愛してほしい、なんて言わないから
ガコン。大きな音を立てて自販機の取り出し口に自分が選んだ飲み物が落ちてくる。しゃがんで取り出せば外との温度差に身体が震えた。プルタブを爪で引っ掛けると炭酸特融の空気が抜ける音がした。全身を冷やすように一気に飲み込むと口の中がしゅわしゅわする。この感覚が好きで飲むのを止められない。
はぁ、と半分ほど飲み干して息を吐いた。甘ったるい甘味料の味が口の中に残る。
残りは味わうように飲みたくて、自販機の近くに置かれているベンチに座り、今度はちびちびと飲み始めた。
「すみません」
「? はい」
私に被る影が濃くなって、誰か来たのだと気づく。下げていた頭を上げると、綺麗な着物に身を包んだ女性が立っていた。
「あなた、悟様とお付き合いされている方ですよね」
「あー……、はい、そうですね……?」
目的を理解してしまって苦笑いしか出てこない。
何度もこういう場面にはあってきた。いや当事者なんですけども。でもこうなった場合、だいたい後に続く言葉は二パターンのどっちかだ。
目の前の女性はふん、と鼻で笑った。
「あなた、悟様に愛されていると勘違いしない方がいいですよ」
「大丈夫ですよ、安心してください。別に愛されてるとは思ってないので」
「……は?」
ぽかんと口を開けて驚いている女性が目の前にいる。言葉がまだ柔らかい分、今までやっうてきたどの女性よりもいい人のように見える。
――実際に彼女の言う通りなのだ。付き合ってもうすぐ十年が経とうとも、一緒に住んでいたとしても、何度も体を重ねたとしても、そこに彼からの愛がないことは最初からわかっている。
ただの気紛れ。もしくはちゃんと愛せる人が出来るまでのつなぎ。どうせそこら辺。
それを理解した上で別れずに今まで恋人のポジションに納まっているのは、どうしようもなく私が悟のことを好きだから、なんだけど。
「……なら別れていただいても?」
言葉に疑問符はついていても、彼女の中で私が別れを切り出すことは確定事項なんだろう。それ以外の選択肢なんてありませんと言うように、彼女は私をじっと見つめる。
ただ、それは、私には出来なかった。
「ごめんなさい」
頭を出来る限り深く下げる。
それは出来ない。だって好きなんだもん、悟の事。彼から別れを切り出されるならまだしも、例え都合のいい女だったとしても、私からなんてとても出来ない。
「どうして? 愛されていないと自覚していて付き合っている意味はあるの?」
「べつに、私が好きだから、ですけど」
「虚しくならないの?」
「最初からわかった上で付き合ってるので」
「意味無いじゃないの!」
ぐつと拳を握っているのが見えた。彼女もきっと悟の事が好きなんだろうな。
景色を目に焼き付けて、瞼を降ろした。ゆっくりと頭を下げる。
「意味がなくても、私が悟に事を好きな以上、別れるつもりはありません。ごめんなさい」
――何を言われても、私は別れるつもりなんてない。
* * *
暑いなぁ、と思う。全身真っ黒なこの服は着慣れていて動きやすくて重宝しているけれど、日差しのキツイ日には熱を集めて暑いったら仕方がない。どうにかなんないかな〜。憂太みたいに白にするのもいいかも。
いっそのこと上は脱いでしまおうか。
ふわふわとした思考を巡らせながら、高専内を歩く。
――「あなた、悟様とお付き合いされている方ですよね」
――「あー……はい、そうですね……?」
歩いていただけなのに名前が聞こえてきて足を止めた。その内容と二つ目の声に聞き覚えがありすぎる。そっと盗み聞きが出来るように声が聞こえた場所に近付いて、姿が見えないように隠れた。
大切な彼女と、見覚えのない女。誰だアイツ。
身にまとっている着物からして本家関係であろうことは予測できるが、女の顔に見覚えが無さ過ぎてどこの誰なのか一切わからない。
まあ、わからなくても必要なら自分が出て行けばいいだけの話なのだけれども。
――「あなた、悟様に愛されていると勘違いしない方がいいいですよ」
はぁ〜? めちゃくちゃに愛してますけど? なに? 勘違いしてんのはそっちじゃないの? バカなの? 誰か知らないけど。
――「大丈夫ですよ、安心してください。別に愛されてるとは思ってないので」
――「……は?」
……は?
