いち
1
杜王町は住み良い町だった。
東京の雑多とした雰囲気も好きだったが、思い切って都会から離れた場所で暮らすことにして正解だったと思った。
自然も多い。空気だって美味しい気もした。
東京のアパートよりも広い家は最寄駅も比較的近く、もちろん家賃だって安かった。
ナマエにとって杜王町は、控えめに言っても最高の町だった。
「本当にそんなだったらどれだけ良かったんだろ」
二十世紀最後の年が始まって、早一ヶ月が過ぎた。
世間は杜王町から離れた東京という大都会で、以前に起こった強盗事件のニュースに夢中だった。その事件が起こったのは昨年の二月頃で、丁度一年が経ったくらいだろうか。進展と言っていいのか分からないが、最近になって件の事件に何かあったらしい。テレビのニュースキャスターはまるでどこかのミステリー小説を読んだ時のような小難しい表情をしながらほとんど毎日のように事件を報じていた。
町の人たちも同じで、キャスターと似たような表情をしながら事件について語り合っていた。
この日、ミョウジナマエは行き交う人々の噂話を聞き流しながら、仕事の帰り道に杜王駅前の横断歩道で信号待ちをしていた。
信号は青になり、いざ渡ろうとした時だった。
ふと、忘れ物をしたかもしれないことに気がつき、動きだそうとした足を止めた。
鞄と、上着のポケットと、それからまた鞄を漁ったりしたが、やはり目的のものは無かった。
ナマエは落胆した。
職場へ取りに戻らなければ。そう思い、咄嗟に踵を返したのだが、丁度後ろにやって来た ていた人と真正面から思い切りぶつかった。
うぎゅっ、と蛙を握り込んだような声が自分から漏れて、衝突した相手からは「うおっ」と驚きの声が漏れていた。
そのままナマエは反動で後ろに倒れてしまいそうになる。体が傾いた方向はついさっき渡ろうとしていた横断歩道だった。
忘れ物を探すのにもたもたしていたせいか、信号は既に赤に変わっていた。
「危ねえ!」
ぶつかってしまったのは青年で、彼はナマエに向かって咄嗟に腕を伸ばした。
次の瞬間には青年に腕をがっしりと掴まれていて、ナマエはすぐ後ろを走る車の風を背中に感じながら自分の腕を掴む手を見た。視線をだんだんと上へ登らせていくと、その手は学生服の袖に包まれている。ナマエはそこで、青年の腕が"二重"に見えた事に気がついた。
黒い学ランの袖の腕と、そこに被さるひと回り太い腕がそこにあった。ような気がした。
しかしそう見えたのは一瞬で、パチと一度瞬きをした時、腕は一本だった。
目の錯覚にも思えたし、仰け反った体を引っ張られる腕と共に元に戻した時、片方の足に鋭い痛みが襲った事でナマエはそちらに意識を持っていかれてしまった。
そうして、自分が今陥った状況を再確認し、慌てて助けてくれた青年へ、お礼と、ぶつかってしまった事への謝罪を口にした。
「あ、ご、ごめんなさい! それとありがとうございます!」
「ああ……いえ、こっちこそすみませんっス」
謝るナマエに対して青年も小さく頭を下げたのだが、その口ぶりは何故か釈然としないようなものだった。続けて彼は「あの」と何かを言おうとしたのだが、ナマエはとても急いでいて、これ以上、青年に構ってはいられなかった。
ナマエがした忘れものは自宅の鍵だった。思い返せば、職場で鞄を整理した時に自宅の鍵を入れ直した記憶が無かった。
このままじゃ家に入れないと焦ったナマエは急く気持ちを隠しもせず、腕にした時計を見つつ、青年へもう一度謝罪を入れてから、いまだ何か言いたげな様子の彼を無視してその場を後にした。
結果を言うと、家の鍵は回収できた。
ナマエは無事、普段通りに家に帰る事が出来たのだが、青年とぶつかった拍子に捻ってしまったらしい足は予想外に悩みの種になっていた。
ナマエの職場は杜王駅から数駅行った場所にあったし、駅からも少々離れていたため、捻ったあとの痛みを見ないふりして長時間歩きまわったのがいけなかったようだった。
家に帰ったとき、改めて確認した足は大いに腫れていた。本当なら病院へ行くべきなのだろうがナマエは放っておく選択をした。
少々捻ったくらいだし、歩けない訳でもなかった。こういうものは知らないうちに痛みも引いて、気付けば治っているものだ。
ナマエはじわじわ痛む足を庇いながら、夕食を取り、お風呂に入った。
杜王町の冬は酷く寒い。越してくる前に住んでいた東京とは比べ物にならない程で、ここ最近ナマエは毎日じっくり湯船に浸かって体を温めていたが、この日ばかりはシャワーで済ませた。体が温まって、血流が良くなると足が余計に痛むかもしれないと思ったからだった。
自宅に常備している薬箱を漁った。確かあった筈だと見つけた湿布を痛む足に貼り、ナマエはベッドへ転がった。
暗くした部屋の中で、窓の外を覗いた。静かに雪が降っている。どうりで寒い訳だ。明日の朝は積もっているだろうか。
ナマエは布団を被り直し、目を閉じた。
そういえば、杜王町の人たちは雪の中でも平気な顔をして歩いている人がいるが、生まれも育ちも寒い地域だと体が慣れていくんだろうか。そう考えて、ぶるっと体を震わせた。ナマエはまだまだ慣れそうになかった。
ここに来たばかりの頃はまだ暑かった。そう思うと、なんだかとても時間の経過が早いように感じられて、ナマエはその過ぎていく時間に置いていかれているような気もした。
ナマエはずっと、時間に追いつけず、前に進めないでいた。
東京という大都会に置いてきた大切だったものが、ナマエをずっと引き留めているみたいだった。
2
春から夏にかけて滞在していた杜王町へ、空条承太郎は再度足を運んでいた。
殺人鬼、吉良吉影が死んだ一九九九年の夏から数ヶ月後の、年が明けてすぐの頃だった。
何故来ることになったのか、それはほんの数日前、承太郎の元に一本の電話があったからだった。世間が仕事初めだなんだと休暇ムードから忙しなく活動を始めている中での事だ。
相手はスピードワゴン財団の人間だった。その職員は、承太郎の祖父であるジョセフ・ジョースターのスタンド能力——ハーミット・パープルでの念写能力で気になるものが見えたのだという。それはジョセフが自身の息子である東方仗助を念写しようとした時、仗助とは別の、人の形のような影だけがぼんやりと写っていたのだと、職員は言っていた。
