよ?」
「してねぇよ。ただ、その、……ダセェだろ」
「ださい?」
暫く黙ってしまった五条くんは、どこに照れる要素があったのか、ほんのりと頬を赤く染めて「……お前といると、顔が緩む」と。確かに、そう、言った。
「え?」
「ダセェじゃん、そんな顔」
「……じゃあ、あの子は? 楽しそうにしてた」
「お前の! 話を! してたんだよ!」
「それ、って、」
待って。ちょっと、待って、ほしい。
それが、本当なら、五条くんって、もしかして、
「……悪い?」
「えっと、」
五条くんは開き直ったのか立ち上がり、真っすぐに私を見下ろした。色付いていた頬は元の色に戻ってしまっていた。
じわじわと頬に熱が集まるのがわかる。首を横に振って、否定した。
わるい、わけがない。
顔を隠すように両手で覆う。
なにこれ、なにこれ、すごく、はずかしい。
「おれは、おまえが好きだから……、」
「……うん」
「わかれる、とか、言うな」
「……うん、ごめんね」
「……お前は?」
「私……?」
「そ。お前は、俺の事好き?」
折角赤い顔を隠していたのに、五条くんに解かれて、なぜか逸らすことも出来ずに彼を見上げる。
見上げて、驚いた。
さっき引いたと思っていた赤が、今度は強くなって白い肌を染めている。もしかしたら私よりも濃いかもしれない。
五条きんは他の人より肌が白いから、赤がよく映える。
「わ、たし、も、すき、です」
ぎこちなく伝える。ちゃんと、届けばいい。今までちゃんと伝えることもせずに逃げてごめんね。
五条くんは私の言葉を聞いたあと、嬉しそうに知ってる=Aと笑った。
その顔は、私が昨日見たものよりも甘くて、ひどくやさしいものだった。