前の主が好きだった鶴丸の話
「初めまして。これからよろしくお願いします、鶴丸さん」「……ああ、こちらこそよろしく頼む」
蝉の声が聞こえる。
私が本来生きていたはずの時代と天気を合わせている当本丸は今日も今日とて快晴だった。空は雲ひとつ無く、真ん丸な太陽が地上を沸騰させている。じっとりと溢れる汗が鬱陶しい。背中は服が引っ付いていて不快だった。
そんな中、鶴丸国永と言う名の神様はやって来た。
他の刀剣がチラチラと様子を伺っているのが私にもわかった。気配を消していないのだから当然だ。当たり前のように、目の前の真っ白な神様も気が付いているだろう。
鶴丸国永は、他の本丸から譲られた刀だった。詳細は不明だが、とある理由で主をなくした彼は特に刀解を望む事をせず、まだ鶴丸国永の居ない私の所に譲る目処が立ったのだと言う。
とくん、とくん。
通常よりも僅かだけ心臓が早く脈打っている。その音は比較的控えめなものだけれど、確かにいつもとは違った。
演練や他の審神者から聞くような無邪気な様子も無く落ち着いている彼は、顕現されてから三年が経っていた。
「もうこの本丸には慣れましたか?」
「ああそうだな。他所から来た俺にも皆優しくしてくれるさ」
彼の言葉にほっと息を吐いた。
傍から見て馴染んでいるように見えていたのは見せ掛けでは無かったらしい。その事に安心しつつ微笑んで見せると、鶴丸も同じように目を細めて口角を上げた。
どうやら不安がっていた事を察していたらしい。その笑みは、私を安心させるものだった。
譲り受けた刀など居ないこの本丸でどうなる事かとは思っていたが、思いの外順調らしい。みんな優しい神様であるから、何か問題が起きるとは思っていなかったけれど。
鶴丸がうちの本丸にやって来てから早一週間。本丸に慣れてもらう為にも、まだ出陣は一度もしてもらっておらず近侍ばかりだったけれど、そろそろ良い頃合だろう。
「鶴丸さん、そろそろ出陣をお願いしてもよろしいでしょうか?」
「勿論だとも、任せてくれ。驚きの結果をきみにもたらそう!」
「……怪我は止めてくださいね」
鶴丸の練度は最高に達している。余程難しいと言われている戦場で無ければ怪我をする事も無いだろうが、暫く戦う事をしなかった身体がどれだけ鈍ってしまっているのか、安全地帯で指示を飛ばすだけの私にはわからなかった。出陣してもらう前に一度誰かと手合わせでもしてもらうべきだろうか。
今までは本丸に慣れてもらう事を優先していた為、言い渡していたのは手合わせ以外の内番ばかりだった。やっぱりいきなり本番、よりは手合わせをしてもらおう。その方が私だって心配しなくて済むし、鶴丸だって本調子が出せる方が良いだろう。
そうなれば決めなくてはいけないのは手合わせ相手だった。うちには既に修行を行った刀が何振りかいるが、極相手だと鶴丸が一方的にやられて終わってしまうだろう。強い事は知っているが、やはり練度には敵わない。出来れば同じ刀種で、まだ極めていないもの……。
口元を手で覆って考え事に勤しむ私を、彼はじっと見つめたままだった。
「鶴丸さん、出陣の前に何度か手合わせからお願いしてもいいですか?」
「手合わせ? ああ。構わんが」
「ありがとうございます。早速明日から手合わせをお願いしますね」
「相手は誰にするんだ?」
「そうですね……」
頭に浮かぶのは彼と同じ家に存在したとされる刀たちの顔だった。これは本丸の主として過ごしていて思う事ではあるが、やっぱり過去同じ主に使えた物同士や同じ刀工で生まれた物同士の方が良く一緒にいると思うのだ。だから鶴丸の手合わせ相手も見知った方がいいだろうと考える。
その中でも大倶利伽羅は明日出陣をお願いしていたはずだし、お願いするならばやっぱり彼だろうか。時期が違うから一緒に居た事は無いとか聞いたような気がするけれど、歴史に疎い私には良くわからなかった。……これでも勉強はしてるんだけどな。