しかしジョセフいわく、その影は悪いもののうにも思えるし、そうでないようにも思える。そんな、なぜかとても曖昧に感じるものだと言った。
承太郎は、何ヵ月も前の事を思い出した。
初めて東方仗助という青年に会いに行った時も、ジョセフの念写能力で写したものを持って行った。数枚の写真は、杜王町での、ひいては仗助の身の周りに何かが起こる前兆のようなものを写していたし、起こった出来事全てにスタンド使いが関わっていた。
つまりはそういう事なのだと、承太郎は思った。
仗助が引き寄せられたのか、それとも引き寄せたのか。そしてそれをジョセフが引き寄せた。
写真に写っている影の実態は、ほとんどの確率でスタンドに関係しているものなのだろう。
「さて」
杜王町へ来る前に財団職員から渡されていた例の写真を眺めた。
写真の中にある影はぼんやりとしてはいるものの、財団職員が言っていたことは確かで、人の形であるように見えた。形に沿うようにどこか光を帯びているような、そういうふうに見えるだけなのかもしれないが、良く言えば神秘的で、悪く言えばうす気味悪いといった印象を受けた。
あくまで写真に、二次元的に写っているものなのでなんとも言えないが、この世に実体として存在しているものには見えないような気がした。どちらかといえば、人間がぼんやり写っているのではなく、承太郎自身のスタンド——スタープラチナのような、人型のスタンドに近しい雰囲気があった。
仗助を念写しようとしてコレが写るのは、やはりスタンド使いが彼の近くに潜んでいるのだろう。写真だけでは本体がどこにいるのかも分からないが、承太郎に焦りの感情はなかった。
じっとしていてもいずれ出会うだろう。
スタンド使いはスタンド使いと引かれ合う。そんな運命のようなものが、承太郎たちにはついているのだから。
承太郎は宿泊している杜王グランドホテルから、仗助の家に電話をかけた。
ひとまずこの件は彼に知らせておかなければならないと思ったからだ。
電話には仗助の母、朋子が出たが、一言「仗助はいるか」と伝えると声を大にして仗助を呼んでいた。
彼は自室にでもいたんだろう。電話越しにバタバタと慌ただしい音が聞こえてきたあと、久しく聞いていなかった声が応答した。
「承太郎だ。久しぶりだな、仗助」
「承太郎さん! ほんと久しぶりっスねェ! どうしたんすか? 急に電話してきて」
「お前に言っておかなきゃあならない事があってな……詳しい話は直接。明日は学校か?」
「あー、そうッスね。もう三学期始まってるんで。明日もフツーに学校っス」
「なら終わったあと、杜王グランドホテルに来られるか。そうだな、億泰と康一くんも一緒に」
一応親戚の類になる承太郎と仗助だったが、数ヶ月ぶりに互いの声を聞くほどにも関わらず、用件を伝えるのみだった。
近況を報告しあうなど、普通の人間ならほとんどの人がするだろう会話も碌にしなかった。
そして虹村億泰と広瀬康一も一緒に連れて来いと言った承太郎に、仗助は声を絞って「何かあったんスか」と何かを察した様子を見せたが、承太郎は答えず、そのまま電話は終了した。
次の日、承太郎がホテルの一室で自分自身が抱えている仕事をしていると、部屋に設置されている電話が鳴った。フロントからだった。
係の人間の話を聞きながら時計を見れば、学校もとうに終わっているはずの時間になっていた。
案の定、フロントからの電話は承太郎に客が来ているというものだった。そのまま部屋に通してもらう様フロントに伝えて電話を切る。少しすると、部屋のインターホンが鳴った。
扉を開けた途端、いの一番に顔を出した億泰が手をヒョイと上げ、挨拶を寄越した。
「うっす、承太郎さん!」
「お久しぶりです。承太郎さん。お変わりないですね」
「ああ。君たちも変わらないな」
「そりゃあそうだろ。久しぶりつっても半年くらいだろ?」
仗助の言う言葉はもっともだった。
いくら高校生であっても半年そこらではほとんど何も変わらないだろう。ましてや承太郎のように成人して何年も経過している歳であれば、半年どころか一、二年ほど経っても何も変わらないものだ。
億泰が「たしかに」と分かりきったような顔をして頷いた。
「んで? 話ってなんスか」
仗助たちを客間のソファへ座らせ、それぞれにコーヒーを出す。高校生にはもっと違うものを出した方がいいのだろうかとも思ったが、生憎この部屋にはコーヒーしか置いていなかった。
承太郎はテーブルを挟んで彼らに対面している側のソファへ座った。
仗助がコーヒーをひとくち飲み、口火を切ったところで、承太郎は胸ポケットにしまっていた一枚の写真を取り出した。
白い枠に縁取られた、ジョセフが念写したものだった。
真ん中のテーブルに置いたソレを、向かい側の三人が覗き込んだ。
「仗助。お前の親父が、お前を念写しようとして写り込んだものだ」
「なんだあ? こりゃあ」
「これは……承太郎さん、ぼくたちを呼んだのは、この写真に写っているものがスタンドか、もしくはそれに関係しているかもしれないから、ってことですか?」
「ああそうだ。理解が早くて助かるよ、康一くん」
康一が写真を指差し指摘すると、承太郎は薄っすらと口角を上げるだけの笑みをこぼした。
ふと仗助が写真をつまみあげ、なんとも言い難い表情でソレを見た。
真相は分からないが、仗助はおそらく、知らない間に自分を念写しようとしていたジョセフに辟易としているのだろう。彼は今にも「うげー」だとかを言いそうに眉を顰めていた。
仗助の思うことはもっともであると承太郎は思った。
しかし、我が子の様子を盗み見るようなその行為を、ジョセフはいつもしている訳ではなかった。
今回はたまたま、ジョセフ自身が仗助の身に関する予感みたいなものを感じ取ったことがきっかけだった。
承太郎はそう聞いていたし、ジョセフの名誉のために説明を挟んだほうが良いのかもしれないと思ったが、何も言わず自分の胸の内に留めておくことにした。
今はそれを話す場面ではないからだ。
仗助から写真を取り上げて、テーブルへ置いた。
