夢よどうか醒めないで

 ただの平日。お互い仕事で、俺も練習が遅くまであっていつも通りの帰宅時間。玄関を開けたら漂ってくるのは今日の晩飯の香り。すん、と鼻を鳴らしてなんだろうか、と考えていると、リビングに続く扉が開く。隙間からひょっこり顔を覗かせるその顔はいつもと変わらぬ笑顔だった。
「おかえり〜!」
「ただいま」
 彼女と同棲を始めたのは、彼女が社会に出てからだった。高校生の頃に惚れて、付き合って、卒業後兵庫を出ると伝えれば私も行く! なんて。頑張って親説得してん、と嬉しそうにする報告が、絶対に幸せにするんだと覚悟を持たせてくれた。
 ――あれから、数年。
 楽しそうにくふくふ笑っている姿を目にして、無意識でスーツのポケットに触れた。
 口の中が乾燥していく感覚に、ああ緊張してるんだと客観的に観察する。どんな試合でコートに立ったって緊張なんて滅多にしないのに。
「ねぇ」
 やけに硬くなった声に自分で笑ってしまう。いくら自分が緊張しているのだと自覚していたって、ここまでだとは思わなかった。普段と違う声色をすぐに感じ取った彼女は不安そうな顔をして覗き込んでくる。どうしたって身長差があるから、いつだって彼女は俺の顔を覗き込む。
「ど、どうしたん? なんかあった?」
「なんか、はあったかも」
「え!? 大丈夫なん!?」
 伸びてきた手を掴んで、痛くならないように、痣が残らないように、だけど絶対に離れていかないように力を込める。え? と動揺した彼女の声を聞いて、少し顰められた眉間に咄嗟に手を離す。この子が嫌がる事は、どうしてもできない。物理的に離せない状況が作れなくなってしまって、かわりにどうか逃げてくれるな、と。そう願いながら口を開いた。
「――俺と結婚してください」
 ただでさえ大きな目をまぁるく開いて、薄く張った涙の膜が光を反射させてキラキラと輝いて、ぽとりと落ちてしまいそうだった。
 口元を覆う小さな手は震えている。情けなく八の字に下がった眉と、紅潮した頬。
 ぱちり。一度迎えた瞬きによって、膜が雫となり頬を伝った。
「いいん?」
 小さな震えた声が鼓膜を震わせる。彼女の声はいつでも、どんなものでも愛おしかった。バカみたいにうるさい心臓の音が彼女の声を掻き消そうとするのが許せなくて、落ち着けるようにそっと息を吐き出す。
 とっくに耳に馴染んだイントネーションは、産まれた場所のものとは全然違うのに安心する。
「いいに決まってるじゃん」
「ほんとう?」
「ほんと」
 涙の乗ったまつ毛が澄んだ瞳を隠してしまう。名前を呼んでもその中に自分の姿を映す事がなくて、じれったくて彼女の頬に触れた。赤く染まった頬は体温を上げている。わかりやすく顔を上げさせれば、心底嬉しそうにくしゃりと笑った。
「……不束者ですが、よろしくおねがいします」
 口元を隠していたはずの彼女の手はいつの間にか頬に触れる自分のものと重ねられていた。頬と同じように上昇した体温は、いつもよりあつい。
「こちらこそ、よろしく」
 釣られて震えた声は、情けない。でもこの子が楽しそうに笑ってくれるから、こんな時だけれど恰好つかなくてもいいか、と思うのだ。

 ▽

 ふわふわと漂っていた意識がゆっくりと覚醒していく。ひんやりと冷たいベッドには一人分の熱しか与えられておらず、どこに手を伸ばしても温もりなんて存在しなかった。
 最初から、そんなものはなかったのだと言われているみたいだ。
 カーテンの隙間から溢れてくる爽やかな朝の知らせをすぐに遮断する。閉じた瞼の上に乗った自分の腕はそんなに重くはない。少しでも隙間を作れば光に反射してしまうから、今は、いまだけは視界に入れたくなかった。
 何度同じ朝を迎えただろう。何度同じ夢を見た事だろう。繰り返す度に光景が薄れていっているような気がして、もう二度と見たくはないのに。どうしたって一番記憶に残ってしまっているのだろう。最近見る夢は専らこればかりだった。
 寝巻にしているシャツが水分を含んで重たくなる。家の中だけだからともう何年も着続けているこのシャツは、彼女と同棲し始めた頃から着ているような気がする。新しいの買う? と笑った彼女に、めんどくさくてこのままでいいよ、と答えたのは、いつの俺だった?
 もう曖昧で、輪郭すらどこにもなくて、全てが夢だったんじゃないかと錯覚すら起こすような、ふるい記憶。
 腕を持ち上げると眩しい光が刺激して、ひときわきれいに光る自分の指が見えた。目を細める。しくったな、と心の中で呟く悪態は、だれにも届かない。
 ――刺された。彼女が。奥さんになる予定だった人が。
 誰にって、俺のファンらしい。
 俺の知らないところで接触があって、そのまま刺されてしまったのだと、聞かされた。聞かされて、軽く説明されるだけだった。それだけで、簡単に終わってしまった。犯人はわかりやすかったから、すぐに逮捕されたらしい。そこまで気にする余裕はなかった。怒りすらも湧いてこなかった。当然ニュースにもなったけれど、晒されたのは俺の名前と彼女の名前だけだった。刺した犯人の名前だけが隠されて、いくら前科がつこうとも誰も気付かないのだろうな、と思った。……思った、だけだった。
 左手の薬指にはめた指輪を何度も眺めては照れて笑いながら「しあわせやね」と言っていた、彼女が、死んで、もう何日経った?
 ただ、もう彼女がいないのだと、呆然と理解して、考えて、とてもじゃないが受け入れられなかった。
 たった数日のお揃いは、ずっと外せないでいる。