みょうじなまえには、悩みがある。
それはなまえが経験上最も苦手とすることであり、トラウマを抱えている一件である。それゆえに、この悩みを解決するためには多少の時間がかかりそうだ。
「なまえ、いつも言っているが君はもう少し周りをみて動いたほうがいい」
「わかってるわよ……」
「いいや、わかっていないから、こうして毎度毎度同じことを言っているんじゃあないか」
「悪かったわね、学習能力ゼロで。これでも一応理解してるつもりなのよ」
しかし、時間だけがこの問題を解決に導いてくれるとは限らない。目の前でさきの行動について言及されたなまえは、顔をしかめずにはいられなかった。もっと素直に謝れたらよかったのかもしれない。しかし、今のなまえにはそんな心の余裕はなかった。胸の内にたまっていく悶々とした黒い靄をはらすかのように、そっと重たいため息を吐いたのだった。
DIO討伐のため、エジプトに向かうジョースター一行の旅に同行している現在。
最早恒例化してきた花京院との口論を、なまえは繰り広げていた。それは例えば戦闘後であったり、移動中の車内であったり、宿泊中のホテルであったり――。なにか事あるごとに互いに言い合いが始まる。そんな様子だった。そして、一緒に旅をするうえで、良好な関係が築けないことをジョセフたちは非常に気にしていた。
一方なまえ自身も、同じようにこの捻れた関係をどうにか修復したいと切に願っていた。なぜならば、みょうじなまえは、この花京院典明に恋をしているからだ。
「まあまあ、なまえもべつに悪気があったわけじゃあないんじゃから。喧嘩はそのくらいにして、次の町に移動しようじゃあないか」
「……はい、すみません」
年配者のジョセフに言われると、なまえも頭を下げずにはいられなかった。先ほどの戦闘を思い出し、やはり自分が悪かったと反省する。あのときああしてたら、無駄な攻防を避けれたかもしれない。もっとはやく戦いを終わらせていたかもしれない。そんな思いが心の中であふれていた。
本当はもっと言われたことを素直に改善したいと思っている。ちゃんと直して、しっかりDIOを倒して日本に帰りたい。
しかし、口論を繰り広げる都度言われる花京院の数々の言葉は、仲間たちの声を代弁しているだけではなく、花京院がなまえに対しての気持ちを表しているかのようで、なまえは自身の心臓を冷たく鋭利な氷柱で突き刺されるような気持ちになる。
それがどうしようもなく、なまえにはつらかったのだ。
その日は久しぶりのホテル宿泊だった。
観光客も少ない町のようで、部屋数も多くとれた。しかし離れていては何かあったときに危険ということから、部屋番号はすべて連番になるようジョセフがフロントに頼んでいた。
なまえの部屋は、ジョセフと承太郎の間の部屋である。受け取った鍵を使って、自分の部屋へと入った。電気をつけて室内を確認する。いつも泊まるよりも少し狭い、しかし一人で使う分には申し分のない広さの部屋だった。久しぶりの一人きりの空間。寂しさもあるが、なぜかほっとする気持ちにもなった。ジョセフから鍵を渡される際、「ゆっくり休むといい」と言われた意味がわかった気がする。何日もの間、緊張感で張り詰めた時間を過ごしていると、一人の時間というものがなかった。しかし、今晩はゆっくりできる。油断してはならない状況であることは依然変わりないが、それでも休息の時間が与えられたようで、朝までの時間がとても貴重に思える。なまえ自身気づかないうちに、思った以上に神経をすり減らしていたようだ。部屋の隅に荷物を置いて、備え付けのペットボトルに手を伸ばした。