「主?」
「ああ、すみません、考え事をしてました。手合わせの相手ですよね? 燭台切とかどうですか?」
「いいんじゃないか? きみの采配に任せよう」
「ありがとうございます。でしたら燭台切の方にもお願いしてきますね」
正座していた足を崩して立ち上がると、鶴丸も同じように立ち上がった。どこかへ行くのだろうか? いや自由ではあるが、鶴丸は今近侍に任命している。
私が首を傾げると、鶴丸も傾げた。湿度の高い気温で、動いてなくてもじんわりと汗をかいている私は髪を肌に張り付けてしまっているけれど、私よりも厚着をしているはずの鶴丸は汗一つ見当たらなかった。綺麗な髪が横に流れている。太陽のある外に出ればその髪は光を反射してキラキラと輝いていたであろう。
「光坊の所へ行くのだろう?」
「そうですね?」
明日の予定は早めに伝えた方がいいだろうから。燭台切の事だから厨か自室、もしくは団欒室とかにいるとは思うのだけど。
「?」
「?」
お互いの頭の上に疑問符が見えた。
そこまで広くない執務室の中、立ち上がった二人が見つめ合いながら首を傾げている光景は客観的に見たらどう映っているのだろうか。いやどう映ってるも何もそのままか……。
「主? 今大丈夫かな?」
「ヒェ!? だ、大丈夫!」
「……開けるよ?」
「うん!」
いきなり外から声がかけられて返事が裏返ってしまった。大げさに揺れた肩とドクドクと煩く心臓が暴れている。胸に手を当てて深く呼吸を繰り返す。
襖が引かれたそこには、今から会いに行こうとしていた燭台切が内番服で立っていた。手には小さなお盆があり、その上には湯呑が二つと急須、お茶請けの和菓子がぽつん、と置かれていた。
あ、そうか。もうそんな時間か。
あんまり意識をしていなかったけれど、どうやらおやつの時間らしい。
「ところで、どうして二人して立ってるの?」
「光坊に会いに行こうとしていたんだ」
「僕に?」
燭台切の視線が鶴丸から私へと移動する。
縁を踏まないように中に入ってきた燭台切は机の上に散らばっている書類達を見て一瞬動きを止めたあと、素早く片してお盆を置いた。
「とりあえず座りなよ。主も鶴さんも。お八つの時間だよ」
「お、もうそんな時間か。頂こう」
「ありがとう〜……」
鶴丸が私のすぐ横に腰を下ろすから、私はさっきとは違う意味で心臓を暴れさせる。一瞬だけ息が詰まったのには燭台切しか気が付いていないようだった。しかしそれをわざわざ口にすることも無く、燭台切は湯呑と和菓子を私達の前に配膳する。
「これ、歌仙?」
「流石主。よく分かったね」
「歌仙の作る和菓子は細かいんだよねぇ」
「きみは作り手の違いが分かるのか」
「まあ長い事暮らしてますしね、自然と分かるようになりました。もちろん燭台切のもわかるよ」
「嬉しいねえ」
湯呑にお茶が注がれていくのを眺める。湯気が立ち昇ると緑茶の良い香りが漂っていく。
審神者になってから良く嗅ぐようになったこの香りは、今ではもう落ち着く香りへと変わっていた。普段通りであればほっと一息吐けるはずなのに、私の心臓は未だ忙しなく動いたままだった。
彼の座っている左側を意識してしまって変な動きになっていないか気になってしまう。きっと少し変な、ぎこちない動きになったとしても彼は気付かないか――もしくは、知らぬフリをするだろうけれど。
いただきます、と一度手を合わせてから和菓子に手を付ける。しつこくない甘さは、甘すぎるとすぐに胸焼けを起こしてしまう私に配慮して作られたものだった。
「美味しい……」
「歌仙くんに伝えておくね」
「私も伝えるよ」
「うん、その方が喜ぶだろうね」
で? 燭台切が首を傾げた。じっと見つめられて何のことか分からずに見つめ返すことしか出来ない。
な、なにかあったっけ?
