たからものが増えた日
くるくると回らない、古臭い椅子を傾けながらスマホを触って、最近やけに体調が悪いという彼女と何気ないやり取りをしているところだった。珍しく任務も無く、たまにはと教師としての仕事の為に職員室――人が少ないので名ばかりの部屋――でサボりつつも仕事をしていた時、ぽん、とやってきたメッセージに驚いてバランスを崩した。「先生!?」
「……あ、悠仁」
「え、大丈夫なん? すげー音したけど」
「大丈夫大丈夫〜! ……いや全然大丈夫じゃないよ!?」
「えぇ……」
あまりの驚きに傾けていた椅子ごと背中を床に打ち付けたところに、たまたま悠仁がやってきて心配してくれるけどそれどころじゃない。普段なら無下限で痛みなんて全く感じないし、そもそも背中から倒れるなんてこと絶対にしない。しないけどこれは無理でしょ!?
倒れた時に手元から離れたスマホを拾い上げて、今どこにいる? と簡潔にメッセージを送れば家だよ、と可愛らしいスタンプ付きで返事が来た。
家ね、おーけーおーけー。
「悠仁ごめんね! ちょっと急ぎの用事が出来たから後は真希達に体術教わってて! じゃ!」
「え、先生!?」
倒れた椅子もそのまま、手をかけたままの書類も机の上に放置したまま部屋を飛び出す。途中慌てている僕に声をかける人が何人かいたけれど、今は構っている余裕すらない。普段部屋に籠りっぱなしの硝子もなぜかいて不審者を見るような目で見られたけど、この後のことを考えればその反応も変わるだろう。
はやく、はやく家に帰らないと……!
術式のことも忘れてバタバタと玄関の鍵を回す。中からスリッパの擦れる音が聞こえてくる。きっと僕が帰ってきたのを音で察して鍵を開けてくれようとしているんだろえけれど、そんなの待っていられなかった。焦るせいでうまく開けられないのに更に焦りながらも、なんとか開く。
「あ、悟くん」
「ねぇ本当!?」
「おかえりなさい」
ふんわりと笑って僕の質問を無視しながらも、のんびりと出迎えをしてくれる彼女は愛らしいけれど、それどころじゃない! 違うんだよ!
彼女の華奢な肩を掴んで、体に支障が出ない程度に揺さぶる。それをあらまぁなんてのほほんと笑っているのだから、なんていうか、マイペースすぎる。
この僕がここまで慌てるなんてそうそうないよ? なんでそんなに落ち着いてるの?
確認の為にずり上げたアイマスクの奥から姿を見せた瞳の中に映ることはなかったけど、よく考えれば当たり前だった。どれだけ焦ってたんだろ。
「悟くんお仕事は?」
「終わってないけど!?」
「え、じゃあどうして帰ってきたの? みんなに迷惑かけたらダメだよ」
「君があんなメッセージ送ってくるからでしょ!? ねぇところで本当なの? 嘘じゃない?」
「うーん。お話が終わったらお仕事に戻ってね?」
「……わかった」
ここで戻らないと言えば話が進まなそうなので渋々了承をする。彼女との会話はどんなにくだらなくても癒されて好きだけど、でも本当に今はそんな場合じゃないんだ。
そっと柔らかな手に引かれながら、二人で選んだソファに並んで座る。飲み物を用意しようとした彼女を無理やり止めて、で? と話を促した。一刻も早く話を聞きたいのに飲み物を入れるなんて、やっぱりマイペースすぎない? いやそこもかわいいんだけどさ……。
「うーん、送った通りなんだけど……」
「その説明を求めてるんだよね」
「ちゃんとした検査じゃないから、確定ではないよ?」
「流石にそれぐらい僕だってわかってるよ。でも、ちゃんと聞きたい。メッセージだけの報告なんて僕が許すわけないでしょ」
「……えっとね」
既に何を言われるかなんて知っている。知っているけれど、直接彼女の口から聞くのとメッセージで報告されるのとでは覚悟が違う。じっとりと拳のなかで汗が滲んだ。……あぁ、緊張している、この僕が。この感覚は少し懐かしい。まさか早くもまた味わうことになるなんて思っていなかったけど。でも、嫌な感覚でもなかった。
「……妊娠、したかも……?」
「……うん、」
「市販の検査薬だから、もしかしたら違うのかもしれないけど」
「うん」
「え、っと」
彼女の言葉を頭の中で反復させて、ゆっくりと呑み込んだ。はぁ、と大きく息を吐き出して、そっと体を抱き寄せる。あ、待って、泣きそう。
「確認するまでもないと思うんだけど、一応、一応確認ね? それって、僕との、こどもで、」
「違うって言ったらどうするの?」
「は? そんなこと言わせるわけないでしょ?」
うん、でもやっぱり心臓に悪いからそんなこと言わないでほしい。真面目に返したはずなのに彼女は楽しそうに笑っているだけで、きっと僕がこんなに振り回されているなんて彼女は知らないんだろう。知られたらまた笑われるんだろうけど、彼女の笑顔は可愛らしくて好きだから気づいて欲しいとも思う。
「大丈夫だよ」
小さくて、柔らかくて、よく見たら傷だらけで、それでも綺麗な彼女の手が僕を撫でる。そしてもう一度大丈夫、と囁くように言った。
そして、ありがとう、とも。
彼女が零した感謝が果たして何を指していたのかはわからないけれど、それでも、感謝を伝えなければいけないのは僕の方だった。
「明日」
「ん?」
「明日、僕と病院行こっか」
「一緒に行ってくれるの?」
「当たり前。ひとりで行かせるわけない」
「心強いなぁ」
わざとメッセージで報告をしてきた意味も、最初に震えていた声も気づいているけどあえて僕からは何も言わなかった。だって最後の声はいつも通りの彼女そのものだったから。
――もしかしたら本当は妊娠なんてしていなくて、ぬか喜びになるかもしれないけれど。
そしたらまた僕が頑張ればいいだけの話だもんね。
次の日、病院内で号泣する最強がいたとか、いなかったとか。