養いたい五条悟
目の前の男はただただ不思議そうに「なんで?」と口にする。普段見えないはずの綺麗なあおい瞳は、サングラスのおかげで少しだけ見えた。黒い硝子の奥でぱちぱち、と数回瞬きをして、もう一度心底わからないと言うように「なんで?」と同じ台詞を口にする。
なんで、なんでかぁ。
どうすれば目の前の男は納得してくれるのか考えを巡らせながら、数分前の自分の発言を後悔した。
* * *
五条悟は特級呪術師である。
それはきっと、この世界に関わる人間ならば誰もが知っている事実。そして、一級や準一級でさえなれる人は限られているというのに、さらに上に属する特級となれば片手で数えられる程度気にしか存在しない。
だから色んな場所に忙しなく飛び回るし、その上教師であると来たら、本当に丸一日休める日なんて一ヶ月に一度、いや半年に一度の割合でしか無かった。
そして万年人手不足のこの世界において、どれだけ弱かろうが私自身休みだって少ない。そんな中たまたま休みが重なるというのは、どれほどの奇跡なのだろうか。
そうして奇跡が起きた今日。特別何かをする訳でもなく、外に出かける訳でもなくのんびりと時間を過ごしていた。二人で家事をして、のんびり映画を見て、そんなありふれた、けれど滅多に出来ない時間を過ごして。
だから、たぶん、無意識だった。
本日何本目になるかわからない映画のエンドロールをぼーっと見つめて口から出たのは「働きたくないな」のマイナスな言葉。
「働かなきゃいいじゃん。呪術師辞めれば?」
それにすぐに言葉を返したのは隣に座る五条悟ただひとりで。いやむしろ他の人から返事があればそれはそれで恐怖なのだけど。
「いや、辞めないけど」
「なんで?」
本当に心底不思議そうに言うもんだから、私がおかしいんじゃないかと思ってしまう。けれど、そんなことは無いはずだし、そんな簡単に辞めれるもんでも無いでしょうに。
「働きたくないなら辞めればいいじゃん」
悟の言うことは最もであるが、社会人にそんな我儘は通用しない。どれだけ働きたくなくても働かなければ生活は出来ない。
「悟は簡単に言うけどさぁ」
「簡単じゃん」
「……確かに、貯金はあるから暫くは生活出来るけど、でもそれだっていつかは底を尽きるでしょ? そうしたら私は生活が出来なくなる。だから辞めない」
当たり障りのない、至極真っ当な理由を並べる。
例え一般人よりも給料が良かったとしても、働かずに生活するには限界がある。ただそれだけを伝えたのだけれど、目の前の男はやっぱり何も分かっていないようで「なんで?」と何度目になるかわからないその言葉を吐き出してから、ゆるり、と首を傾げた。
「なんでって言われても、その通りなんだけど」
「僕がおまえひとり養えるぐらいには金を持ってるのは知ってるでしょ」
今度が私が瞬きを繰り返す番だった。
「……養う、つもりなの?」
「うん」
あっけらかんと言い放つ悟に、頭を抱えたくなった。
いや、嬉しい。その気持ちはとても嬉しい、んだけど。でも、だからってそうですかお願いしますとは言えない。罪悪感で潰れる。私が。
「そもそもさぁ、僕からすれば早く呪術師を辞めて欲しいんだよね。ただでさえいつ死ぬか分からないのに弱っちいお前がちゃんと帰ってくる保証なんてどこにも無いわけじゃん」
「そう、だね……?」
悟からすればみんな弱いでしょ、とは言わずに飲み込んだ。どうせ言ったところで当たり前でしょ、なんて流れるように返されるのは目に見えている。
「その点呪術師を辞めてずっとここに居ればその心配もない」
「うん、」
「だから早く僕に養われてくれない? お前のことだからどーせ申し訳ないとか考えてるんだろうけどさぁ、僕的には辞めてここに居てくれた方が安心できるんだよね」
「それは、そうかもだけど、」
でも、やっぱり私はその話に頷けない。いい反応を見せない私に、やっぱり悟はなんで? と疑問を口にする。
いい条件だとは思う。命をかけることなくただ平凡に家の中で過ごせばいいのだから。家の中で過ごして、忙しい悟の帰りを待てばいいのだから。
でも、だからこそ。私にとってそれは断りたいものだった。
「別に、お前が辞めたところで誰も責めないよ」
「わかってるけどさー……」
「理由ぐらい話したら?」
口をもごもごと籠らせる私に痺れを切らしたのか、その声には少しイラつきが含まれていた。悟は元々そんなに気が長い方ではないから、ここまでよく耐えた方だと思う。
いつの間に外していたのか、黒い硝子に阻まれることなく真っ直ぐ見つめてくる瞳は「早く言え」と語っていた。
笑わないでよ、と前置きをして、姿勢を正す。
「……待つのが、いやだから」
「うん?」
「悟は、忙しいじゃん。こういう時間もあんまり取れないし、家に帰ってくることだって少ない、から」
もしかして、と悟は言う。その後に続く言葉を予想して、そうだよちくしょう、と心の中で罵倒した。
なんだか恥ずかしくなってそっと視線を外すと、それに気づいた悟が顔を持ち上げ無理やり視線を合わせる。目が合えば意地悪に笑って、その形のいい唇を歪ませた。
「さみしい?」
だって、それは、あまりにも恥ずかしすぎる。
固定されて動かせない顔の代わりに、目線だけを逸らす。それを肯定と捉えた悟は柔らかく笑った。
「……忙しいと、集中してる時は気になんない」
「うん」
「でも、ただ待ってるだけだと、次いつ帰ってくるのかなって。……だから、やめない」
元々、大きな理由があって呪術師になった訳じゃない。ただ、なんとなく。そんな理由で始めたのが今は寂しさを紛らわすためなんて。昔の私が知れば鼻で笑っていただろうな。
「へぇ、ふーん」
楽しそうな声が聞こえて「なに」とぶっきらぼうに返す。それに対してんー? と含みを持たせた悟は、こっち見て、と囁いた。
抗えないわたしは、恐る恐る悟の目を見て、
「やっぱりかわいいね、おまえ」
あおが、どろりととけた。