「僕に用事があったんでしょ?」
「俺の手合わせの件だな」
「あ。あぁ! そう! 忘れてた!」
「おいおい、しっかりしてくれよ」
「手合わせ?」
「そうそう。そろそろ鶴丸さんにも出陣をお願いしようと思って。その前に手合わせしてもらった方がいいかな〜って」
「うん、僕もその方がいいと思うよ」
「だよね〜。それでその相手をお願いしたくて」
「もちろん、任せて」
「お願いします」
燭台切の突然の登場と美味しいお菓子によって完全に頭から抜け落ちてしまっていたが、伝えたい事を伝えられて良かった。鶴丸が要件を覚えていてくれたおかげだけれど、頼りない姿を見せてしまった。
呆れられていないだろうか。ちらりと覗き見た横顔は、私が知っているものと何も変わりがなかった。
安心すればいいのか、寂しく思えばいいのか。
「それじゃあ明日、よろしくね」
自分勝手に気まずさを覚えた私は、そうして会話を切り上げる。
庭では元気に蝉が鳴いている。そろそろ夏は終わるだろうか。
懐かしいね、と燭台切が呟いた声は私にしか届かなかった。
「つ、鶴丸が!?」
第二部隊の隊長である乱からの報告に、執務室を飛び出した。目指す先は転送装置である。今日の近侍である一期には資材の準備を言い渡して長く感じる廊下を走り抜けた。
白い息が口から吐き出される。普段運動をしない身体は少しの距離でも息が上がるが、今は構っていられない。
早く、早く装置まで行かなければ……!
「みんなおかえり! 鶴丸は大丈夫!?」
「主さん! こっち!」
「ああ主、かすり傷だ」
「つ、鶴丸、さん、それをかすり傷とは呼びません。手入れ部屋の準備をしてるので向かってください!」
恐らく片目が見えていないのだろう。血の垂れる目を閉じて、一人で立っているのも難しそうな姿はとてもじゃないがかすり傷≠ニは程遠い。
鶴丸を支えている獅子王に目配せをして手入れ部屋に運んでもらう。行くぞー、と声を掛ける獅子王に鶴丸は困ったような顔をするだけだった。
ゆっくり引き摺られるように連れられるその背中を見つめて、腰が抜けた。地面に座り込んでは服が汚れてしまうが、今は自立することが出来ない。
「主さん、ごめんなさい……」
「なんで乱が謝るの?」
「だって」
「必要の無い謝罪はするもんじゃないよ」
彼らが向かった戦場はいつもと変わりない場所だった。練度を考えても良くて無傷、悪くても刀装が剥がれる程度のはずだった。だから私は隊長に判断を全て任せて他の仕事をしていた。それが悪いのだけど、油断していたのだ。
だって鶴丸の練度は最高に達している。他の皆も極以外は最高練度だった。それに検非違使が現れたとしても、部隊の半数は極めているから大丈夫だと過信していた。
だから今回鶴丸が負傷したのは、全部私の責任だった。
気落ちする心を、今はその時じゃないと奮い立たせる。まずは鶴丸の手入れをしなければいけない。
乱の手を借りて立ち上がる。服に付いた汚れを払って背筋を伸ばす。
「乱、報告は後でお願い。他にも負傷者が居たら手入れ部屋に来てください」
蝉の鳴き声はとっくに聞こえなくなって久しい。太陽が沈む時間が早くなって指先が悴み始める、冬になり始めたこの季節。
鶴丸は、この本丸に譲られてから初めて重症を負った。
手入れ部屋にいる鶴丸は、衣服が掠れると痛みを伴うのか、一番傷が深いであろう上半身を晒して座って待っていた。閉じられていた瞼に垂れていた血は拭われている。
傷から、血が流れている。それは止まることなく流れ続けており、床を汚していった。彼らが貧血になる事は無いと分かっていながらも、その光景は私を焦らせるには十分だった。
