ウーノ

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 神さまというものは、実在するんだろうかと考えることがよくあった。
 答えは分かっていた。
 神さまは実在なんてしない。けれど存在はしているものだと思った。
 神さまというものは人の意識の中にいるもので、人によってそれぞれの姿かたちがある。自分のなかにいる神さまを信仰し、そうして拠り所にする。
 その考えにいきついたのは、なまえが十一歳になった日のことだった。
 なまえにとって、初めて自分の中に神という存在が生まれた瞬間だった。


 1
 その日、イタリアという国の南部になまえはいた。
 北部もまわって見てみたが、このネアポリスという街は北よりも随分治安が悪いらしい。一歩路地へ入れば、視線がどこかおぼろげな人がたくさん座り込んでいた。
 北部でもこういった人たちを少なからず見たことはあった。年齢もまばらであるし、時には随分と若いほとんど子供のような人もいたのもあってか、意識が混濁しているとか瞳が虚だとかいうものの他に共通点が見出せず、こういった人たちが何なのか分からずじまいだった。
 しかし、分からずとも特に害があるわけでもなかった。
 目の前を通っても、なまえがいることを認識しているのかいないのか分からないほど、かれらはかれらの世界を生きているようだった。
 どこかを見つめながら、時折唸るような声を小さく上げているだけの人。何かに夢中の人。喧嘩をしている人だっていたが、みんななまえにはさほど興味もないようで、いつも何事もなくかれらの前を通り過ぎていた。
 だがこの日はいつもと違ったのだ。
 なまえはたいてい、表通りよりも裏通りを好み、街を移動するときはほとんどそちらを歩いていた。
 今日も同じように座り込んでいる人たちの横を通り過ぎようとしたとき、突然うしろから肩を掴まれ、あっという間に壁に押し付けられた。
 目の前には少し錆がかっているナイフが突きつけられていた。

「おれの薬盗んだろ!? 返せ、返せえ!」
「っ!?」
 
 まぶたが落ち窪み、頬もげっそりとしている男は、まるで自分が言っていることが本当だと言わんばかりの形相でなまえへ詰め寄った。
 薬とはなんなのか、どうして盗られたと思うのか。分からないなまえの頭の中は【困惑】でいっぱいになった。思うように男を払い退けられないまま、目の前の錆びたナイフがどの瞬間で振り下ろされるかと冷や汗を流すことしかできなかった。
 男は絶えず何かを呟いていて、ナイフを持つ手はぶるぶると音が聞こえそうなほど震えていた。
 刃先がなまえの鼻先を掠めるほど近づいて、錆の匂いが鼻腔に広がったとき、目の前の男が消えた。
 突然、突風が吹いたようになまえの前髪が激しくなびいて目をつむった。すぐにまたゆっくりと瞼を押し上げて風の行き先へ視線を向けると、消えた男が地面に倒れていた。
 
「シニョリーナ、怪我はないか」
「え、あ……スィ、グラッツェ」

 少し上から降ってきた声に、咄嗟に返事をして振り向いた。
 黒い髪のボブヘアと、小さな黒い模様がたくさん入った白地のスーツが印象的な男だった。
 イタリア語は基本的な挨拶程度しか分からないが、見よう見まねで言った言葉はどうやら伝わってくれたようだ。「なら良いんだ」と男が安心したように言ったのを聞いて、なまえもホッと息を吐いた。
 しかし、彼の口から次に出たのはお説教のようなものだった。

「きみ、見たところ観光客だろう。世間知らずなのかなんなのかは知らねえが、命が惜しけりゃこんな路地を一人でうろうろするんじゃあない。おれがたまたま通りかがったから良かったが、あのままだと刺されて死んでたかもしれねえんだぜ。観光は【まともな人間の】多いところへ行くんだな」
「……スィ」
「路地の出口はあっちだ。そこでのびてる男の後始末はおれがしておく」

 流れるようにお説教をくらい、男に背中を押されたなまえは言われるがまま路地の出口へ向かった。
 一度後ろを振り返れば、なまえを襲った男はナイフを取り上げられていた。その際、鈍い音が数回にわたって響いていた。なまえを襲った男が殴り飛ばされた音であるのは確かだったが、なまえはそれを聞かなかったことにした。
 