二人は会話を続けているがそれどころじゃない。音として耳には入っているものの、それを言葉として認識する前にすり抜ける。
なに? もしかして今までの全部伝わってなかったの? 好きだと、愛してると言ったことも全部嘘だと思ってたわけ?
待ってくれ。僕たち何年付き合ってる……?
それなりに長いこと付き合って、そろそろ結婚もいいかな、なんて思っていたのに。
――「意味がなくても、私が悟の事を好きな以上、別れるつもりはありません。ごめんなさい」
二人の会話は彼女の言葉で締め切られた。
その言葉に一方通行ではなかったことに安心してる場合じゃないよ、僕。彼女からすれば一方通行だと思われてたんだから。
まだ飲みかけだったんだろう。手に持った缶を捨てることなく立ち去る彼女を見届けて、余計な口を挟んだ女の前に出た。
* * *
鍵の回る音がして、パタパタとスリッパを鳴らしながら玄関に向かう。ちょうど到着したときに扉が開いて、真っ黒は悟の姿が見えた。
「おかえり」
「ただいま〜」
「もうご飯できてるよ。先に食べる? それともお風呂?」
「三つ目の選択肢はないの?」
「ないよ、疲れてるでしょ」
んー、なんてのんびりした声を出しながら黒い目隠しを押し上げて、その奥に隠れていた蒼眼が姿を現す。いつ見ても綺麗。一切曇らないその綺麗な瞳が大好き。
晒していると疲れるらしいからそれを伝えたことはないけど、悟は家にいる間はずっと目隠しもサングラスもつけようとしない。だから多分私が好きなことはバレてる。
「先にご飯かな」
「わかった、温め直してくるね」
その間に部屋着に着替えてもらって、簡単に温め直したご飯を一人分、机の上に並べる。
寝室から出てきた悟は椅子に座って両手を合わせてから律儀に「いただきます」と挨拶をする。そして無言で食べ始めた。
暫くして「ご馳走様」が聞こえる。続いて食器の運ばれる音が聞こえて、私はソファから立ち上がった。
食べ終わったのならお風呂でも沸かそう。それまで悟にはゆっくりしてもらって、
「……悟?」
「ちょっとこっちにおいで」
「お風呂は?」
「後でいいから。こっちが先」
風呂場に向かっていた私を呼び止めて、またソファに座れと指示してくる悟に従って隣に腰を下ろそうとすれは、「違うでしょ」と止められる。
隣じゃないならどこだろう。もしかして床?