「鶴丸さん、お待たせしました! 今すぐ手入れします!」
「頼む」
一期が準備してくれていた資材を使って手入れをしていく。晒された刀身で私が怪我をしない様に。早く傷が癒えるように祈りながら。
鶴丸を始めて出陣させた時からもう暫くの時が経っており、何度も出陣してもらっていたがここまで負傷する事が一度だってなかった。それは私の怠慢が原因ではあるけれど、珍しい、と思うのだ。責任転嫁をしたいとかではなく、素直に。
鶴丸国永という刀は、聡明な刀だった。
心を動かすような驚きが大好きで、日常の些細な変化を楽しむ事が出来る刀。酔狂な性格をしているがその中では落ち着いた心を持っている。戦闘では少しばかり、確かに彼も刀の付喪神なのだと思い知らされる面もあるが、慣れている戦場でこんな傷を負うような刀では無いはずだった。
だから私はそれに対して珍しいなと思う。
無言で手入れの時間が続いていく。鶴丸の身体を見れば時間が経過していくにつれ塞がっていく傷に胸を撫で下ろした。折れること無くしっかりと治っていく姿に安心したのだ。
「珍しいね」
だから、ついぽつりと思っていた事を呟いてしまった。
自分が口にした言葉を自覚した瞬間、顔を上げて彼を見る。鶴丸は微かに目を見開いて少し意外そうな顔をしていた。
「そうかい?」
「……いや、ごめんなさい、気にしないでください」
口にするつもりなんて一切なかった、はもう言い訳にしかならないけれど。それでも本当なんだ。つい気が抜けてしまっただけであって。この思いが鶴丸に届く事は無いのだろうけれど。
また無言の時間が過ぎていく。そういえば他に手入れ部屋にやって来る人がいないということは、この戦で負傷したのは鶴丸だけという事なのだろうか? 迎えた時に焦っていたとは言えざっと負傷者の確認はしていたが、確かに見える範囲で傷を負った者はいないように思えた。
「すみませんでした」
私のつい溢れた一言により、若干の気まずい空間が出来上がってしまった。その空気をなくす為に負傷に関しての謝罪を口にすれば、鶴丸の眉間にシワが寄った。
「……それは、何に対しての謝罪だ?」
「今回鶴丸さんが怪我をしたのは私の責任です。ごめんなさい」
「それは、」
それは、ともう一度同じ言葉を鶴丸が続けるから、私の手は思わず止まる。
どこを見つめているのか。確かに彼の金の瞳には私の姿が映っているのに、目が合わない。
「違うだろう。主の責任じゃない」
「乱に全て任せてしまった私の責任です。本当なら私がきちんと指示を出さなければいけなかった」
「それを言うのであれば慣れた場所で油断をした俺が悪い。乱にも主にも原因は無い」
「……油断を? 鶴丸が?」
ああ、と頷いた鶴丸と、まだ目が合わない。
「考え事を、していた。その時にやられたものなんだ。俺の方こそすまない、主の手を煩わせたな」
「……これが、私の役目なので」
「そうか。……それにしたって必要の無い謝罪はするもんじゃないぞ」
「…………うん、」
何を考えていたのか、聞いてもいいんだろうか。
過った考えは言葉になる事が無かった。きっと、聞かない方がいいのだと頭のどこかで理解していた。私が聞いても大丈夫であるなら鶴丸の方から教えてくれるだろう。つまり彼の考え事に私は関係ない。彼の問題だという事だった。
口を閉ざしてしまったせいで会話が終わりを告げた。
▽
「主さん、ちょっといい?」
「乱? どうしたの?」
本日の業務は終わった。お風呂も済ませ、あとは就寝するだけの、夜も深まった時間帯。
