何かがおかしい。

 そう最初に感じたのは、おそらく一週間ほど前の話だ。下校中、背後で大きな影がうごめいたような、そんな感覚がした。その日は放課後に図書館で勉強した帰りだった。机に向かって集中していたため気づかなかったが、ふと顔を上げると真っ赤な夕日がほとんど沈みかけていた。

 ――あまり暗くなるとママが心配するわ。

 そう思ったら居ても立っても居られず、慌てて帰り支度をして帰路についた。街灯はチカチカとあやしく点滅し、一番星が見える空から太陽はすっかり消えている。ここの街灯、よく点かなくなるんだよね。そう思いながら、車通りの少ない道の真ん中を歩く。そんな最中だった。背後から視線のようなものを感じ、思わず後ろを振り向いた。しかしそこには誰もおらず、変わらず点滅する街灯があるだけ。野良猫でもいたのではないかと辺りを見渡すものの、暗くてそれらしきものは見つけられない。

 気のせいね。
 そう結論づけて、再び歩き出した。しかし、数歩歩いたところで、同じような感覚に陥った。思わず足もとをみると、そこには自分の影の他に別の大きな影があった。背中に悪寒が駆け上がり、いやに冷たい汗が首筋をつたう。影がゆらりと動く。込み上げてくる恐怖から、今度は背後を確認することができなかった。
 学生鞄をしっかり抱えると勢いよく家まで走った。そのまま家の門をくぐると、玄関まで一直線。ガラスが差し込まれた木製の引き戸を、勢いよく音を立てながら開ける。転がり込むように入り、息を切らせながら上がり框へ座り込んだ。
ばたばたと忙しなく音を立てながら入ってきたせいだろう。突き当たりの廊下からひょっこり顔を出した母が、ビックリという表情を貼り付けて駆け寄ってきた。

「なまえったら、そんなに慌ててどうしたの?なにかあった?」
「マ、ママ…………」

 座ったまま脱力する私の背中を優しく撫でると、今度は心配という表情一色に染まった。真っ青じゃない、と言いそっと*を撫でられるまで、自分がどんなに酷い顔をしているのか考える暇もなかった。
 母が持ってきてくれた冷水をゆっくり飲む。喉から胸の内に程よい冷たさが流れ、一気に清らかな気持ちになった。
 そうして気持ちを落ち着かせてみると、さっきのは気のせいだったんじゃないかと思えてきた。あれは、一種の錯覚のような、暗闇が作り出した架空の魔物だったのではないかと。結露で濡れたグラスから、ぽたりと雫がこぼれ落ちる。捲れ上がったスカートから露出した太ももを濡らした。

「驚かせてごめんなさい、ママ。その……大きな犬に追いかけられて、びっくりして逃げてきちゃったの」

 母性溢れる優しさを持った母のことだ。一部始終を正直に話したりなんかしたら、心配して登下校を兄と一緒にするよう強要するかもしれない。そんなことは絶対に嫌だ。それに、はっきりと後ろに誰かいたのを見たわけでもない今、気のせいかもしれないことで心配されるのは憚られた。

「あらあら……。なまえは小さい頃から動物に吠えられちゃうものね。なぜかしら、こんなにやさしくて可愛い女の子なのに」

 ふふっ、と小さく笑いながら、母は私の頭をそっと撫でた。
 咄嗟に思いついた嘘だったが、どうやら信じてもらえたらしい。ひっそりと心の中で安堵のため息を吐いた。
 母の言うように、私はなぜか動物に嫌われてしまう質だった。子どもの頃からのことで、私自身は犬も猫も好きだから、触れ合いたいのに無遠慮に威嚇をされて酷く落ち込んだ記憶がある。一方で、同じ環境にいる兄はそんなことは一切なく、近所のゴールデンレトリバーを手懐けていた。――もしかしたら、こんな醜い嫉妬心が動物にはバレているのかも。ふとそう思い、小学生になってからは、自分からは動物に近づかないよう注意した。
 もしかしたら、本当に動物だったのかもしれない。そう思い込むようにして、自室へと向かった。


 そして、今日。
 私は必死に走っていた。

(また、まただわ……!あのときと同じ、不気味な視線を感じる!!)