なまえは生まれながらにして幽波紋能力を持っていた。家族にも打ち明けられない長年の秘密。子どもの頃に、友だちには見えないものが見えていると言った途端、周囲に嘘つき呼ばわりされ、仲間はずれにされた。しかし、なまえは人一倍正義感が強かった。それ故に、事実を言っているだけの自分を真っ向から否定する周囲が許せなかった。幽波紋能力が周囲と比べて異常なものであることをまだ理解できなかったなまえは、側にいる幽波紋を正当化したかったのだ。しかし、喋れば喋るほど、周りの反応は冷たくなる一方だった。次第にその話は友だちの親を通じて家族へと伝わり、両親には外で変なことを言わないようにと叱責された。家族に言えず友だちに訴えていたのは、もしかしたら心のどこかで、これは一般人にはみえないものなのだとわかっていたからなのかもしれない。初めから両親に言ってたら、絶対に否定されるとわかっていたから――。それ以降、なまえが幽波紋のことを口にすることはなかった。
だが、中学二年生の夏休みに入る前。なまえの人生の中で、人生を大きく分岐する事件が起きた。それまでなまえは中学生らしく大人しく過ごしていた。大人しくというのは、幼い頃に交わした『外で変なことは言わない』という両親との約束を守っているという意味である。『外で』と建前上言っているが、もちろん家でも両親が怒るようなことは言わない。抱える秘密に孤独を感じることもあったが、その気持ちを紛らわすかのように勉学に打ち込んだ。そのおかげもあってか、成績は比較的優秀だった。そんななまえが、その夏、ある男子生徒に呼び出された。彼は中学一年生のときのクラスメイトであり、なまえがひっそりと憧れていた存在だった。淡い期待を胸に抱き、呼び出された屋上へ向かう。放課後の黄昏時。二人きりの時間に鼓動をはずませていると、伝えられた言葉は「ずっと好きだった。付き合ってほしい」といった、期待通りの甘い言葉だった。背にむけた夕陽のせいになどできないほど、なまえは顔を真っ赤にさせて小さく頷いた。
それから二人は帰宅時間を共にしたり、試験が近くなると一緒に勉強したり、学生のできる限りの時間を二人の時間として過ごした。なまえにとって、そのときの時間はかけがえのないキラキラと輝いた大切な思い出だった。
彼と一緒に喫茶店で宿題をこなしていたときのことだった。入り口のベルが景気良く音を鳴らし、部活帰りの学生が数人入ってくる。同じ中学のジャージを着ている男子生徒だった。なまえはあまり知らない顔ぶれだったが、向こうは彼のことを知っていたようで、こちらに手を振って近づいてきた。
『なんだよお前ら、今部活終わったのか?』
『まあな。帰宅部はいいなあ*呑気にお茶なんてしちゃって』
『べつにいいだろ。彼女と一緒なんだから邪魔すんなよ』
『か、彼女!?お前ら付き合ってんのか!』
名前も知らないほとんど面識のない同級生たちに暴露され、とても恥ずかしい気持ちになる。テーブルの下でつま先を擦り合わせながら少しはにかんでみせた。嬉しい気持ちと恥ずかしい気持ちが混ざって、*が熱くなるのがわかる。多分、彼の今のクラスメイトたちなのだろう。どの顔にも見覚えはなかった。
『なんだ、彼女ってみょうじかよ。お前、子どもの頃気味の悪い嘘ばっかついてたよなあ』
そんな中、一人の男子生徒から掛けられた台詞に、なまえは一気に青ざめることとなった。 全身が凍りつくように固まり、目を見開いてその男子生徒を凝視した。そこに子供のころの面影は全く感じられなかったが、ジャージの胸元に刺繍された名前には見覚えがある。同じ保育園に通っていた男の子だ。周りの子たちと一緒に、指をさして嘘つきと連呼してきた、あの男の子だ――。