「仗助、去年の春に初めてお前に会った時も、コレと同じような写真を見せたな」
「ああ、アンジェロのやつっスね。覚えてるぜ。あとは、矢だとかの」
「ああそうだ。あの時も、お前を念写しようとしてアンジェロが写り込んだ。そしてアンジェロはスタンド使いだったわけだ。今回も同じようにスタンド使いが絡んでいるんじゃあないかと、オレは思っている」
それから承太郎は、ジョセフが言っていた「悪いもののようでもあり、そうでないようにも思える」ということと、現時点で写真に写っているものの実態は何も分かっていないことを伝えた。
正直なところ、写真のソレは純粋に良いものだとは到底思えないが、逆も然りで、以前念写されたアンジェロのように、悪だと断定するのは早計なようにも思えた。しかしどちらにしろ、注意するに越したことはない。
承太郎は三人へ気を抜かないよう言うと、それからここ最近で何か変わった事がなかったかを聞いた。
知らないスタンド使いが現れたかだとか、そういう事だ。
そこで、ふと思いついたように「あっ」と声を上げたのは康一だった。
「関係あるかどうかは、分からないですけど」
前置きを据えたところで、承太郎が続きを促すように頷いた。
「承太郎さん、ここ最近のニュース見ましたか? 連続強盗事件の」
「いいや、アメリカから到着したのが二日程前だったからな。こっちのものはまだ確認していない」
「おっ。オレ知ってるぜ。アレだろお? 宝石が盗まれったってやつ。だけどよォ、ありゃあ東京じゃなかったっけか?」
「おいおい億泰。オメー、ニュースとか見てんのな」
「いんやぁ、普段は見ねーよ? でも何軒も盗まれたっての偶々見てよお、犯人は全部で幾らくらい儲けたんかなァって思ってよ。覚えてたっつーわけ」
「億泰くん……」
「それで、その東京での事件がどうかしたのか」
億泰が「かなり儲けたんだろうなァ」と呟く中、康一が事件の簡単な詳細を語った。
それはこの国に住み、知っている人間なら誰しもが思うかもしれないという程の奇怪さがこの事件にはあったが、康一は関連のニュースを見るたびに、もしかしたらと思う事があった。
それは、犯人がもしかすると、スタンド使いなのではないかという事だった。
「なぜそう思う?」
承太郎が腕を組み、真っ直ぐ康一を見た。
「ええ、それは」
何故スタンド使いの仕業だと思うのか。康一は一連の報道を思い出すように眉を顰めながら、自分の知り得る、事件に関する知識を並べていった。
約一年前、東京のある宝石店が強盗に遭った。
店内の宝飾品のみならず、店の奥にあった金庫の現金も、根こそぎ持っていかれたという事件だった。
ここまではただの強盗事件であるのだが、この事件を知って、康一が不可解に思ったことは犯行の方法が全く分からないという件だった。
盗みに入られた店の店主や従業員たちがみんな口を揃えて「どうやって盗まれたのか分からない」と言っていていて、ある日店に行くと沢山の宝飾品が盗まれていたというのだ。それらが入っていた展示ケースだったり、現金も入っていた金庫だったりも破壊されているわけでも、無理矢理に開けられた様子も無く、ただ中身だけが綺麗に無くなっていた。
防犯カメラも電源から切られていて、目撃者も全くいなかった。
分かっているのは盗みに入られた時刻だけだった。
店に誰もいない深夜ということだけで、しかしこれも憶測でしかなかった。
他にはなんの手掛かりもないため、警察の捜査も難航してほとんど泣き寝入り状態だった。
こういった事件が、東京では立て続けに起こっていた。
一九九九年二月に最初の事件が、それから約三ヶ月ほどの間で次々と事件が起き、全部で八件にも及んだ。
そしてその全てが痕跡も一切残さず行われており、これら一連の事件は全て同一犯によるものと推測しているのだと、警察は発表していた。
康一は、そんなことが可能なのかとニュースを見て思った。
一件だけなら、完全犯罪と言わしめるような、なんの痕跡も残さずやってのけることだって可能かもしれない。しかし八件全てが同一犯だった場合、その全てで、手掛かりひとつ残さないなんて事が、果たしてできるのだろうか。いいや。きっと不可能である。人間はどこかでボロを出すものであるからだ。単独犯でも、複数犯でも。それぞれのミスがある筈だった。
康一は、ああすれば、こうすれば、と様々な"手口"を考えた。
しかしどう考えても、やはり警察までが根を上げる程の、八件全てにおいての完全犯罪は不可能な気がしてならなかった。
日本の警察は優秀である。それなのに一年経っても何の進展も無いのであれば、きっと捜査自体行き詰まっているのだろう。これだけ世間を騒がせている事件だ。何かしらの進展があれば必ず報道される筈だと思ったが、そういったニュースは一度も見た事がなかった。
優秀な警察をここまで追い込む程のことを、果たして"普通"の人間ができるのだろうか。康一は、自らがスタンド使いであるが故に、そして件の事件の奇怪さを鑑みて、もしかしたら、犯人も自分と同様なのではと思えてならなかった。
「なるほど。君の話を聞く限り、確かに普通の人間にできるものではないのかもしれないな。それで、結局は犯人は逃げ仰せて、泣き寝入りということか」
「あ、いいえ。実は、この事件自体が奇妙なのは、ここからなんです」
「……というと?」
「ぜんぶ店側に戻って来てんスよ。その盗品」
「仗助くんの言うとおり、そうみたいなんです」
億泰が横で「勿体ねえ」と呟いた。事件のことは知っていても、盗品が返ってきていたのは知らなかったようだった。
康一が呆れたような顔を億泰へ一瞬向けた。
「年が明ける前だったかな、盗品がまた戻って来たってニュースでやってたんです。これで、一連の事件で盗まれたものは全て返されたって」
「最近じゃあよォ、その話題で持ちきりだぜ」
「ひとつ聞くが、返されたってのは直接か? 例えばある日店の前に置かれていた、だとか」
「いいえ、宅配便で送られてきたって話です。発送元は転々としているみたいで、どこからだったっていうのは、世間には好評されてません。警察だけが把握していて調べてるっていう言い方をしてました。ニュースでは」
