prologue


 夢をみているのだと思っていた。それもとても長くてリアリティな夢を。痛みもそうだ。''私''はずっと夢を見ていた
しかし、死んでしまった今となってはとても曖昧で定かではない。
 “オレ”は愚かな死に方をしたような気がする。日本に暮らすただの一八歳の男だった“オレ”は、ただの読書好きで、“走れメロス”を片手に川の傍にある土手を歩いていた。少しでも左に足を踏み入れれば芝生の生い茂る斜面に転がり、あの汚いゴミが捨てられている川に落ちることになるだろう。
 (“オレ”が落ちるハズはない。)
何の根拠もないが、確かにそんな確信があったと思う。馬鹿馬鹿しい。事実、“オレ”は読書に夢中で足を滑らせ、ゴロゴロと無様に転がり川に落ちた。皮肉にもメロスは激しく踊り狂う川を渡りきったらしいが、一般人の“オレ”は獅子奮迅の子のようにはいかず水を飲み、溺れたらしい。
そんなとある冬の寒い日に、“オレ”は死んだ。
 川から上げられた死体を見て嘆く人間が誰かは忘れてしまったが、確かに何度も“オレ”の名前を呼んでいた気がする。しかし、その声は聞こえてこなかった。当たり前か、なんせ“オレ”は死んだのだから。

 地獄に逝くのだろうか、天国に逝くのだろうか。人生に一度は考えたことがある問いに、答える裁判官はいなかった。ただただ、暗い所で永い眠りについて、時たま慈しむような声音の裁判官の手下が喋るのを聞き、地震のように揺れる窮屈な場を足で蹴って過ごす。
 つまらない生活をしていた、そんなある日突然、“オレ”は今まで作り上げてきた性格やら人格、知識、昔の名前や容姿を失って、再びこの世に生まれ落ちた。

ただ一つ、ハリーポッターの世界の知識を持って。


 オギャアと喚く子どもは、黒い髪に色素の薄い灰色の目をしていた。






(とある女の日記より抜粋)
 
 お爺ちゃん交差点でバスと乗用車の衝突事故が発生。幸い死者は出なかったものの、バスに乗り合わせた少女が意識不明の重体で聖南大学付属病院に搬送された。
 数時間におよぶ手術の結果、少女は一命をとりとめた。しかし数日後、意識を取り戻した少女は事故のことはおろか、自分が誰なのかも思い出せないという。事故当時、彼女に身元を特定できるような所持品はなく、病院側も途方に暮れているようだ。この身元不明の少女の特徴は…………。






 大粒の夥しい雨が
空色は灰、世界は雨雲によって支配されている。傘を握り締め一心不乱に走る人間たちを余所目に、僕はそれに逆流して前へと進む。
 不透明な黒い傘は何も映さない。このままアスファルトに同化していければ楽なのだが、と僕──花岡亮は考える。
 先刻までは霧雨で服が湿る位だったのに、今ではもう紺色のスーツはすっかりと黒に変色していた。スーツが濡れた際の臭いは、僕にとって嫌いなものの一つだった。

 急な斜面が現れ、そこに造られた階段を上る。片手には傘、片手には花。手摺の使えない状態でのこの急な階段は、幾ら上り慣れている場所としても怖いものだ。幾度か水で足を取られそうになるのをなんとか堪えて踏み留まる。内臓まで冷してしまいそうな程の冷気と、この蒸し暑さが心地悪い。
 頂上へと辿り着いた途端、身体の至る所の汗腺からどっと汗が噴き出してきた。ハンカチを取り出すにも両手が塞がっていたため、花を持っている左手でこめかみの汗を拭った。とっくに梅雨は明けたというのに、どうして毎年「この日」は雨になるのだろう。

 斜面は平地と変わり、雨に足を取られることもなくなった。相変わらず、この季節には人がいない。それもその筈だ。今日は7月25日。都会のお盆は終わり、地方のそれはまだ暫く先だからだ。
 そう、僕が色とりどりの花を咲かせた雑踏を掻き分け、苦心して訪れたこの場所は多くの人間が眠る静かな墓地だ。
 通路を挟んで左右に並べられた墓石は大きなものから小さなもの、磨き上げられたものから苔生したものまでと様々だ。
 僕はそれらを通り抜け、通路の奥の隅に置かれた墓の前で止まる。いつ見ても、死者への弔いが感じられないような貧相な墓だ。僕がここに訪れるようになってから十年、早くもその墓碑は都会の酸性雨によって腐食が始まっている。
 右の花立てに仏花を供える。左右非対称となったそれは妙に違和を覚えるが、花を買う金もない僕にはどうにもできない問題だった。
 小さな墓の前でしゃがみ込む。泥水で指が汚れることを厭わずに、そこに刻まれた名前を撫でた。
 ここへ訪れる日は、決まって雨が降る。
 あの夜も、こんな雨が降っていた。身も心も凍らせるような、それでいて蔦のように身体に絡み付く雨が。
 そして「彼女」が眠るここに身を置いていると、必ず喪失の情景が蘇る。

 彼女の身体から流れる赤い液体は雨に溶かされ薄まりながらも、地を侵食していった。
 貨物列車が通過する前の、甲高い踏切の音がまだ耳に残っている。あれは深夜、夏祭りが終わった後のことだった。彼女が着ていた赤い乱菊の咲く白地の浴衣は、元の色が分からなくなる程の朱で染まった。
 足元に転がる凶器と彼女を交互に目視しながら、僕は降り出した雨から逃げるようにその場を去った。

 そして僕は、愛する人を喪った。


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肋骨