そう思った瞬間、なにか言おうと思っても、まるで声なんて出なかった。震える指先を必死に握りしめて、テーブルの下へと隠す。この状況に、目の前の男子生徒のにやついた笑みに、なまえは心底怯えていた。そしてこのときはじめて、幼い頃両親が自分へしつこいほどに訴えていた『外で変なことは言わない』の本当に意味がわかったのだった。周囲のひとに信じてもらえない、まるで味方のいないような状況。まだ小学生にもなっていない当時と比べ精神的に成熟したなまえが、幼い頃のように持ち前の正義感だけでこの恐怖に立ち向かう勇気をなまえは持ち合わせてはいなかった。漫画や小説のヒーローでない限り、そんな勇敢なひとはなかなかいないだろう。それを今、身をもって痛感した瞬間だった。
『知り合いなのか?』
『保育園が一緒だったんだよ』
『さっき言ってたのなんなんだよ』
『いやあ、いつも近くに幽霊がいるとか言っててさ。けど、こいつの言ったとおり、誰も近づいてないのに物が動くことがよくあったんだよ』
『えっ、ポルターガイストってやつ!?』
『おい、子どもの頃の話だろ。そんなん誰だってある話じゃねえか。やめようぜ』
そんな中、べつの男子生徒が止めてくれたおかげで、これ以上目の前で『変なこと』を話されることはなかった。部活帰りの彼らがざわざわと話す間、なまえは唇を噛み締めてうつむくしか他なかった。これが本当に子どもならではの嘘であれば、なまえも笑って受け答えできただろう。しかし、幽波紋の存在は、なまえにとっては嘘や幻想なんかじゃない。物心ついたころから隣りにいる、分身のような存在だ。とてもじゃないが、虚構のものとして受け流すことなどできなかった。
そんな中、彼も口を開くことはなかった。その場が事なきを得るまで、じっと黙っていた。そして、そのことになまえは気づいていなかった。自分自身のことであまりにもいっぱいいっぱいになっていたのだ。
それから数日。毎日のように会っていた彼との時間は、周囲からみてもわかるほど少なくなり、一週間後には別れ話を切り出された。詳しい理由も教えてもらえないまま、別れることとなった。もちろんそのことに対して三日は夜に枕を涙で濡らしたし、辛い気持ちがこみ上げて食事も喉に通らなかった。しかし、さらにその一週間後、事件は起きた。移動教室の際に教室へ忘れ物をしたため、友だちとわかれひとり小走りで移動していたときだった。曲がり角の向こう側から、彼とその友だちの声が聞こえるのがわかり、思わず足を止めて身を潜めた。――少し遠回りになってしまうが、違う道からむかおう。そう思い、踵を翻したそのときだった。
『――だってさ、なまえのやつ、前から少し変だなって思うところあったんだよ』
――わたしの話題だ。
進もうとした足が止まるのも無理はなかった。彼が、わたしの話をしている。それだけで、立ち止まって、聞き耳を立てるには十分の理由だった。周囲に誰もいないことを確認して、そっと角の向こうに意識をむける。そこで繰り広げられた会話によって、彼が別れを切り出した本当の理由を知ることとなる。
『ときどきなにもない空間を見つめてたりして、話しかけてもぼうっとしてたり。何度か近くに置いてあるものの位置が動いた気がしてさ。けど、ふつう気のせいだと思うだろ? 気のせいだと思ってたんだけど、こないだお前が言ってたこと聞いてぞっとしたよ』
なまえは呆然と考える。たしかにそうだったかもしれない。無意識に、幽波紋を発動させていたことがあったかもしれない。もしかしたら、一人家にいるときと同じように、手近にあるものを取るために幽波紋を使っていたのかもしれない。それがふつうの人たちにとっては、こんなにも不気味に違和感を残していただなんて思いもよらなかった。
零れ落ちる涙を堪えることはできず、必死にこみ上げてくる嗚咽が聞こえないように両手で口元を抑えた。膝の力は抜け、冷たい廊下のうえへ崩れ落ちる。このときはじめて、なまえは自身の幽波紋について、恨みにも似た感情を抱いた。――なぜわたしには、この子がみえるのだろうか。なぜ、こんな不思議なちからを得てしまったのだろうか。ふつうがよかった。みんなと同じだったら、こんな思いをしなくてもよかったのだろうか……。
