その女の子と出逢ったのは淡い桜の花弁が舞いはじめた四月上旬。短い春休みも残すところあと一日に差し掛かろうとしていたーー雲ひとつなくよく晴れた春の日のことだった。その日、俺は所属するバレーボール部の朝練に参加するためにまだ薄ら寒い春の早朝の中を大きな欠伸を堪えながら早足で歩いていたのだけど、ぼうっと眠気まなこに意識を漂わせていたときのことである。人ひとり見当たらない、自分の足音しか聞こえないようなさみしいいつも通りの通学路で、ふとその場には似合わない何かが鼓膜を震わせた気がして俺は反射的に足を止めた。
「ん?」
ーー瞬間、音が聞こえた。鼓膜を透き通る音が、ひとつ。ふたつ。それは次第に大きな波となり、俺の脳裏に刻まていった。音楽だ。いつもなら気にも留めない。住宅街から少し外れた辺鄙な所にある小さな公園。その何処からか懐かしいメロディが聴こえていた。
どうやら俺の意識の中に無意識に潜りこんできたのはこれだったらしい。ピアノではない。恐らくキーボードでもない。何か別の鍵盤楽器から紡がれている聞き覚えのある音は、乱れなく
「こんな朝っぱらから、よくやるね・・・」
というか、明らかに近所迷惑だろう。これは。ピアノでもない、恐らくキーボードでもない何か別の鍵盤楽器から紡がれている聞き覚えのある音楽に耳をかたむけながら俺は首を傾げた。
いったいこんな早朝に、誰がなんのために弾いているのか。そう考えながら足を止めたまま入り口から公園内を見渡すけれど、やっぱり人の姿はひとつも見当たらない。
それにこれはいったい何の曲だったかな。確か小学生のときにつまらない音楽の授業で習った曲だった気がするんだけど。ーーそうそう。あれだ!「きらきら星」。
早朝の、誰もいない公園の何処からか聴こえてくるメロディに合わせるように、俺は歌を口ずさんでみる。
「きーらーきーらーひーかーる」
「え、」
すると
県内でも屈指の進学校ーー青葉城
名前も学年も知らない。ただ同じ高校の制服を着ている。
今まで何となく生きてきて、これからも何となく生きていく、人生はそういうものだろうと感じている。だから引越し先にあまりに遠い場所を示されても、面倒だと思っただけで、生活し馴れた土地を離れることに対しては何の感慨も湧きはしなかった。それは勿論、学校を変わることについても同じだった。
氷帝は、私にとっては最後まで、仮面のような印象を崩さない学校だ。華やかで、希薄で、冷淡。輝かしい将来、権力に裏打ちされた自信。校舎中がそんな奇妙な明るさで満ちている。
そんな学校に通うのも、あと一ヶ月足らずで終わりだと告げられた。幕切れはいつだって突然だ。
急な決定だったが、栄転だったので父に断る理由はなかった。母と私への相談もなかったが、いつものことだ。
唐突な引越しの用意に気忙しく働く母を尻目に、私は元々持ち物が少ないせいもあってか、初めての経験にも関わらずあっという間に自室の荷造りを終えてしまった。案外旅人気質なのかもしれない、すっきりした部屋で、一人笑った。
でもその割には、新しい住所をグーグルで検索して見ても、ちっともわくわくできなかった。あまりに現実味がない。画面の向こうのお洒落すぎる町並みには、わざとらしい印象しか持てずにいる。
私の居場所は、一体どこにあるというのだろう。
何不自由なく茫洋と過ごしてきたせいなのか、私の中には、ここのどんな事物も心に残っていない。周りにあるのは、気持ちの整理などいらず、すぐにでも「はい、さようなら」ができるものばかりだ。
自分の過去の内のいつを思い出そうとしても、それは明るくも暗くもなく、ちょうどあの日と同じこんな天気の如くぼんやりと白い映像になってあらわれる。
寝ても覚めても夢の中にいるみたいに生きてきたのだと、私は初めて、自らの無気力さを思い知った。
さすがに少し、傷ついた。
【カウントダウン、開始】
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肋骨