どうか祈りが届きますように

 重たい玄関の扉を押したあと、ただいまと口にするのは癖になっていた。
 実家にいたときは当然のように口にしていたその言葉は、一人暮らしを初めて次第に言わなくなったと思っていたが彼女と住み始めてからはまた言うようになっていた。自分の住んでいる家の中に人がいるのといないのでは、無意識のうちに心持ちが変わっているのだろう。実家では遠くから投げられる「おかえり」の言葉を聞くだけだったが、二人暮らしをしてからはわざわざ玄関まで届けてくれていた。
 ――今は、もう、そんな声どこにもないけれど。
 靴を揃えて手を洗う。しっかりと水気を取ってから入るリビングは、真っ暗だった。
 日付が変わった、午前零時二十分。
 近隣住民もほとんどが眠りについているであろう時間帯に、ようやっと帰宅できた。ジャケットを脱いでソファの背にかける。スーツでない分息苦しさはマシなのだろう。だけど、どうしても呼吸が苦しかった。
 ガラスでできたローテーブルの上には、開封済みの小さな箱がひとつ。手に取ってみれば片手で簡単に収まるサイズの箱の中身は、残り五本となっていた。
 一本取り出して、口に運ぶ。適当にコンビニで購入したライターの火をつけて、息を口で吸いながら先端に宿した。
 一連の動作に迷いが無くなったのはいつだったろう。三本吸った辺りか、それとも一箱吸い終わった辺りだろうか。
 彼女の置いていった使い捨てのライターは一度も使えなかった。使ってしまえばオイルが減り、減ったらゴミとなる。もう放置しすぎて火がつくことはないかもしれないが、俺は、どうしてもそれを使うことも捨てることもできないまま、あの時と同じ場所に置いていた。
 口の中に広がる苦い煙を肺に送り込む。数秒肺に溜め込んで、一気に吐き出した。手に持つ先端から流れるものよりもずっと薄くなった煙は、天井に届くよりも前に空気に溶けて消えていく。換気扇も回さず、窓も開けず、過去の俺が咳き込んでいた匂いが辺りを包む。
 最初は苦言を呈していたはずのこの匂いが自分にとって落ち着くものだったのだと自覚を持ったのは、彼女と住み始めて、彼女がよくベランダに出るようになってからだった。家の中に匂いを持ち込まないよう気を付けていた彼女に、俺が、吸っていいよ、とまるで許すような言葉を口にした。
 ただ、俺がその匂いは彼女のものだと勝手に結びつけて、安堵していただけなのに。
 ぽたりと重力に逆らえなかった灰がカーペットの上に落ちた。ああ、掃除しなくちゃな、とぼんやり考えて、でも立ち上がるのは億劫で。結局、手に持っているものを咥えて呼吸することしかできない。
 灰皿は毎度毎度綺麗にしている。だって彼女がそうしていたから。間違えて落としちゃったらダメでしょ? そうわらっていたから。だから、俺もそれに倣って綺麗にしている。彼女がしていたことを同じように繰り返せば、まだここにいるように思えるから。
 ただ、溜まった灰を捨てる度に、心が削られていく感覚に襲わるのは俺の勝手だろう。
 ――今日も彼女が、安らかに眠れますように。
 全てを残していった彼女へと捧げものとともに、煙を吐き出した。