胸を占める思いは、なまえの心を確実に壊してしまった。唯一幸いだったのは、この事件が起きたのが夏休みに入る直前のことであり、この後すぐに休みに入り、彼にもその友だちにも会わずに済んだことだろう。
そうして、夏休みが終わり、新学期が始まった秋。なまえの友人たちは、彼氏と別れたという話を噂で聞き心配していたが、何事もなかったかのように登校するなまえの姿がみてほっとした。平然とした表情で友だちの輪に入り、会話を弾ませていた。
しかし、どこかが以前と違う。まるで、見えない糸かなにかで一線を引いているかのような態度。その様子に違和感を覚えつつも、友人らは気のせいだと思い込むことにした。だが、その見解は極めて正しかった。凛としたその表情の裏側では、冷たい心を持ったなまえがいた。たとえ同性であったとしても信用してはならない。そんな気持ちを抱えていたのだ。
十四歳の秋以降、なまえはすっかり人を好きになる心を失っていた。
目が覚めた。
嫌な思い出の夢を見ていたらしい。部屋に着いて早々に雪崩れるように倒れこんだ布団には、じっとりと汗がにじんでいる。せめてシャワーを浴びてから寝ればよかったと、少し後悔した。起き上がってみると、耳の中が濡れているのがわかった。そっと目元をさわってみる。
「……泣きながら寝るだなんて、子どもみたい」
自嘲するかのように呟いた。いくら大人ぶっても、なまえの恋心はあのとき死んだのだ。なまえの心の時刻は、中学二年生のあの日から止まっている。
そのはずなのに、今、旅をする中で芽生えた花京院に対する気持ちは、間違いなく恋である。
花京院のことをずっと見つめたくなる。
なまえの中で死んだはずの恋心は、この長い旅と花京院典明のおかげで、再度芽吹きはじめていた。
「おい、なまえ。いるか」
突然、ドアをノックする音とともに廊下から声をかけられた。承太郎の声だ。そう思い、涙を拭ってすぐに返事をした。
「いるわよ。何かあった?」
「それはこっちのセリフだぜ。夕飯の時間になっても来ねえから、様子を見に来た」
夕飯の時間――。
そういえば、フロントで鍵を渡されたときに、一時間後に二階で夕食を食べるって言われたんだった!
慌てて枕元の時計を見ていると、約束の時刻を三十分は過ぎている。ベッドから跳び上がり大慌てでドアを開けた。
「ごめんなさい!いつのまにか寝ちゃってたみたいで……!」
部屋から出てきたなまえの姿を見て、承太郎は閉口した。
乱れた髪に、シーツの跡がうっすらとついた腕。シャツのボタンは上から三つ以上外され、いつもは見えない白い素肌が露わになっている。よほど慌てているのだろうか。自身のその身だしなみに全く気づいていないようだ。
それは、潔癖と言ってもいいほどにいつも几帳面ななまえとは思えぬ一面だった。
(目が赤いのは、寝起きだからか。それとも――)
ひとつの疑問が浮かんだ承太郎だったが、すぐに考えることをやめた。男性陣ですら過酷だと思う旅だ。放浪旅なんてしたことのないなまえには、体力的にも精神的にも辛い旅だろう。じっと数秒見つめてみたが、そんな承太郎になまえは首を傾げきょとんとしている。そのあどけない表情は、いつも大人びているなまえにはめずらしく年相応に見えた。
──なにかあれば自分が助けてやればいい。
そんな思いから、思い浮かんだ疑問を口にすることはなかった。
「まだジジイとアヴドゥルがレストランにいる。飯がなくならねえうちに行くこったな」
なまえの髪をくしゃりとひと撫でし、承太郎は隣の自室へ消えていった。
「……承太郎ったら、そういうところ男前よね」
静かに呟いたその声を誰かが聞いてるだなんて思わず、恍惚としたため息をひとつ零すのだった。