 そんなことがあってから一週間ほど経ったとき、なまえはネアポリス駅を訪れていた。
 目的は【探しもの】をすることと、もし【探しもの】が見つからなかった場合は列車に乗り、またイタリア北部へ行くためだった。
 イタリアでの滞在日数が早くも半月ほど経っているなか、なまえはもともといた北部から南へ下りながらずっと探しているものがあったが、一向に見つかっていなかったし、見つかる気配すらなかった。
 今度こそとやって来たネアポリス駅は割と大きな駅だった。ここなら【移動が行える場所】もあるかもしれないと思ったなまえは、細工したマントを頭から被り、駅の構内を彷徨いつつ、時折り壁なんかに手をつきながら列車の停まっているホームまできた。
 いろんな壁や、柱にいたるまでを触ってみるのものの、なまえの考えている【探しもの】は見つからない。同時に【痕跡】も探してはみるものの、気配は現れなかった。
 なまえはがっくりと肩を落とし、諦めてホームに停車している【フィレンツェ行きの列車】に乗り込もうと考えた。
 そんなときだった。見覚えのある姿を見つけたのは。
 一週間ほど前に、路地で刺されそうになまえを助けてくれた男が列車のかたわらでなにやらしゃがみ込んでいた。
 なまえは一度、周りから死角になっている場所へ入り細工してあるマントを脱いだ。それから例の男の方へ少々足を早めて歩み寄って行くと、チラリと向けられた視線がかち合った。発車のベルが駅構内に響き渡った。
 
「あ、わたしも乗ります!」

 視線が合ったものの、男はホームの水飲み場から何かを持ち上げ、発車ベルのなった列車に乗り込んだ。慌ててなまえも男の背中を追いかけるように乗り込んだのだが、一歩、列車の中へ足を踏み入れた瞬間、視界がぐるりと回った感覚に襲われた。
 驚きの声を上げることすら間に合わないくらいに一瞬のことで、気づいたときにはどこか小さな部屋のような場所になまえはいた。
 上から下へ、体を落とされたようだった。「いたた……」と打ちつけた肩をさすりながら衝撃の末に閉じていた目を開けると、目の前には面食らい固まっている数人の人たちがなまえを見ていた。

「……な、なんだあテメー! 敵か!?」
「ていうか! ここはなんなんだよ!?」

 一番はじめに我に返ったようすだったのはヘアバンドを巻いている男で、なまえに向かって思い切り指を差した。しかしそれは、額に矢印のある帽子を被った男が声を上げたことですぐに逸らされたのだが、次の瞬間にはなまえの体に植物のツタが巻きついた。反射的に体をよじるが、両手と両足に器用に巻きついたツタは弛むことはなく、なまえはわけも分からないまま身うごきが取れなくなってしまった。
 【この場所】が一体なんなのか、簡潔に考察を述べたのはなまえがこの中で唯一知っているボブヘアの男だった。

「どういう仕組みになっているのか分からんが、【あの鍵】が亀の甲羅にはさまると亀はなぜか能力を発現させて……その【鍵】が出入口となってこの空間を作りだし中に隠れられるらしい!」

 なまえには彼の言っていることがさっぱりだったが、他のみんなは一様に納得しているようだった。
 【鍵】だとか【スタンド】だとか【能力】だとか、それは一体なんなのだろう。どきどきと止むことを知らない心臓の音が頭に響くなかで考えていると、ボブヘアの男がなまえに近寄った。

「きみは、たしか少し前にネアポリスの路地で会ったと思うんだが——なぜ駅にいた? おれを追ってきたように見えた。なぜだ」
「……」
「……いいか。今この瞬間は喋るときなんだぜ。きみがおれたちの敵じゃあないと確信が待てなけりゃあその拘束を解くことはできないし、最悪きみを始末することになる」
「……う、イタリア語、喋る、分からない、多い……英語、または日本語、分かる?」

 イタリア語は、聞き取りは完璧だったが、自分が喋るとなるとほとんど分からなかった。ということは、なまえは男の言うように始末という末路を辿ることになる。それは嫌だった。
 この地へ来て半月ほどで覚えた単語を並べると、ボブヘアの男は眉をしかめ、それから後方へ控えていた特徴的な服の男を呼んだ。何がどうなっているのか、男の服は全身に満遍なく穴が開いていた。

「フーゴ、英語か日本語が分かるか?」
「……ええまあ、英語なら分かりますが……ブチャラティ、こいつはなんなんです?」
「それを聞き出してくれ。たぶん、イタリア語を話せないのは本当だろう。嘘をついているようには見えないし、以前会った時も発音がガキみてえだったからな。おれよりお前の方が英語の理解度が高い。頼む」
「分かりました」
 