私室の襖を隔てた向こう側から乱の声が聞こえる。月明りが示すシルエットは彼のものだった。
本来ならこの時間に私室に近寄る人はいない。寝る時も近くに誰かにいるのが落ち着かないと初期に伝えていた結果だった。
ただし例外は存在する。急用がある場合やよっぽどの事があれば気にせず来てくれと言ってあるから、今回の乱の訪問はそのどちらかなのだろう。
「鶴丸さんの事なんだけど……」
言いづらそうにしている乱の言葉に身体がぴくりと反応した。
鶴丸はあれからも乱が隊長を務める第二部隊で活躍してもらっている。あの負傷以来彼が怪我をして帰ってくることはなくなったけれど、普段から一緒に行動するようになった乱には何か気にかかる事でもあったのだろうか。
布団に入って横になっていた身体を起き上がらせる。布団で温まっていた身体が外気に晒されて一気に冷えた。腕を擦りながら部屋の隅に置いてあるストーブの電源を付ける。部屋が完全に温まるまでは少し時間が必要だろう。
入っていいよ、と許可を出せば恐る恐る襖が開く。ほんの少しの隙間から顔を覗かせる乱に手招きすればゆっくりと歩みを進めた。隙間から、雪が降っているのが見えた。
私の横の布団をぽんぽんと叩けば乱はそこに腰を下ろした。顔は俯き気味で見えない。
「鶴丸がどうしたの?」
「その、……この前、相談されたんだけど」
「……鶴丸が?」
「うん」
「へぇ」
それは、また珍しい。
俯いていた乱がゆっくりと顔を上げる。揺れる瞳とぶつかった。なぜだか乱は、泣きそうな顔をしていた。
「乱……?」
「最近、というか、前に鶴丸さんが重症になった時ぐらいから上の空な事が多くて」
「うん」
「それでね、ボク言ったの。また怪我するつもりなの? って。また主さんに心配させるの? って」
……初耳だ。そんなやり取りが彼らの間で交わされていたなんて。
それにしても鶴丸が上の空だった事にも気が付かなかった。部隊に入れてからは近侍を任せる事が少なくなったから、気付けなかったのだろう。出来る限り全員を見るように気を付けてはいるし、相手が鶴丸であるなら尚更だけれど。どうしたって零してしまう事はある。……だから気付かなかった、なんて。言い訳だろうか。それとも私は、無意識の内に見て見ぬふりをしていたのだろうか。
「そしたら相談されて、」
「うん。ねえ乱、それは私に言っても大丈夫なの?」
「言うなとは言われてない! それに、主さんには知っててもらいたくて……」
鶴丸が乱にした相談事の内容がいまいち掴めなくて身構える。私に知っててもらいたい、と乱が言うというならば、それはきっと私に関する相談事だったはずだ。そうでなければこんな時間に尋ねてまで言いに来る事は無いだろうし、彼何よりの表情がそれを物語っていた。
乱はぎゅっと拳を作って、まだ迷っているようだった。その様子に、本当に私が知っても大丈夫なのだろうかと不安が過るが決めたのは乱本人だから口を挟むことはしない。
いつ相談を受けたのかはわからないが、乱も乱で悩んだはずだ。悩んだ末に私に話すと決めたのなら、私はそれを聞く義務がある。
意を決したのであろう乱は、ゆっくりと口を開いた。
「あのね、――」
私は、鶴丸国永という神様に恋をしていた。
最初は理解が追い付かずに弄んでいたこの感情に名前が付いたのは随分と後だったけれど、きっとこれは一目惚れというやつだった。初めて見た時から心を奪われていた。
彼の事を見ると心臓が苦しくなるぐらい締め付けられて、笑うとこちらまで嬉しくなってしまう。真っ白な姿を常に探しては目で追う日々だった。