「なるほど。色々な地域から送っているのは、足がつかないようにしてるのだろうな」
承太郎は、前のめりの体勢から、腕を組み柔らかいソファの背凭れに体を預けた。
スタンド使いが絡んでいそうな事件ではあるが、もともとの発生場所は東京であり、杜王町、それから念写の写真とは関係なさそうだった。
東京での強盗事件が最初に起こったのが昨年の二月で、それが仗助に関係しているのなら、その時に、もしくはアンジェロや鏃が念写され承太郎が仗助に会いに来た頃にでも、この念写がされていてもおかしくはないからだ。
承太郎は、改めて写真をじっくりと見つめてみた。
吉良吉影が現れ、そして死んでから半年ほど経つ。それよりも前に起こっていた事件が、今になって自分たちに迫っているというのだろうか。
それならどう関係しているのか。もしくは何も関係していないのか。分からないが、現時点では調べようがなかった。
せいぜい事件の報道を見直し、詳細を深掘りしてみるくらいだろうかと、承太郎は写真をまたテーブルへ置いた。
しかしその時、億泰が思い出したように興味深いことを呟いた。
「全国各地から返されたってよォ、どれかが杜王町からだったりしねえのかな? なあんか、去年のいつか……もう寒かったぐれーの時だったかなァ。やたら警察いんなーって思ったことがあんだよなァ。その事件調べてたりしてな」
片方の手を顎にやり、考え込むような顔をしている億泰を、その場にいる全員が見つめていた。
3
その日、ナマエは奇妙な客と小さな部屋に二人でいた。
窓のない、四方を壁に囲まれた六畳にも満たないその部屋には、簡素なシャワールームとトイレ、部屋の広さにそぐわないセミダブルベッド、それから横幅が五十センチほどのキャビネットしかない。
キャビネットの高さは引き出しが三つ分ほどのもので、天板上には内線用受話器があり、引き出し内にはナマエが仕事で使用する物の、足りなくなった時の予備がいくつか入っていた。
ここはナマエの職場だった。
「君は口が固いかい」
「お客様の事を誰かに喋ったりはしないですよ」
「ふうん、そうか。なら良い。いや、ぼくにとっては口が固かろうが、そこら辺の主婦達のように何かにつけご近所のアレコレを蛇口を捻ったように喋り倒すほどの口の軽さでも、まあ関係無いんだがね」
「そうなんですか?」
「ああそうだ」
青年にぶつかり足を捻ってしまった日から、ナマエは仕事を二日ほど休んでいた。
まだ足には少しの違和感が残っているものの、特に歩き回る仕事でもないので、早々に復帰した。それにナマエの仕事は歩合制というやつだった。客を取れば取るほど戻りが多い。逆を言えば、客を取らなければ収入は無い。世間でいう有給休暇だって無いし、例え仕事中に怪我をしたとしても補償は無い。ナマエはどんなに足が痛くとも、長い期間を休むわけにはいかなかった。
どうしてこんな事をしているんだろうと、時折思うような仕事だった。
それでもナマエには他の仕事は思いつかなかった。
面接もほとんど無いに等しく、履歴書もいらない仕事。ある意味でプライバシーが完全に近い形で守られている仕事。本名を名乗らなくて良い仕事。
それがナマエの仕事だった。
二日間の休みから復帰した一番めに相手をする事になった男——岸辺露伴は、俗に"プレイルーム"と呼ばれているその部屋で、面積のほとんどを占め置かれているベッドの隅に胡座をかいて座っていた。その手にはスケッチブックがあり、部屋全体を繊細に描いていた。
ナマエは邪魔にならないよう露伴の隣へ座り、ときどき彼の話し相手となった。
岸辺露伴は、漫画家だった。
ナマエはよくは知らなかったが、名前くらいは聞いたことのある人物だった。
「さて」
三、四十分くらい時間が経ったときだった。
露伴がひと言呟きながらスケッチブックを閉じたあと、描くための道具をベッドのそばにあるキャビネットの上に乱雑に置いた。
隣に座るナマエの方へ向き直ると、じっと瞳を見つめながら彼女の髪の毛を耳へかけた。
ナマエは気を引き締めた。
「先生、もうスケッチは終わりで良いんですか?」
「ああ。良い資料になりそうだよ」
「それは良かったです。……じゃあ、シャワー、浴びます?」
「くく、せっかちだな、君は」
「だって、待ってましたから。先生のスケッチが終わるの」
「ふうん。待ってたか。待ってた、ねえ」
ナマエはこの部屋に来る客に対し、どんな女でいればいいか、どんな言葉をかければいいかを心得ていた。
客の人柄はさまざまではあるが、自分はあなたのことを待ってたと口にした時、大抵の客は喜んだ。素直に嬉しそうにする人、顔だけに出る人、表面上はつんけんしていてもどこかそわそわとしだす人。色々だが、客はナマエの仕事を分かっているつもりであるのにも関わらず、それでも大半がまるで恋人にそう言われたように喜ぶ。
岸辺露伴にも、いつも客にしているようにした。
そうしてナマエの言葉に乗り、シャワーを浴びてコトに及ぶ。そうなると思っていた。
「君はその如何にもな服を、ぼくにひん剥いてもらうのを待ってたってわけか?」
「そういうのが好きなら、先生の好きにして」
こういうタイプか、とナマエは思った。
珍しい訳ではないので、当たり障りの無い返答をしたのだが、その瞬間、露伴が肩を震わせて笑いだした。
それはだんだん、喉を揺さぶっているような笑いから、おかしくて堪らないといったようなものに変わっていった。
ナマエは自分の眉間が寄るのを感じたが、それは駄目だと必死に"キャスト"の顔を演じ、彼の笑いが収まるのを待つに徹した。
目の前の男が、何がそんなにおかしくて笑っているのかが分からなかったが、ナマエの仕事を笑う人間はごまんといる。きっと、やりたくもない筈なのに客に媚びへつらうような言葉を吐く自分の事を笑っているのだろうとナマエは思った。
「いやあ、すまないね。別に君や君の仕事を馬鹿にして笑ってた訳じゃあないんだ。ここへ金を払って来ている以上、君を馬鹿にする権利なんて無いからね。そうだろ?」
「馬鹿にされたなんて、そんなこと」
「いいや、思ってるね。しかし顔に出さない。いいね。流石だよ」
突然、露伴はナマエをベッドへ押し倒した。