 少しのやりとりをして、穴だらけの服の——たぶん、フーゴという名前——男がなまえの前へ膝をついた。
 半分日本人の血をひくなまえとも、生まれ育ったイギリスの人間とも違う雰囲気の顔がなまえを見て、流暢な英語を口にした。

「きみ、名前は」
「……なまえといいます。なまえ・みょうじ」
「アジア人か? 観光客? なぜ彼を追ってきた?」

 フーゴは自身の一歩後ろに下がったボブヘアの男をチラリと見やり、またなまえを見て言った。

「あの人を追いかけるために来たんじゃありません。イタリアへは観光で来てたんです。それで、ちょうど北へ向かう列車に乗ろうとして、そしたら見覚えのある人……あの人がいたから、声をかけようと思ったんです。前に助けて貰ったから。それで、気付いたら、ここにいて……引っ張られて落っこちた、みたいな……ここはなんなんですか?」
「……おい、ぼくが質問してるんだ。ここがなんだろうと今はどうでもいい。きみは、ぼくたちを狙って追ってきたわけじゃあないんだな?」
「う……は、はいっ。ごめんなさいっ。えっと、あなたたちを狙って、だとか、そんなことなくて、わたしはただ、イタリアの観光は終わりにして、北からイタリアを出るから、北部へ向かう列車に乗ろうとしただけ……です」

 威圧感みたいなものを含めた物言いで詰め寄るフーゴに、なまえはほとんど正直に答えた。正確に言えばなまえは観光客ではないのだが、そう言っていたほうがいいだろうと便乗しておいた。
 それから【探しもの】については黙っておくことにした。言わなければ分からないし、言うのは憚られたからだった。
 ただイタリアを出るために列車に乗る。それだけが目的で駅にいたのであって、ボブヘアの男を見つけたのはたまたまだったと。それ以外には何もないと弁明に近いかたちで言えば、フーゴは一応は納得したように後方を振り返った。ボブヘアの男や、ほかの人たちになまえのことを説明しているみたいだった。
 しかし、ふと「荷物は無いのですか」とこぼした人がいた。金色の、前髪のカールが目を引く綺麗な男だった。そしてなぜか、とても親近感の湧く雰囲気があって、なまえは思わず彼をジッと見つめた。
 しかし、彼が言った【荷物】という言葉を思い返して、一瞬の間を置いてからハッとした。
 なまえはかれらに、自分は【観光にきて、北からイタリアを出るために北部行きの列車に乗った】と言った。
 観光客なのだ。普通なら大きな荷物くらいあってもいいのではないか。しかし、なまえはほとんど手ぶらに近く、荷物という荷物は肩から下げた手のひら二つぶんほどの小さなバッグだけだった。
 なまえにとっては、この小さなバッグだけでこと足りていた。荷物がとても少ないというわけではなく、お金や着替えといった必要なものからガラクタまで、全てを【このバッグに入れてしまえる】からだった。
 イタリアに来る前も、来てからもなまえはいつもこの小さなバッグひとつで行動していた。これはなまえにとって【普通】であっても、かれらにとってはそうじゃない。
 やってしまったと思った。

「確かに、ジョルノの言うとおりだ——おい、荷物はどうした? まさかそんな小さい鞄だけで観光に来て帰るだとか言うんじゃあないだろうな。ブチャラティの話だと少し前からイタリアにいたんだろ、お前。その分荷物だって多い筈なんじゃあないのか」
「え、あ、に、荷物……荷物は、えっと、さ、先に送ってて! 重いから、次の目的地に先に送ってあります!」

 咄嗟に思いついた嘘を言うと、フーゴを含めその場にいた全員が呆れたような顔になった。
 みんな一様に「たった今思いついたみたいな嘘を言うな」と顔に書いてあるようだった。
 なまえは窮地に追い込まれたとき、咄嗟の嘘をつくのがとても苦手だった。
 このまま、かれらの納得のいく答えを出せないでいると、自分はどうなるのだろうと不安になる。 
 きっとかれらは、なまえの言ったひとつの嘘がきっかけで、これまで話したこと全てが嘘かもしれないと思うだろう。なまえに対して【追ってきたか】と聞いたかれらは、察するに何かに追われていて、逃げている身なのだ。そうなれば、あらゆる事がらを疑い、用心深く、怪しいものにはとても敏感になっているのだろう。今のなまえはまさに、かれらの【疑い】の渦中に入り込んでしまったようだった。
 ボブヘアの男が言っていた【始末】という恐ろしい言葉が頭に浮かんだ。
 しかし、結果的にかれらはなまえを問い詰めるのをやめた。
 この場にいる、なまえを除いた全部で七人の人間のうち唯一である女性が「どう見たってただのアジア人じゃあないの。やめておけば」と座り心地の良さそうなソファに腰かけ、こちらを一瞥もせずに言ったからだった。