好きだった。鶴丸の事が。初めて会った時から。
だけど私はその気持ちを伝える勇気も無かったし、立場でも無かった。鶴丸だけを贔屓するつもりだって無かった。
刀剣男士と審神者。従える側と従う側。――神様と、人間。
どう頑張っても一緒になれる未来なんて見えなくて、その度に悲しくて仕方が無かったけれど楽しそうに日々を過ごす彼を見るだけで良かった。幸せになれた。贔屓するつもりが無いとは言ったって、誰よりも幸せでいて欲しいと願ってしまった。
乱から鶴丸が上の空であると報告を受けてから注意深く観察するようにしていると、確かに彼は、とある時に上の空になっているようだった。
それは雲ひとつない青空を見た時。
それは蕾だったものが花を咲かせた時。
それは美味しいものを発見した時。
それは、満開の桜を見上げた時。
ぼーっとそれらを見て感じては、慈しむように目を細めて笑う。その目は、愛情の籠ったものだった。その目は、――特別だった。
誰に向けているのかは分からない。分からないけれど、確かに、
つまるところ、私は呆気なく失恋したのである。
「主、少しいいか?」
どうぞ、と声を返せば直ぐに失礼する、の言葉と共に襖が開かれた。なぜだか内番服では無く戦装束を身にまとっている鶴丸の表情は硬い。思わず身構えて、本日の近侍である燭台切に目をやった。
鶴丸は入ってすぐ、私と燭台切の二人と対面する形で胡座をかいた膝の上に手を置いて堂々と座る。
「……光坊、悪いが少し席を外してくれないか」
「僕には聞かれたくない話?」
「ああ、……ああ、そうだな。出来れば」
「主」
どうする? と、燭台切が音もなく問い掛けてきた。
正直、燭台切には居て欲しい。鶴丸の表情からして良くない話をされる予感がしているから、一人で受け止められるか自信が無い。だからと言って、わざわざ席を外して欲しいと言うのだからそれ相応の話がしたいのだろう。
鶴丸の要望を呑むか、心の安寧を取るか。どうするか悩んだのはほんの少しだけだった。
「燭台切、外してくれる?」
「……主がいいのなら、僕は構わないよ」
「うん、大丈夫」
「じゃあ僕は夕餉の仕込みでもしてこようかな。鶴さん、終わったら呼びに来てくれる?」
「すまない、感謝する。もちろん行くさ」
手をひらりと揺らして退出する大きな背中を最後まで見届ける。改まった様子の鶴丸に緊張感は増すばかりで、口の中に溜まった唾液を飲み込んだ。
燭台切の足音が遠ざかるのがやけに大きく聞こえるのは、あまりにも対面している鶴丸から逃げたいからに他ならなかった。絶妙に鶴丸から逸らしている視線は、たぶん、気付かれている。
「主」
「……っ、はい、なんでしょう」
鶴丸の硬い声、硬い表情に、私の声が裏返る。真剣な色を灯した金の瞳が、真っ直ぐに私を見ている。
ああ、やんなっちゃうな。こんな時でさえ胸が踊る。その目が私を映してる事が嬉しいなんて、相手は真剣なのに。
「――すまない」
静かな声だった。波すら立たない、水面すら生まれない、静かな声。
鶴丸は頭を下げた。その言葉に見合うように。髪が重力に従って落ちている。長い前髪が完全に顔を隠してしまっていた。
「……鶴丸は、私に謝らなければいけない事を、しましたか?」
私には鶴丸が謝罪してくる意味がわからなかった。わざわざ近侍を部屋の外にやってまでする謝罪は、何の意味を持っているのだろうか。
私の声は震えていなかった。いきなりの謝罪に驚いたと言えばそうだけれど、動揺はしなかった。
なぜか?