 あれ以来、外が暗くなる前に帰宅することを徹底していた。しかし、委員会の仕事を片付けてから下校しようと学校を出たとき、既に空は薄暗くなっていた。嫌な予感はしつつも、早く帰るに越したことはない。そう考え足早に歩をすすめている矢先だった。突然背中に刺さるように感じた強い視線。闇を感じるような薄暗い気配。恐怖を助長させるようにチカチカと光る街灯。今度こそ、後ろを振り向いて確認してやる!――そう意気込んでみたものの、全身は固く凍りつき振り向くことはできなかった。そして、気づけば一週間前と同じように全力疾走していた。
 ここは、治安は然程悪いわけではないが、特別良いとも言えない街だ。なぜならば、この街にはとびっきり喧嘩の強い不良がいるからだ。
 ガラリと音を立てて玄関に転がり込む。デジャヴ、ここまでの一連の流れ。一週間前と同じだ。

「そんなに慌ててどうした、なまえ」
「お、お兄ちゃん…………」

 ただ以前と違ったのは、音を聞いて駆けつけてきたのは母ではなく兄だったことだ。兄のことだから、たまたま通りかかったとか帰宅したばかりとか、そういう理由で様子を見にきたのだろう。

「べつに、少し犬に吠えられて、びっくりしただけよ」
「そうか」

 一言そう呟くと、兄は外に出て行った。なんだ、出掛けるところだったのか。そう思い一人玄関で乱れた息を整えていると、兄はすぐに戻ってきた。

「犬なんてどこにもいやしねぇ。お前、本当に犬にけしかけられたのか?」
「……そう言ってるじゃない」
「先週もそうやって帰ってきたそうじゃねえか。そのときは、犬に追いかけられたんだったか?今日と同じ犬か?」

 さすがに母のように一筋縄じゃいかない。すぐ外に出たのは、道の様子を確認するためだったのか。そして、もし野良犬がいたのであれば、それらしき痕跡があると考えたのだろう。しかしそれらしき様子はなかった。飼い犬の散歩中に吠えられた程度であれば、私もここまで怯えることはないと理解している。おそらく兄は、私が犬ではなく、不審者にでも追いかけられたのではないかと疑っている。そして、もしそのような不審者がいるのであれば、妹の私に代わって――いや、法律と秩序を守る警察に代わって、正義の鉄槌をくだそうとしている。

 なぜならこの男こそ、この街で飛びっきり喧嘩が強いと有名な高校生、空条承太郎なのだから。
 しかし、私は不審者に追いかけられたとは考えていない。先週一度振り向いたときは、人っ子ひとりいなかったし、そこには人が隠れられるようなスペースはなかった。それに、しっかりとした恐怖を感じ取ったのは一週間前と今日の二回だが、不思議な気配はこの一週間の間に何度も感じていた。背後に何かがいるような、そんな気配だ。
 そう思うものの、これを兄に包み隠さず話そうとは思っていない。なぜならば、私は今回のことを、心霊的な……はっきりと言ってしまえば、幽霊かもしれないとすら考えているのだから。

「同じ犬かどうかなんてわからないわ。走ることでいっぱいいっぱいだったから」

 話はおしまいと言わんばかりに、靴を脱ぎ自室へと向かう。
 母が兄に話していただなんて迂闊だった。今改めて考えてみたら、心配性でおしゃべりな母が兄に相談しないはずなかったのだ。これからどうしようか。またこの怪奇現象――というには些か飛躍しているかもしれないが、今後同じようなことが起きたとき、どうしたらいいのだろうか。むしろ、このようなことがないようにするためにはどうしたらいいのだろうか。
 思い悩みながら廊下を歩く私の後ろ姿を、じっと兄が見つめていただなんて、そのときは到底気づかなかった。