 2
 突然、自分たちと同じように【亀の中の部屋】に入り込んできた、なまえ・みょうじという女を、グイード・ミスタは遠目に観察していた。
 彼女のことは、自分たちの目的地であるベネツィアに到着するまで、同行させることになった。列車の運転室に身を潜めている亀のことを乗員に悟られてしまうのを避けるためだった。
 彼女は部屋の隅で膝を立て、両腕で膝を抱き込むようにして座っていた。両手首と両足首をジョルノのゴールド・エクスペリエンスで生み出した植物のツタで拘束されているまま、ただただ黙って大人しくしていた。時折、ブチャラティから渡されていたグラスに入った水をストローで吸っていたが、動きとしてはそのくらいだった。
 ブチャラティに以前助けられたことがあると言った彼女は、今回トリッシュに救われていた。自分たちの詰問からだ。
 ところどころ怪しいというか、妙に不自然な女であるが、トリッシュの言うとおり、特別に害のあるようには見えなかった。ただのアジア人。旅行者。イタリア語をほとんど話せず、ブチャラティの言った【ガキみたいな発音だった】というのも、彼女を無害な旅行者たらしめる要因であるのかもしれない。なにより【見た目】も子供のようだった。とてもじゃないが、いちギャング集団である自分たちを追う人間だとは、ミスタは思えなかった。
 しかし彼女の言動の中に、不自然さがあるのは事実である。これはミスタ以外のみんなも思っていることだった。そして、彼女本人もそれを自覚しているようで、拘束されたままでいるのことを甘んじて受け入れていた。
 まったく、とミスタはため息をこぼした。

「あちいな」

 亀の部屋の出入口である天井を監視しているナランチャと、女とを交互に見ていたミスタは、じわじわと体を這うような蒸し暑さに襲われていた。
 広いとは言えない部屋にこれだけの人数がいるのだから仕方のないことなのかもしれないが、気を張っているぶん適度な休憩を入れないとバテてしまいそうだった。
 備え付けられている冷蔵庫から水のペットボトルを一本取り出して、ミスタはなまえの方へ歩み寄った。彼女のグラスが空っぽになっていたからだった。

「ほらよ」

 手首を拘束されたままで持っている空のグラスに水を注いでやれば、なまえはパッとミスタを見上げた。
 それから「グラッツェ」と呟いた。

「はは……ほんとーにガキみてえ」
「……Stop treating me like a kid. I'm actually 17, you know.」
「あ? なんだって? 早すぎて分かんねえよ——まあいいか。水、飲んどけよ。あちーから」
「グ……thanks.」
「ヒヒッ。いいねえ」

 ぶっきらぼうに礼を、それも英語で言い直したなまえに、ミスタは子供をからかっているような気持ちになった。
 子供のようではあるが、彼女がなにか文句を言っていたのは雰囲気で分かっていた。
 アジア人は自分たちよりも幼く見えるのだとどこかで聞いたことがある。たぶん、この場にいる全員が思っているよりも歳は上なのだろう。彼女はきっと、それについて文句を垂れたのだ。
 しかし、ガキの発音だと言われた瞬間、反抗するかのように英語を話すなまえに、そういうところだぜと言ってやりたくなったが、今は胸に留めておくことにした。からかいすぎるのも良くないだろうと思ったからだ。
 フーゴなら、さきほどの英語も容易に聞き取れ、もしかしたら彼女の年齢が分かったかもしれないが、彼と、ジョルノとアバッキオはソファで寝息を立てていた。
 ネアポリス駅を出発して約二十分。そろそろ天井を見張っているナランチャと交代してもいい頃合いだった。
 また冷蔵庫を開けながら、ミスタはナランチャへ声をかけた。だが、ナランチャは【いつもの彼】ではなくなっていた。


 3
 なまえは混乱していた。
 正しく言えば、この【妙な部屋】に引っ張り入れられた時からずっと混乱しているのだが、そんなことよりもたった今、本当に理解を超えた現象が目の前で起こっていて、開いた口が塞がらないほど混乱していた。