柔らかい布団が空気を含んだ音を上げ、それを通り越してベッドのスプリングがギシっと音を立てた。
露伴の耳にぶら下がっているペン先を模した耳飾りが、ふらふらと揺れるのが見えた。
「君を選んだのは正解だったかな。おい、そんな顔をするんじゃあない。君はプロだろ。ボクはこういった世界の人間が普段どんな場所で、どんな風に客を相手しているのかを取材しに来ただけさ」
露伴が何かを言っているが、ナマエは彼に主導権を握られた感覚を覚え、保っていたキャストの顔が不安に歪んだ。
こんな風に、少々乱暴にしたいという客だって勿論いた。
しかし来店した男たちは必ず店側に身分証を提示していた。コピーだって取られているし、キャストにも事前に見せられていたため、男たちがナマエのようなキャストに危害を加えたりする事はまず無かった。
身分証という人質があるため、何かをすれば直ぐに身元が分かるからだ。それが偽造されたものなら泣き寝入りするしかないが、それでも提示された身分証を行使するような事態に陥った事は今まで一度もなかった。ナマエだけでなく、店のスタッフだってそう言っていた。
主導権は店側にあり、キャストにあった。
それはきっとこの岸辺露伴に対しても変わらない筈だった。
露伴はまだ何かを言い続けている。
「言っておくがね、取材と言っても実際に体験しようとは思ってないぜ。まあ、それでも良いんだが、ぼくにとってそこは重要じゃあない。ああ、もちろん危害を加えるような事もしないさ。だから安心しろよ。君も知っているだろうがぼくだって店に身分証を提出したんだ。コピーまで取ってたさ。それが普通なんだろ? 初めて知ったよ。良い経験になった」
ナマエには、露伴が何を言いたいのかが分からなかった。
取材がしたいというのは初めに聞いていたが、取材といってもナマエはてっきり普通の客と同じように店を利用してみるといったものなのだと思っていた。一度経験してみたかったのだと露伴が言っていたからだ。
しかし彼の言い分を聞いていると、実際には何をしたいのかが分からなくなった。店のシステムなんかを知りたいだけならわざわざお金まで支払ってナマエとこんな部屋に二人きりで過ごさなくてもいいし、部屋にだって店に頼めば入れてくれるだろう。一人でゆっくりスケッチでもなんでもできたように思う。
露伴の考えている事がまるで掴めずナマエは怖くなった。
逃げ出したくなって、思わず身じろぎをするが、露伴はそれを許さなかった。
「まあ聞けよ。ぼくが漫画を描く上で大切にしている事はな、リアリティなんだよ。だからこうやって知りたいと思ったことは実際に足を運んで知識を得るし、自分で経験できる事はする。だがね、人の内情、裏面ってのはなかなか知ることができないだろ? 自分が同じような気持ちになって考えることはできるが、そんなのはリアリティに欠けるってものさ。特に特殊な仕事に就いている人間、君のような性風俗店で働く人間の気持ちなんて全く分からない。いや、貶しているんじゃあないぞ。純粋な、単なる好奇心だ。要するに、こういった店で働く人間は、客の前ではどんな風でいて、頭の中ではどんな風に考えているのかを、ぼくは"自分の目で読みたい"。君がこの部屋にぼくを迎え入れた瞬間、ぼくが部屋のスケッチをしている最中、『待ってた』だとか『先生の好きなようにして』と言っていた時の、そんなキャストとしての表の顔は充分に見た。あとは——」
ナマエに馬乗りになったまま、延々と話していた露伴がぴたりと口を閉じた。
それは次に何かをする前触れのようであり、恐ろしく感じながらも彼が最後に言った言葉にナマエはどこか引っ掛かりを覚えていた。
人の裏の顔や内面を"読みたい"とはどういう事なのか。"聞きたい"ではなく"読みたい"とはっきり彼は言ったが、そんなものは読めるはずがなかった。
ナマエは露伴が何かをしようとしているとは感じているものの、それが何なのかは全く検討がつかなかった。
言っている事も意味不明で、ナマエは自然と呼吸が浅くなった。
「——君の裏面を、頭の中を読ませてもらうぜ。わくわくするなァ、知りたいことを知る瞬間ってのは。最高の気分だ——ヘブンズ・ドアー!」
露伴が何かを言ったのとほとんど同時に、ナマエは彼のすぐ横に不思議なものが浮かびあがったのを見た。
そして自分の片方の腕の一部が、まるで本のようにめくれあがった。視界の端にも紙でできたページのようなものが突然入り込んで、自分が本になってしまったような感覚に陥った。
ナマエは息を詰まらせたような声を上げた。
「ん? なんだ、君。昏倒しないのか。……ふむ。ぼくも成長していると思っていたんだが。まだまだ、ということかな」
「……っ」
「体はあまり言うことをきかないのかね? まあいい。——まずは君のことを知るところから始めようじゃあないか」
露伴はナマエの体の一部に出来上がった"ページ"をぺらりとめくった。
そうして、次に露伴が発した言葉に驚愕した。
「本名はみょうじなまえ。一九七七年生まれの二十三歳か。この店のキャストリストには十九歳だと書かれていたが。まあ、源氏名で仕事しているのだから年齢も多少誤魔化しはするだろうな。それから……ほう、君は東京の生まれなのか。五歳で施設に入っているな。理由はここには書かれていないが……別のページか?」
一体何が起きているのかナマエには理解ができなかった。
露伴は明らかに、ナマエの体にあるページを"読んでいる"ようだった。
それはまるでナマエの人生を、履歴書を読むように露伴が口にしていく。読み上げられていくたび、ナマエはどんどん青ざめていった。
ナマエにとってはその全てが本当のことであり、そして知られたくないことだったからだ。
そうして、露伴が別の箇所にあるページをめくり、まるでそのページにタイトルがついているようなもの言いで「私と、私の大切な人との、幸せになるための計画書」と読み上げた時、ナマエは頭を殴られたような気持ちになった。
そこに何が書いてあるのか、想像がついたからだった。
これ以上は絶対に知られる訳にはいかない。そう思うのとほとんど同時に、ナマエは頭にひとつの事を思い浮かべた。
