世界の幸せ

 優しく髪を梳かれる感覚で、ゆっくりと意識が浮上した。額の生え際から後ろにかけて髪を指の間に絡ませていく。ぴくり、と瞼が動いたことを見逃さなかった髪を梳いている彼は、柔らかな低音で「おはよう」と囁いた。
「……おはよ」
「ご飯出来てる」
「んー……ぅん、おなかすいた……」
「食いしん坊じゃん」
 重たい瞼を持ち上げた先には、だらしなく頬を緩ませている倫太郎が、とろけた目を私に向けていた。
 起きる? 聞かれて、小さくうん、と頷いた。先に体を起こした倫太郎はぺたぺたと裸足でフローリングを歩く。私の真横に立ってそっと布団を剥がすと、おいで、と手を伸ばした。寝起きで重たい腕を倫太郎に向けると、優しく握られる。痛くない力加減で込めた倫太郎は軽々と私の体を起こして、楽しそうにリビングまで引っ張ってくれた。
「………………ホットケーキ」
「そ、食べるでしょ?」
 寝室からリビングへと繋がる扉を開けて鼻腔をくすぐったのは、どこか爽やかさの感じる甘いはちみつ。追うようにバターの香りがして、その香りには芳ばしいものが纏っていた。ゆるゆると動く頭でその先に何があるのか考えて口にすれば返ってきたのは肯定。倫太郎がわざわざ休みの日に作ってくれたらしい。
「準備しとくから顔洗っておいで」
 こくり。頷いてそのまま洗面所に直行。洗顔ヘアバンドで髪の毛を持ち上げて、冷たい水でバシャバシャと洗えば流石に目が冴える。半分ほど落ちていた瞼はもうパッチリと持ち上がっていて、自分の顔ながらに活気が生まれた。
「りんたろー! ホットケーキ!」
「できてる」
「やったー! ありがとう!」
 既に座って待っていた倫太郎の向かい側の椅子を引いて腰を下ろす。バラバラな木目があるテーブルの上には真っ白なお皿が二枚。その上にはちみつとバターが溶けて下へ流れている熱々のホットケーキ。傍には同棲初日に購入したお揃いのマグカップが白い湯気をもくもくと天に昇らせている。中身は優しい茶色をしていて、これはきっとカフェラテだろう。
 お皿の上に載っているホットケーキは均等に茶色い焼け目がついている。その上ではちみつとバターを着飾るように載せられて、照明の光を受けてキラキラと輝いていた。陳腐な言葉だけれど、なんだか宝石みたい。
「いただきます」
 ふたりして手を合わせて声を揃える。
 左手にフォーク、右手にナイフ。切り分けるために端っこをフォークで刺すと、サク、と小さな音が鳴った。皮を破るような弾力の後は抵抗することなく沈んでいく先端。ナイフを差し込めば周りを巻き込んで破れていく焼き目。ぐっと押し込んで切り込みを入れていけば、中のふわふわとした触感が伝わってくる。
 一口サイズに切り分けたホットケーキを、お皿に水溜まりを作っているはちみつの漬けて絡め取ると、とろん、と乗り切らなかったそれが垂れていく。
 あー、ん。大きく口を開けてぱくり。じわりと広がるはちみつの甘さと、鼻を抜ける芳ばしいホットケーキの香り。歯を立てれば柔らかい食感。中から染み出てくるバター。全てが綺麗に混ぜ合って、口の中が幸せいっぱいになる。噛めば噛むほど中から溢れる甘さに取り憑かれる。
「ほんと美味しそうに食べるよね」
「ん! おいしい!」
 美味しいものを食べて、目の前には好きな人。テレビは着いていなくて外の音は聞こえない。窓から眩しいぐらいの朝日が差し込むこの空間は、世界に私たち二人だけだと錯覚させる。部屋を漂う甘い香りに鼻をすん、と鳴らして、緩む口角が下がらない。
「倫太郎は食べないの?」
「食べるよ」
「冷めちゃう」
「うん」
 一切手をつけられていないまっさらなホットケーキを見ることもせず、テーブルに肘をついて手のひらに頬を乗せている。肘乗せは行儀が悪いけど、今だけなら特に気にしない。
 だってほら、その目が愛おしさで溢れていて、私と同じだから。