「した。してしまったんだ」
……なんとなく、察していたからだった。
真剣味を帯びた顔をした鶴丸が部屋を尋ねてきた時点で。硬い声色をさせているのを聞いた時点で。何の話をしに来たのか予想は着いていた。だからこそ燭台切には居て欲しかったのだけれど……、本人がいない事を望むのならば、仕方がない。
「謝罪される心当たりがありません」
「それは、……きみからすれば、そうかもしれんな」
「理由を聞いても?」
聞きたくない、と心が叫んでいる。
けれど私は聞かなければならない。本当は乱から既に聞いているけれど、私は本人の口からしっかりと聞かなければ、いけない。
「主は……、きみは、俺の事をどれぐらい聞いている?」
「政府から、という事で?」
「ああ」
「…………顕現してから政府に預かられるまでの
そうか。そう呟く鶴丸の表情がいくらか和らいだ。
――鶴丸国永は、所謂訳ありと呼ばれる刀だった。顕現した審神者に何か問題があった訳では無い。だけども突然、鶴丸の記憶がすっぽりと抜けてしまったのだと。一時的に政府預かりになった彼に記憶が戻る気配は無い。原因も不明の記憶喪失。政府はそう結論づけた。
本丸での記憶が無くても戦える。元よりそういう役目を持っている刀の付喪神であるし、身体は覚えていた。
しかし、ここで問題が出た。
鶴丸を顕現した審神者が、新しい鶴丸国永を顕現させたのだと言う。だからと言って身勝手な都合で刀解する訳にもいかない。どうするべきか政府も悩んだのだと言う。
そこで目処が立ったのが、私の本丸だった。まだ鶴丸のいなかったこの本丸に、譲ろうと話がまとまったらしい。当事者である鶴丸も了承した事によって事はスムーズに進んだ。
「その件なんだが、」
鶴丸が少しだけ顔を上げた。伏せた瞳はまだ見えない。表情も影で薄らとしか見えない。
「恐らく、なんだが。……前の本丸の記憶が、少しだが戻ってきている」
あのね、鶴丸さんの記憶、ちょっと戻ってきてるみたいなんだ
乱からひっそりと打ち明けられた言葉が頭の中に反響した。
知っているから驚きはしなかった。彼から何か話をされるとしたらこれだろうと分かっていたから。ただ、乱から聞いた時からかなり時間が経っているので、今の彼がどこまで記憶を戻しているのかはわからなかった。
「戻りたいですか?」
私の質問に、鶴丸はゆるく首を振った。
「戻りたいとは思わんさ。まだ全てを思い出した訳じゃない、主の顔さえぼやけたままだ。そんな状態で戻ったところで何にもならんだろう? それにそこには既に鶴丸国永が居ると聞いている」
「……そうですか」
どうやら鶴丸が乱に相談を持ち掛けた時から特に変わりはないようだ。戻りたいと思わないというのも、乱から予め聞いていた事なので驚きはしない。今回は動揺もしなかった。
しかし気になる事が一つ。
前の主の事を思い出しているからと言って、私に謝罪する意味とはなんだろうか。思い出せたならそれでいいじゃないか。戻るつもりは無い、戻れないと分かっていても、謎の空白部分が存在するよりは生きやすいはずだ。……たぶん。私には記憶を失った事がないから、あくまで想像の域を出ないけれど。
「話はまだあるんだ」
「……何ですか?」
ここから先は、聞いていない。
前情報の無い話に、心の覚悟は決まらないが時間は待ってくれない。
ごくり、と唾を飲む。緊張感の漂う雰囲気に、手が震えた。私は真っ直ぐ前を向いているはずなのに、鶴丸とは目が合わない。
「――俺はどうやら、前の主が好きだったらしい」
……ああ、もっと早く言ってくれたら良かったのに。