ナマエの体に浮かび上がっていた本のページがパラパラと音を立てて閉じていった。
それから少しの間があり、ナマエの上から退いてベッドへ座り直した露伴の横へ、自分も同じように座った。
「——別に君や君の仕事を馬鹿にして笑ってた訳じゃあないんだ。ここへ金を払って来ている以上、君を馬鹿にする権利なんて無いからね。そうだろ?」
「あ、あの、先生。話の腰を折ってしまってごめんなさい……その、お手洗いに行っても良いですか?」
「……ん、ああ、構わないぜ」
"同じこと"を話しだした露伴に断りをいれ、ナマエはベッドから降りて部屋の入り口の隣にあるトイレへ入った。
ポケットにしまっていた携帯を取り出し、ひっそりと、部屋に声が漏れ出てしまわないようナマエは電話をかけた。
発信先は店のスタッフだった。
どうにかして露伴の元から離れるためだ。
「もしもし……お願いします、理由はなんでもいいので、いますぐ戻ってくるようにって内線に電話してもらえませんか。あの岸辺露伴って人、私がNGにしてることの要求がちょっと多くて……なんとか穏便に他の子と代わるとかしてもらえませんか」
NGにしている行為を露伴に求められた訳では全くないのだが、本にされたなんてわけの分からない事は言えなかった。
少々荒っぽくはなるが適当な理由をつけて呼び戻してほしいことをスタッフへ伝えると、二つ返事でオーケーされた。
店を運営している側にとってキャストである女の子は大切な稼ぎ手であるため、ある程度のわがままは聞いてくれる。ナマエの思った通り、スタッフは直ぐに電話して呼び戻してくれると言った。
トイレを出たところで、スタッフとこっそり打ち合わせた通りに部屋の内線電話が鳴った。
ナマエが出ると、そのまま露伴に代わるよう指示をされたので、そのまま代わってもらう。彼は少々眉を顰めながらも電話口に向かって相槌を数回打ちつつ、最後には「分かった」と言って電話を切った。
「残念だが、君とはここまでのようだ。店側のミスで君に入っていた他の接客の予定と、ぼくとの時間が被っていたようだぜ。すぐ迎えが来るそうだ」
「え、そ、そうなんですか……でも、先生だってお客様なのに」
「構いやしないさ。他のキャストが代わると言っていたしな。取材の続きはそっちでやる」
「そうですか、なんだかすみません」
露伴はきっと、代わったキャストにもナマエと同じようにするのだろう。そのキャストには悪いが、あのまま体に浮かび上がった本のページを読まれてしまうことはどうしても避けたかった。
部屋のインターホンが鳴り、露伴に別れを告げてスタッフと一緒に事務所へ戻った。
どきどきと騒がしい心臓は、露伴と別れたあとでも静かになることはなかった。
岸辺露伴という男は一体何者で、人間を本に変えたアレはなんだったのか。いくら考えても分からなかった。
しかしそれは露伴にも言えることだった。
彼はナマエに何をされたのか、きっと分かっていない。それどころか、何かをされたこと自体、認識もしていないだろう。本にして読んだナマエの記憶も、彼は覚えてはいない。露伴にとっては、ナマエを本にするという行為自体を"しなかった"のだから。
結局、ナマエはその後に予定していた客を全てキャンセルし、早々に帰宅した。
4
この日の授業が全て終了し、昇降口まで降りて来た東方仗助は、外履きのローファーを靴箱から出した。
地面に放ったそれに履き替えながら、一週間ほど前に遭遇した女のことを考えた。
杜王駅前にある横断歩道で、仗助とぶつかった女のことだった。
あれは確か夜の九時頃だった。
高校の友人たちと、学校が終わってからカフェに入り浸り、ついでに夕食も外で済ませた日だった。
虹村億泰と、広瀬康一の、いつもの二人とだった。
年の初めに空条承太郎から見せられたある写真と、世間を騒がせている強盗事件のことを三人であれやこれやと談議した、その帰りの事だ。
杜王駅の周辺で二人と別れた。また明日と手を上げ、みんながそれぞれの家に帰っていく背中をぼんやりと眺めた。
康一はマウンテンバイクで帰宅。億泰はイタリア料理屋の『トラサルディー』で夕飯を食べているという父親を迎えに行くと言った。
仗助はほとんど飾り同然である薄っぺらい学生鞄を肩に持ち、片方の手をポケットに入れて自宅へ向かおうとした。
その途中、駅前の噴水に住みついている亀は、今はどうしているんだろうかと思う。昨年の春に悪い先輩に投げつけられ、仗助がその傷を治した亀のことだった。
まだあの噴水の水たまりに、生きて住んでいるんだろうか。傷は完治したし、きっとまだ生きているんだろう。噴水の、夜の空を映し取ったような暗い水面を覗きこんだが、亀は姿を現さなかった。
噴水から離れ、いよいよ帰ろうと踵を返したとき、二十メートルほど先の信号が青に変わった。駅前にある、仗助も渡る交差点だった。
帰宅ラッシュも終盤に差し掛かっているほどの人の疎らさがある中で、仗助はその交差点へ足早に向かっていった。
信号が青のうちである今、渡ってしまいたいと思ったからだった。
しかし、歩行者様信号の青色は、瞬く間にぴかぴかと点滅状態になった。
ここの信号は変わるのが早いのだ。仗助は点滅信号の中を走って渡ることはせず、次でいいやと諦め立ち止まった。
自分の目の前には、同じように信号待ちをする女がいて、彼女は何かを探しているような素振りをしていた。ポケットに手をやったり、鞄を漁ったり。それをぼんやりと見たあと、仗助は次に自分の足元にあった少しくすんでいるローファーを眺めた。
通り過ぎる車のヘッドライトが、ローファーに鈍く反射した。
磨いてやらなければ。そう思った時だ。
仗助の体に衝撃が走った。すぐ前にいた女が、突如として振り返り仗助にぶつかったからだった。
女はぶつかった反動で、そのまま尻餅をつきそうな勢いで真後ろにバランスを崩した。
仗助は咄嗟に、女を腕を掴んだ。瞬きほどの一瞬で空間へ消え去ったその腕は、仗助自身のものではなく、仗助のスタンド——クレイジー・ダイヤモンドの腕だった。
もしかしたら、クレイジー・ダイヤモンドの腕が見えていたんじゃないか。あの女を引っ張りあげた時から仗助は感じていたが、確信はなかった。