「な、なに、どうなって……」

 さきほどまでは各々が自分の時間を過ごしていた筈だった。
 ボブヘアの男と、なまえを図らずも救ってくれた女の子はソファへ座って雑誌を読んだりしていたし、金色の髪の毛の男と、英語を解ってくれる穴だらけの服の男——フーゴと、長髪で長躯の男は体を休めるためなのか眠っていたようだった。
 矢印の帽子の男は揶揄いながらもなまえに水を持ってきてくれた。そしてヘアバンドの男は、この部屋の出入口である天井をずっと見張っていた筈だったのだが、その彼が突然、ありのままを言えば【年を取っている】のだ。
 これには眠っていない全員が驚いていて、そして【スタンド攻撃】だと口にしていた。
 一瞬、帽子の男が「お前の仕業か!?」となまえを睨みつけたが、ボブヘアの男がそれを制した。彼が「攻撃するなら始めからやっているだろうし、敵じゃあないと言っていたことが嘘だとはおれは思えない」という見解を述べると、みんななまえに見向きもしなくなった。構っている余裕がないほど、今の状況が予測の範囲外だったのだろう。
 いつの間にかなまえを拘束していた植物がしなだれて、簡単に抜け出せることに気がついた。
 ボブヘアの男が、「敵は列車の中にいて、列車まるごとを無差別に攻撃しているんだ」と言ったのが聞こえて、なまえは身震いしながら自由になった腕を自らの懐へ突っ込んだ。もしも自分になにかあったとき、すぐに対応できるよう、服の内側にしまってある【それ】をひっそりと掴んだ。

「暗殺の方が確実だ。おれの、セックス・ピストルズでの暗殺のほうがな」
「確かに……その通りか。しかし時間はないぞ。ものすごいスピードで年を取っていく」

 彼らが話していることを静かに聞いて、なまえは混乱する頭を落ち着かせながらさまざまなことを考えた。
 とくに【スタンド】というものについてのことだった。先ほどから、時々彼らの口から出てきていた言葉だった。【能力】だとか【スタンド使い】という言葉も同様に言っているのを聞いて、なまえはおおよその予想をたてた。
 おそらく【スタンド】というものを【使う】人間が存在していて、そしてこの【亀の部屋】にいる全員か、ほとんどがその【スタンド使い】なのだろうと思う。
 そして【スタンド】には【能力】ある。それは全部が同じ能力ではない。人を老いさせるという能力に全員がかなり驚いていたし、きっと使う人間それぞれが違う能力を持っているのだろう。たぶん、なまえを拘束していた植物のツタも、この場にいる誰かの【スタンド能力】だったのだ。
 それと、彼らの会話から、彼ら自身のことも少しだけ分かった。
 仮にここにいる人間全員でひとつのチームだとすると、ボブヘアの男がリーダーのように思えた。みんなが彼に対して、どことなく指示を仰いでいるような雰囲気があったからだ。
 そしてチームで【なにか】から逃げている。その理由は分からないが、追手の方も【スタンド使い】であり、人間を無差別に殺すのを厭わない、個人か集団か。とにかく危険なものであることは理解した。
 しかし、例えばボブヘアの男率いるチームの方が何かしらの悪事を働いていて、正義の側の人間に追われているという可能性も充分にあり得るのだが、その考えになまえは首を振った。もしその可能性があるならなまえは既に始末されているかもしれないし、人を老いさせる能力の持ち主は【列車まるごとを無差別に攻撃している】と聞いた。列車には普通の乗員乗客がいる筈で、そこをまるごと攻撃する人間が正義である筈がなかった。
 気がつけば、ソファで眠っていた金色の髪の男が目を覚ましていた。
 彼も年を取っている様子で、動きがとても遅い。身ぶり手ぶりが鈍重で、背中が少し丸まっていた。
 しかし意識はハッキリとしていた。脳みそは若いままなのだろうかと思うほど、彼は的確に現状を把握、考察を口にしていた。
 それぞれ老いるスピードが違うのは、人の【体温の変化】を区別しているのではないかと彼は言った。温かいほうが早く、冷たいほうが遅いというその微々たる体温の違いが、個人差の正体ではないのかと。
 確かになまえは冷えた水を飲んでいたおかげか、手を見てみてもたいして変わっている様子はなかった。それは冷たい飲み物をなまえと同様に飲んでいたボブヘアの男と、女の子にも大きな変化は見られない。そして、この中で一番老いるスピードが早かったヘアバンドの男の顔に氷の塊をぴたりと当ててみれば、その箇所からみるみる若々しい姿に戻っていった。
 冷たい温度の方が、老いるスピードが遅いという考えは当たっていたようだった。
 
