小ネタ
2024/07/13
付き合い始めてもずっと変わらずに先輩≠チて呼んでくる赤葦くんに実は名前を知らないんじゃないかと不安になる。いやいやそんなわけは無いと。クラスの男子からは苗字で呼ばれてるし友達からは名前で呼ばれてる。その場に赤葦くんだって居ることがあるんだから知らないわけはない。
でも自分から名前で読んで欲しいってお願いするのはなんだか恥ずかしいし、かと言って赤葦くんの呼ぶ先輩≠ヘ何も間違っちゃいないから今更それに対して言うのもなあ、てずっとそのまんま。卒業したら名前で呼んでくれるようになるかな、って微かな期待を胸に抱えること、早数年。
既に高校は卒業したし就職だってした。相変わらずアカアシくんとは付き合いが続いているが、やっぱり呼び名は先輩=B付き合ってるから当然そういう事もするけれど、その時に呼ばれることはまあない。……もしかして本当に名前を知らないとか、ある?
昔は否定出来ていたこともここまでくると現実味を帯びてくるから嫌になる。かと言って名前知ってる? って聞いて知りませんなんて言われたら泣く自信があった。別に名前ぐらいって言われそうだけど、好きな人に名前を読んで欲しい乙女心は何時だって健在だ。
もやもやを抱えたまま数日過ごして、でも自分一人で何とかするなんて題材からして無理な話。こういう時頼りになるのは長年関係の続いている友達だった。迷うことなく連絡先をタップしてコール音を響かせること数秒。『もしもし?』「木葉ぁ」『……どうした? なんかあった?』友達は、いつも優しい
途中泣いてしまいそうなのを我慢しながらなんとか相談を持ちかける。間に「おう」とか「うん」とか素っ気なく感じる相槌も、ちゃんと真剣に話を聞いてくれているからだと言うことを知っていた。なんせ私が赤葦くんに片思いしてる時から相談役をしてくれていたので。
『つーかさ、お前は赤葦の名前知ってんの?』「知ってるけど」『じゃあ先に呼べばいいじゃん』「……私が?」『そ。そしたら赤葦も察するんじゃね?』「なるほど……」なるほど、ともう一度呟いた。「それでも先輩呼び変わらなかったらまた話聞いてね」『暇だったら』
とか言いつつ聞いてくれるの、知ってるから。ありがとうとお礼を言って切ったその勢いで、今度は違う所へ電話を掛ける。今度はさっきよりも短いコール音しか鳴らなくて、驚いて小さくわ、と声が出た。『もしもし? 電話なんて珍しいですね、先輩』
何かありました?優しくて柔らかい声が機械音を混ぜて私に届ける。お互い仕事で忙しくしている身であったり、私が文字に残るのが好きという理由でやり取りは基本的にメッセージだけだった。だから赤葦くんも珍しいと言ったのだろう。「ごめんね急に!今大丈夫?」『大丈夫ですよ、帰宅途中なので』
確かに彼の背後からはガヤガヤと音が聞こえている。「そっか、良かった」『はい』……さて、勢いのまま電話を掛けたはいいが、なんて言おう。どうやって名前を呼ぼう。どちらも口を開くことはなく、聞こえるのは赤葦くんの背後から聞こえる車のエンジン音や通りすがりの人の声だけ。
「あの、ね」『ゆっくりでいいですよ』あれ、名前呼ぶのって、こんなに緊張するもんだっけ……? ええいままよ! 女は度胸! すう、と息を吸い込んで、口を開く。「あの、あのね、……け、京治くん」初めて口にした名前に、心臓はもうバクバクだった。
返事は無い。また沈黙が降り注ぐ。え、待って名前間違えたとか、ない、よね? 流石にね? 彼との沈黙が怖いと感じるのはいつぶりだろう。追って口を開くこともできず、ただ電話の向こうから返事が来るのを待つしかできない。早く何か言ってよぉ……。
焦る気持ちの中、不意にふ、と鼻から抜けるような笑い声が聞こえた。『やっと呼んでくれた』その声は、心底嬉しそうだった。『名前、知らないのかと思ってました』「そんなわけないじゃん!」それにそれを言うならこちらの台詞だ。京治くんこそ、私の名前なんて知らないんじゃないの?
流石に口にはしなかったけれど、それでもムッとしてしまう。さあ、察しのいい彼は気づいてくれるだろうか。さっきとは別の意味で心臓がはやい。鼓動がうるさい。
『……これからもずっとそう呼んでね、ナマエさん』