承太郎から写真を見せられ、スタンド使いが潜んでいるかもしれないと言われたこともあり、敏感になっているのかもしれないと後々になって思ったし、あの時、いくら街灯が照らしていたといっても辺りは暗かったからだ。
人の目線がどこを見ていたのかなんて、はっきり分かるわけもなかった。
しかしどうにも気になった仗助は、広瀬康一と虹村億泰と共に、その時の女を探していた。
「仗助ェ。ほんとーにその女の顔見たら分かるんだよな?」
「何回聞くんだよ、ソレ」
「だけど、もう一週間……それらしい人は今のところいないんだよね?」
「ああ」
杜王町にはベッドタウンというわけもあってか、約六万人の人々が住んでいる。もちろん全員が杜王駅を利用する訳ではないが、一日の利用者は五千人ほどとかなりの数だった。そんな中から一人の人間を探すとなると、困難を極めた。
それに仗助たちは、学校終わりの放課後から夜の九時ごろまでずっと杜王駅にいるわけではなかった。
帰りが遅いと家族も心配するので、一度帰宅し、夜になると家を抜け出す。そして三人は杜王駅にふたたび集まるといったかたちをとっていた。
承太郎に伝えておいた方がいいかもしれないとも思ったが、女の顔が分かるのは仗助だったし、そもそもまだ女がスタンド使いなのかどうかは確証がなかった。
それに承太郎は東京の強盗事件の方を調べなおしているはずだったので、ひとまずは連絡をやめておいた。
件の女は、仗助の記憶からすると駅前の大通りにある交差点を渡ろうとして、何かを思い立って駅の方へ戻っていった。様子から察するに何か忘れ物をして取りに戻ったんじゃないかと推察すると、女は帰宅途中だったのだろうと考えられた。
あれが帰宅途中であるのなら、スーツなどを着ていなかったことから私服で会社に通う社会人か、学校終わりにアルバイトでもしている大学生か。他にも色々な可能性が考えられるが、きりがないので、九時ごろに帰宅する社会人か大学生という考えにまとめた。
しかし、見張る時間を午後九時ごろとして杜王駅に集まりつづけてから一週間が経過しても、それらしい人物を見つけることができないでいた。
一日、二日程度なら帰宅時間がまばらになることもあるだろうが、一週間連続でズレることなんてあるんだろうか。仗助たちは不安になった。
もしかしたら、出会った時はたまたまあの場にいただけだったのかもしれない。仗助にとって、女を探す手がかりは"杜王駅"と、"午後九時"だけだった。それが、"たまたま"で片付けられてしまうと、もう探しようがない。
駅前広場に設置されている時計が、午後九時二十分を指したころ、仗助たちの間にいよいよ諦めの雰囲気が漂った。
しかし、女は見つかったのだ。
電車が到着したためか、ぞろぞろと広場に向かって流れ込む人だかりの中に仗助は確かに見覚えのある顔を見つけて、座りこんでいた亀のいる噴水の縁から飛び降りた。
5
久しぶりに電車を使い、杜王町の外にある職場から帰った時のことだった。
雪の降りが落ち着いて、月の明かりが綺麗な夜だった。
ナマエはたいてい、客からの指名などがない場合は昼過ぎに出勤し、それから午後八時すぎあたりには退勤するようにしていた。
足を捻っために取った休みあけ、岸辺露伴という奇妙な漫画家が職場にきた次の日、ナマエはまた一日だけ休みをとった。
その後は休んだぶんを取り返すように朝まで働いた。
ナマエの職場は真っ昼間から明朝までの営業だった。
ほとんど始発の電車に乗って帰宅したのは二日程度だったが、ほとほと疲れてしまって、今日こそは帰ったらじっくり体を休めようと考えながら杜王駅を降り、人の流れに混じって広場まで出た。
駅を利用する人たちが混雑するのは駅前広場までだった。
そこからは、さまざまな場所に行くためにそれぞれが方々に散っていく。タクシーに乗ったり、自宅へ向かう方面のバスを利用したり、八方へ広がる駅からの道へ歩いて行ったり。
ナマエはその中の歩く人たちに混じった。
首に巻いたマフラーを口元が隠れるくらいまで引き上げながら、駅前広場の中央に設置されている噴水の横を通り過ぎようとしたとき、学生服を着た青年がひとり、ナマエの前をふさいだ。
背が高く、リーゼント頭で不良の見た目をした青年だった。
「あの、すみません。ちょっと、聞きたいんスけど」
「えあ、わ、わたしに? なにか?」
「そう、おねーさん、おれのこと覚えてませんか」
胸の真ん中を大きく開いた丈の長い学生服に、スラックスは太くてだぶついたものを履いているその青年は、格好こそやんちゃをしていそうな感じだが言葉使いも丁寧で、見た目よりも温厚そうな雰囲気が感じとれた。
覚えているかと言われて、ナマエは青年の顔をまじまじと見た。
目を大げさにぱちぱちと開いて自分の記憶を探ってみると、あっと思い出した。
「きみ、あの時の」
一週間ほど前、ちょうど今いる場所でぶつかってしまった青年だった。
あの時は自宅の鍵を忘れたことに焦ってしまっていたが、特徴的なリーゼント姿はしっかり記憶に残っていた。
ナマエが記憶の中の青年と重ねて呟くと、目の前にいる彼はパッと表情を綻ばせた。
「そうっス! それで、おれ、ずっと気になってたことがあって」
「気になってたこと?」
「あの時、おねーさん、足捻っちまったんじゃあねえかって。ぶつかったのはおれも悪かったんスよ。ぼーっとしてたし。だからもし怪我してたら半分はおれのせいってわけで。気になってて」
青年は、頬を指先で掻く仕草をしながら言った。
一週間まえにぶつかったとき、ナマエが走り去って行く後ろ姿と、どことなく足をひょこひょことさせている様子を見て、もし次に会うことがあったらきちんと謝りたかったと眉をさげた。
ナマエは改めてその時のことを思い出したが、どう考えても突然に踵を返したナマエが悪かった。横断歩道の信号待ちをする場所で、近くに人がいることは少し考えれば分かることだったからだ。いくら焦っていたとしても、いきなり振り返って走り出そうとした自分のほうが悪いだろう。
ナマエは青年のほうにこそ怪我はなかったかと聞くが、彼は両手を胸の前で左右に振り、それから「おれは頑丈なんで!」とおどけたように言った。
