道を絶たれた
目の前でカリカリとペンが走っているのをじっと見つめる。よくもまぁ迷わず書けるもんだ、と感心しかない。……緊張、しないのかな。
ぎゅっと握り締めた両手は汗で湿っていた。ごくりと口の中に溜まった唾液を呑み込んで、「ハイ」と渡された紙を凝視する。
――たった一枚の紙きれだ。
それは間違いない。間違いないけれど。
絶妙に癖のある字が半分ほどを埋めていた。
名前、住所、本籍地、その他もろもろ。悟が書かなければいけない欄は、すべて。
さっきまで悟に握られていたペンが手渡されて、震えたままの手で受け取った。
少し触れた指先で震えが伝わったのか、悟は目の前で声を殺すように笑う。
「笑わないでよ……」
「かわいいなって思ってるんだよ」
「うそだ……」
「ほんと」
テーブルの上で両腕をクロスさせて、少しだけ体を前のめりにしてじっと見てくるさとるの瞳は、あまくとけていた。
「緊張してる?」
「……、うん」
私の返事にふは、とついに隠すことなく笑い声を零した悟は、眉をハの字にさせて、愛おしさをめいっぱい詰め込んだ顔でわらった。
……悟は、時々私にそういう顔を見せる。
「そんなに緊張しなくても二枚あるんだし、落ち着いて書きなよ」
「うぅ……。うん……」
「ほーら、深呼吸しよっか」
ペンを握る手の上から大きな悟の手が重なって、そのままテーブルの上に置かれる。
じんわりとあたたかい温度が伝わって、かちこちに固まっていた体がほぐされていくのがわかった。
悟の声に合わせて息を吸って、吐き出していくとさっきまで緊張していたのがなくなった。
「落ち着いた? じゃあはい、書いてね」
「うん。……あの、あんまり見られてるとまた緊張しちゃう、から」
できれば見ないでほしいなー、なんて。
そう伝えると悟はきょとんと首を傾げた。そのあとぱちぱちと長いまつ毛を上下に動かす。
「せっかくさ、今から夫婦になりますって証明が出来るんだよ?」
「そうだけど、」
「一生に一回なんだよ?」
「……うん」
「そりゃ見るでしょ。お前が、自分の意思で、僕の妻になる瞬間なんだから」
それに、と悟は話を続けた。
「お前だって僕が夫になる瞬間を見届けたんだから、僕だけが見ないのは不公平じゃない?」
大丈夫。悟が私の手の甲を優しく撫でる。普段は命をかけて――それが最強だとしても、だ――戦っている手が、想像できないほどやさしく撫でるから。
それがなんだかくすぐったくて。
「例え失敗してももう一枚あるって言ったでしょ? だから気軽にさ」
「……わかった、見ててね」
「もちろん!」
覚悟は元から決めていた。それでも出なかった勇気をもらった。
まずは自分の名前を記入するために、そっとペンを握り締めた。
おまけ
「悟さ、一生に一回って言ってたけど私が失敗したら二回になるね」
「もー! そういうことじゃないのわかってるでしょ!?」
「ごめんごめん。悟が私のことを手放す気がないって言ってくれるのが恥ずかしくて」
「……僕の嫁、かわいすぎない?」
「まだ嫁じゃないよ」