どうするべきか悩んでいた私を軽々と持ち上げて、自分の足の上に座らせたのは勿論悟しかいない。重いからと腰を浮かそうとしても、がっしりと腕が回ってしまっていて抜け出すことも出来ない。
そのまま私の首へと顔を埋めた悟は、深く呼吸を繰り返す。
もしかして私が思った以上に悟は疲れているのかもしれない。髪の毛がくすぐったいのを我慢してそっと頭を撫でると、悟が一際大きく息を吐き出した。
「好きだよ。……すき、すき。大好き」
「う、ん……? どうしたの急に」
「あいしてる」
「悟……?」
「それなのにさぁ」
ぐっと悟の頭が離れて、きれいな瞳に見つめられる。その顔が少し拗ねているようにも見えて、心当たりのない私はどうすることも出来ない。
「全く伝わってなかったんだってね」
「……えっと」
「いつから? もしかして最初から?」
「ちょっと」
「出来る限り伝えてきたつもりだったんだけど」
「さとる、」
今日はどうしたんだろう。リップサービスか何かだろうか。そんなことしなくても私から別れようなんて言わないのに。
……あぁ、そういえば昼間にも同じことを考えたんだっけ。
一方通行な気持ちが悲しくないと言えばうそになるけど、でも悟の恋人でいられることは素直に嬉しい。だからそんなこと、しなくていいのに。
「今何考えた?」
「……えっと、」
「ちゃんと話して」
……言ったところで、何になるんだろう。もし話してじゃあ別れようなんてなったら、私は立ち直れる? きっと無理だ。言わなければよかったと間違いなく後悔する。
押し黙った私に悟が優しく名前を呼んだ。
「言いたくない?」
「……ん、ごめん」
「仕方ないなぁ」
腰に回っていた腕が離れて、そっと私の髪を梳くその手は優しい。心地よくて目を閉じると、柔らかいものが唇に押し当てられた。
ちゅ、ちゅ、と可愛らしいリップ音を何回も鳴らして触れては離れる軽いキス。あまりにも繰り返されるものだから恥ずかしくなって目を開けると、どろりと溶けるような、はちみつを煮詰めたみたいな、あまさをぎゅっと詰め込んだ瞳に見つめられていて、思わず顔に熱が集まる。
なに、それ。
そんな目で見られたら、勘違いしちゃう。
「は、かわいい」
「……今日、いつもとちがう。どうしたの」
「昼間、家の人間と話してたでしょ」
「……ぇ」
「高専歩いてたら僕の名前が聞こえてきてさ〜? 盗み聞きしちゃった!」
きゃぴ、と効果音が付きそうなほど軽く言ってのけた悟に、赤かったはずの顔から一気に血の気が引いていく。
うそ、うそ、きかれてた?
彼女と二人だけだと思ったから素直な気持ちを話してたのに、聞かれてたなら、めんどうだって、おもいって、……おもわれ、て、
「傷付いたんだよ?」
「ぁ、ごめ、」
「こーんなにも愛してやまないのにさ、全然伝わってなかったんだ」
「え、?」
「ずっと言ってるじゃん。お前が好きだって」
でも、でも、それってただのリップサービスで。わたしは、悟が本当に好きな人が出来るまでの、つなぎで。それか、悟の気紛れであって、そんな、そんな、こと、
「流石に好きでもない女と何年も付き合えないよ」
「それは、そう、かも……しれないけど……。でも、」
「でも、何?」
「……さとるが、わたしのことをすきになるなんて、そんなわけ」
「ないって?」
「……うん」
「それこそそんなわけない≠ッど?」
長くて細くて、それでもしっかりしてる悟の指が私の頬を滑る。その指が、目が、全てが優しいことはわかってる。わかっているけど理解が追い付かない。もう十年近くも片思いだと思っていたのに。
「……ほんとうに、わたしのこと、すき?」
「うん、大好きだよ」
「うそ、じゃない? ……ごめん、めんどくさかった」
「めんどくさくないよ。何回だって言ってあげる。好きだよ」
堪らなくなって、大きな胸に飛び付いた。
高級なソファはそれでもうんともすんとも言わない。大好きな腕が回って、加減はされているのだろうけど、それでも私をめいっぱい抱き締めてくれる。
「悟、ごめん、すき」
「知って得る。でももっと言って」
「好き、すき。だいすき。昔からね、ずっとすき」
「うん、僕も好き。……信じてくれた?」
「……う、ん」
全部を信じるには、疑ってた時間の方が長すぎて難しいけど。でもこれからは素直に受け取っていいんだよね? 悟が伝えてくれる言葉は全部本心だと、思っても、いいんだよね……?
「ま! これから時間はいくらでもあるし、ゆっくりでいいよ」
優しく笑った悟にありがとう、と言えば、好きな女だからね、と簡単に返ってきた。