電車がまた駅に到着したのか、人の波が駅前広場に押し寄せた。
ナマエの横を数人が通ったとき、ひとりの肩がぶつかった。捻って腫れてしまってから、どことなく違和感の残っていた足を無意識のうちに庇ったせいで、ナマエはその場でたたらを踏んだ。
「おっと、危ねえ。おねーさん、やっぱ足怪我してたんスか」
「ああ、いや、でも本当にもう大丈夫なんだよ。ぜんぜん痛いとかもないし」
「ダメっスよ。おれ、ちこっと怪我とかに詳しーんで、見せて」
「え、ちょっ」
「こっちの足っスかね。痛くなくても骨とかに異常あったら大変でしょ。そういうのにも詳しいっスから、おれ」
青年はしゃがみこみ、ナマエの片方の足を指差した。
リーゼントのてっぺんが見えて、ナマエは慌ててやめさせようとする。恥ずかしいからではない。少なくもない人通りの、周りの目が痛いからだった。
大丈夫だとナマエは伝えたが、青年は強引に怪我の具合を見ようとする。もしかしたら、彼は医者の息子かなにかであって、怪我人をどうしても放っておけない性分なのかもしれないが、生憎、すでに痛くはなかったのだ。足はたしかに捻ったし、先ほどはほとんど無意識に足を庇いこそしたものの、いま残っている違和感は気のせいかと思うほどの、ごく些細なものだった。
いよいよ青年の肩に手を伸ばし、自分の足は本当に問題ないのだと伝えようとした時、ナマエの目の前に、以前にも見たような光景が広がった。
この場所で、転びそうになったナマエを引っ張りあげた時に見た、青年の"二重"の腕だった。
「わっ、なに」
以前見たときは、目の錯覚かと思ったほど薄ぼんやりとしていたものが、今度はハッキリと見えていた。それは青年の手とは見た目が全然違うものだったが、確かにナマエの足に向かって、青年と全く同じように手をかざしていた。
ナマエは思わず声をあげ、一歩うしろに下がった。
すると突然、青年の雰囲気が変わった。温厚そうな表情も変化し、とても鋭い目がナマエを見上げていた。
ゆらりと立ち上がった青年の背後から、もうひとつの腕の主が全貌を現して、ナマエはハッと上擦った声を漏らした。
「あんた、やっぱりか。前にここでぶつかった時、まさかとは思ってたんだがよォ。マジに大当たりだったわけだ」
「何が……何を言ってるの」
「とぼけんな。見えてんだろ、コイツが。目で追ったろうが。誤魔化せねえくらいによお」
口調さえも変わった青年とともに、傍らにいる"何か"もナマエを見下ろしていた。
見えていたらなんだというのか。ナマエには話が見えなかった。
しかし今の状況と似たような経験をしたことがナマエにはあった。ここ最近のことだ。
岸辺露伴が職場に来た時のことだった。
ナマエの頭の中は疑問でいっぱいになった。
今すぐにでも落ち着いて話を整理したかったが、もし、リーゼントの青年があの岸辺露伴と同じように人間を本にしたりするちからを持っていたとしたらと考えると、ナマエは背筋が震える思いだった。
青年はちらりと視線を他へ向けた。すると同じような学生服を着た二人組が近づいてきた。
青年のものとは姿形が違うが、こちらへ歩み寄ってくる二人組の学生の背後にも"それ"はいた。
ナマエはさまざまな疑問や考えを一旦頭の隅へ追いやった。
そうして、岸辺露伴の時は頭に思い浮かべただけだったことを、今度は口に出して唱えた。
「……なに!?」
青年が一瞬驚いたような顔をして、構えをとった。
しかし次の瞬間には、青年はナマエの足元に膝を折り、それからまた、おどけたような表情に変わった。
こちらへ来ていた二人組は戻って行った。
「——おれのこと、覚えてませんか」
「んん……ああ、あの時の!」
また"同じこと"を繰り返した青年に、ナマエは先ほどと同じように答えた。そしてすかさず、彼の口を塞ぐように「あの時はごめんなさい!」と声を張った。
「わたしあの時は焦ってて、あの、家の鍵がなくて、職場に忘れたんだって慌てて取りに戻ったから……ろくに謝りもできずに本当にごめんなさい。怪我とか、なかったですか?」
ナマエが頭を下げ、沈黙を許さない勢いで喋れば、青年は面食らったような表情で「いーんっスよ!」と返した。やはり足を捻っていたんじゃないかということは聞かれたが、この質問にも難なく答えた。少し捻っただけであり、次の日には全く問題なかったと。そう言えば、青年はナマエを探る機会みたいなものを失ったようだった。しかしなぜ探られているのか、その理由は分からなかった。
駅前広場に人が押し寄せた。
ナマエは人の気配を感じとったように一度周囲を見まわした。
邪魔になっているかもしれないと青年に伝えて、ナマエは自分の横を通っていく人たちから"ぶつからないよう"少しだけ距離をとった。
「ええっと、じゃあ、わたしそろそろ。あの時は本当にごめんなさい。それから、足のこと心配してくれてありがとう」
「あっ、ちょっと待って」
青年は何も覚えていないだろう。青年だけでなく、空にいる雲だって、風に吹かれて流れた事を覚えていない。覚えていないことさえ理解していない。
青年のことも、雲がどのくらい流れ進んだのかも、ナマエだけが覚えていた。
ナマエにとっては、映画のワンシーンをもう一度観るのと同じだった。
分かっていれば怖いことなんてなかった。
去りぎわ、引き留められて振り返った先で青年の傍らに現れていた"何か"にも、うまく視線を向けないようにすることができた。
「どうかした?」
「ああ、いや……なんでもねえっス」
「そっか。それじゃあ、さよなら」
ナマエは背を向けて、それからは一度も振り返らなかった。
青年は、諦めてくれただろうか。結局、彼の目的はよく分からなかったが、それは家に帰って、疲れた体を休めてから考えようと思った。
風が吹いて、ナマエの巻いているマフラーを揺らした。
いつのまにか下っていた天気によって、降りだした雪を手のひらで受け止めると、綺麗な結晶のかたちをしていた。それはすぐにかたちを崩して、とても小さい水たまりになった。
結晶のかたちをした雪を見たのは初めてだった。
それから一週間もしないうちに、ナマエはまた青年と遭遇した。