運命なんて存在しない
海に行こう、と誘ったのは私だった。最初は嫌そうな顔を隠すこともせずに、その顔通り嫌、とただ一言返されただけだったけど、何度も何度も誘う内に蘭の方が折れた。多分こんなにも私が粘ったのなんか初めてだったし、だからこそ折れてくれたんだと思う。
寒い、と鼻の先を真っ赤にしながら言えば、だから言っただろーが、と冷たい言葉。呆れたような声色の蘭だって、鼻の先は真っ赤だった。手袋もマフラーもしっかりつけているし、コートの下だって着込んだはずなのにどうしてこうも寒いんだろうか。体が震えるのを、全身に力を籠めることで止めようとしても失敗に終わった。
「ついたぞ」
「わーい! 海だー!」
防波堤の向こう側に、少しだけ濁った海が見える。欲を言えば綺麗な青が見たかったけど、近場の海がそんなに綺麗なわけがなかった。仕方ない、とここは諦めることにする。
今回だって私が粘りに粘ったから蘭が一緒に来てくれたのであって、二度目はきっとないだろうけど。
風が吹くと潮の香りがする、と同時に今まで以上の寒さが襲ってきた。ガタガタと震えてしまうのは仕方がない。だって寒いんだもの。まるで私の心みたいね、なんてくさいセリフを浮かべてみる。浮かべるだけだから誰にも、隣にいる蘭にも届かないけど。
「何がいいんだよ」
蘭が防波堤の上に腰を下ろす。ここまでは一緒に来てくれたけど、どうやら海を見る気は一切ないようだった。
せめて手を繋ぎたいな、と思っても両手はポケットに突っ込まれたまま。じっと見つめてみても、見ていることをわかっているだろうに知らんぷり。せっかくなんだから、もう少しぐらい私に寄り添ってくれてもいいと思うんだ。
「なんとなく、海だなって思ったの」
「こんなクソ寒いのに?」
「うん、海が良かった。来てくれてありがと!」
「またこの寒い中歩かなきゃなんねーの」
「それは私だって同じなんだけど」
まだ太陽は上にいる。だから車の排気音だって人の喋り声だって、どこかで行われている工事のうるさい音だって、全部全部聞こえる。だけど、それでよかった。早朝や深夜みたいな人が少ないであろう時間なんか、似合わないから。
「蘭」
「なんだよ。なー帰んねえ? さみぃ」
「もうちょっとだけ」
「先帰ってんぞ」
「だめー。蘭もここにいて」
「めんど」
「最後だから」
最後。こんなことを言うのも、ここに来るのも、最後だから。あと少しだけ蘭の隣にいたいの。
それなのに蘭はハ? と顔を顰めた。絶対に違うとわかっているけど、寒さで顰めたのかな、なんてとぼける。わからなくてよかったのに。気づかなくてよかったのに。
こういうときぐらい、察しの悪い男でいてよ。
「最後なわけねーだろ」
「……でももう来てくれないでしょ」
「当たり前」
「ほら!」
「誤魔化すんじゃねーよ」
「……、誤魔化されてくれてもいいじゃん。普段は知らないふりするくせに」
「そりゃ聞捨てならねーからな?」
隣から睨むような視線を感じて、必死に合わせないよう前を向く。相変わらず海は濁っていて、とてもじゃないが綺麗とは言えなかった。
「蘭、」
「話を逸らすなよ」
「逸らさないよ。ねえ、らん」
「……何」
もう、終わりにしよっか。
私の視線は変わらず前を向いたままだった。だけどほんの少し、バレないように上を向く。じゃないときっと涙がこぼれ落ちてもしまうだろうから。
ずっと、ずっと、気付いてなかったわけじゃない。事実から目を逸らし続けてただけだった。だけど、もう、ダメなんだ。
「これから、今まで以上に私のことが邪魔になるよ。そうはなりたくないの。だから、終わりにしよ」
暫くの、沈黙。
そして、
「オマエが言うなら仕方ねーよなあ」
それは、肯定の言葉だった。
ちくりと胸が痛んだ気がするのは、引き止められるとでも思っていたからなんだろうか。そんなわけないのに。蘭は、そういう人なのに。
ただし、蘭が言葉を続けた。何? 答えた声は震えてる。
「次オマエに会ったら問答無用で連れてくから」
そんなの、ズルいじゃん。そう思っても言葉にはならなかった。代わりに返せたのは頷きひとつ。
じゃあな、と防波堤から腰を上げた蘭が離れていくのがわかった。待って。思わず引き止めそうになったのを必死に抑える。だって私にその権利はない。私から終わりを望んだのに、そんなの自分勝手すぎる。
だけど、次と蘭が言ってくれたから。だから、あるかもわからない次のために、私はきっと生きていける。