空が近くなる
――失敗した、と思った。硝子の申し訳なさそうな顔が頭から離れない。
クローゼットの奥から取り出したパーカーのフードを深く被って早歩きで高専の廊下を歩く。どうしてこんな時に限って学長に呼び出されてるんだろう。
昨日なら、まだ良かったのに。
人が寄り付かない道を出来るだけ選ぶ。元々人の好きない高専内。意識して避ければ人に会うなんて滅多にない、はずだったのに。
「なーにそんなに急いでんの?」
いきなり後ろから腕を掴まれて、重力に逆らうことなく倒れていく。軽々と私の体を受け止めた彼――悟は、いつものおちゃらけた様子で私の顔を覗き込もうとした。それを、きゅっとフードの紐を引っ張って、見えないように隠す。
「学長に、呼び出しされてる」
「ふーん。で? なんで顔隠してんの?」
「……ちょっと、いろいろ、」
へぇ。悟が無理やり私の腕を掴んで、引き離す。
だめ、みないで、おねがい、
私の願いも虚しく明るくなった視界に全力で抵抗しても、最強様の力にかなうわけもなく。更に良く見えるように顔を固定されてしまっては、どうする術もなかった。
「それ、」
言い淀む悟は特別珍しいことじゃない。生徒や上の人間に対しては割と言葉を選んでいるのを知っている。だけど、同期である私や硝子、後輩の七海や伊地知に対しては、あまり言葉を選ばずに、そのまま悟の言葉をぶつけてくれる。
だから、私に対して言い淀んだところを見ると、やっぱり悟から見ても私の顔は酷いことになっているんだろう。……怖くて、鏡を見てなかったけど。
「誰?」
「ごめん」
「ごめんじゃないでしょ。上? それとも呪霊?」
「……私が、ミスった」
こんな顔、見られたくなかった。
悲しくて、悔しくて、涙がじわりと溢れてくる。
悟が顔に出来た傷をなぞる。私はただ、謝罪を繰り返すことしかできなかった。
「硝子、にはもう診てもらった後か」
「……うん、ごめん、」
「だからさ、さっきから何に対して謝ってんの?」
「ごめん」
悟は知らないでしょ。私が悟の隣に並ぶためにっどれだけ頑張ってたか。私が隣に居ることによって、周りからなんて言われているのかは知っている。
……顔だけだった。実力も無ければ中身に長けたところもない。顔だけは周りよりも綺麗な自覚はあったのに、それも、もう、意味がない。
キズモノの女を隣に置くなんて、誰が良しとするだろうか。
考えれば考えるほど悲しさが溢れて、ついに涙が零れた。それを優しく指の平で拭われる。
愛されてない、わけではない、と、おもう、けど。でも、それでも。厄介ごとが増えたことに変わりはない。
「……ごめん、行かなきゃいけないから、離して」
「ヤダよ」
「学長に、」
「そんなの後回し! 泣いてる彼女放ったらかしにする男がいると思う?」
「でも、だって、」
「学長には僕から言っておくからいいでしょ。それより、」
くるり、と体の向きを変えられて、まじまじと見られる。隠したいのに私の腕は悟に掴まれたまま、逃げ場なんてどこにもない。
きゅっと目を瞑る。溜まっていた涙が一気に零れた気がするけれど、もういいや。次にやってくる言葉を予想して、ただ心を無にする。
「……結構深くいったね。痛かったでしょ」
「……うん、」
「ま、これで安心かな!」
「え、?」
予想していた言葉とは全く違うものに、目を見開いた。すぐ先には目隠しを外して、心底嬉しそうに笑っている悟がいる。
理解ができない。ただただ首を捻って意味を問うた。
「お前さぁ、僕には負けるけど顔がいいじゃん? どれだけ他の男から守ってたと思ってんの」
「……はつみみ」
「そりゃね。だけどもう、僕がわざわざ出なくてもお前は僕だけのものなわけだ。そこら辺の男も寄り付かないでしょ」
「なんで、」
「なんで? 心配事が減ったんだよ」
「ちがう、ちがう! ……なんで、いやじゃないの?」
「それこそなんで?」
「だって、傷、もう消えないのに」
ただでさえよく思われてないのに、こんなんじゃ、わたし、
「逆に聞くけど、傷が出来ちゃいけないの? こんな仕事してるのに? それは無理じゃない?」
「そうかもしれないけど、でも、」
悟がころりと表情を変えて、今度はむっとしたような、拗ねたような顔を見せる。
「いいじゃん、言わせておけば」
「……さとる、が、」
「うん」
「私のことで、苦労してるの、知ってる」
「だから?」
「だから、……これ以上、苦労かけたくない、」
はぁ、とわざとらしく悟はため息を吐き出すのに、びくりと肩が揺れた。だってそうだ、私の言ったことは何も間違ってないはず。
頬に触れていた手が離れて、そっと抱き寄せられた。優しい温もりが私を包み込む。
「嬉しい苦労だよね、だってそれだけで好きな女を傍に置けるんだから」
あやすように、ゆっくりと、大きな手が私の頬を撫でた。
「……いいの? こんな、大きい傷があっても」
「むしろそれだけで今更離れられると思ってるなら、考え改めた方がいいよ」