「体を冷やすんだッ! みんなの体を氷で冷やすんだ!」

 帽子の男が慌てて冷蔵庫から氷を取り出したが、残りは少ないようだった。
 そうして、【人を老いさせる敵】を始末するべく、たったのふたカケラだった氷を持って帽子の男は天井から出て行った。
 彼が敵を倒してくれるのを、この場にいる全員が願うことしかできないでいた。
 
「……あなたも、老いるのが遅いですね。ですが、少し体温が上がるだけでも老いの速度は上がるんです。上着を脱いでおいたほうがいい」
「っ……」

 ふと、金色の髪の男がなまえの側へ寄った。
 なまえは薄手ではあるもののカーディガンを羽織っており、彼の言うとおり、今の状況では脱いだ方がいいことは明白だった。
 しかし、なまえはそれを脱ぐわけにはいかなかった。カーディガンの下には、見られたくないものがしまってあったからだ。
 今なまえの体はそれほどまでに暑さを感じていなかった。まだ大丈夫だと提案を拒否すると、彼は思うように動かなくなっている体をのそのそと動かして、なまえから背を向けた。ソファへ戻る気力はないのか、なまえの前にあるローテーブルに体を預けてから目を閉じていた。

 どのくらい経ったのか。たぶんそんなに時間は経っていないのだろうが、なまえは自分の体がだんだんと言うことをきかなくなってきていることを感じていた。
 帽子の男はどうなったのか。分からないが、この場にいるなまえと、女の子以外はもうほとんど喋りもせず、動かなくなっていた。
 老いのせいもあってか、猛スピードで体力を削られているのだろう。テーブルやソファにもたれかかりぐったりとしている彼らを目の当たりにして、なまえは途端に不安になった。
 老いの終点は、死である。
 このままでは、ヘアバンドの彼が一番に死に、次々に息絶えてしまうことを想像してしまうと、なまえは息がしずらくなった。
 女の子が自らのグラスに入っていた小さな氷を、ヘアバンドの男に当てていた。
 
「……トリッシュ、ナランチャのことは……かまわなくていい。きみだけが体を冷やすんだ……その小さなカケラはきみだけの物だ。それから……なまえ、だったな。巻き込んで、すまない。きみもできるだけ、その……そこのグラスの氷を使って体を冷やせ。いいな」

 床に這いつくばり、ボブヘアの男は言った。
 これまでの彼らの会話から、女の子——トリッシュというのだろう——は、彼らに護られている存在であることは分かっていた。
 そしてこの状況でもなお、ボブヘアの男は彼女を優先的に護ろうとしている。自分の体が確実に死へ向かっているというのにだ。更にはなまえのことも案じている様子も見せた。
 なまえはとうとう、耐えられなくなった。

「……わたし、できる。やらなければ」
「……なん、だって……?」
「氷、たくさん、わたし、できる」

 スッと立ちあがり、なまえはカーディガンを脱ぎ捨てた。
 ショルダー型のホルスターにしまってある【杖】を取り、深く息を吐く。そうして、【杖】を地面へ向けた。

「アグアメンティ——水よ」

 唱えると、杖の先からどこまでも透き通っているような美しい水が、さらさらと流れていった。
 広くもない部屋の床一面に水が薄く行き渡ったのを確認してから、ボブヘアの男やトリッシュの驚く声を無視してもう一度、なまえは口を開いた。

「グレイシアス——凍れ」

 杖先から出ていく冷気によって、水びたしだった床はスケートリンクのように薄い氷の床になった。
 なまえはしゃがみこみ、氷の床に手のひらを押し当てると、みるみる生気が戻ってきたような感覚があった。床に反射した自分の顔は、いつも鏡で見るものと同じになっていた。
 なまえはイタリアに来て初めて、【マグル】に正体を明かしたのだ。


 4
 天井の向こう側が騒がしくなり、姿を現したミスタのスタンド——セックス・ピストルズのNo.6と一緒に、比較的体力が戻るのが早かったブチャラティが【亀の部屋】から出て行った。
 なまえ・みょうじのおかげで部屋の中が急激に冷え込み、老いが止まった。
 ナランチャは若々しい姿に戻りつつあったし、ジョルノたちも徐々にではあったが生気を取り戻していたが、ブチャラティの後を追って戦いに行くには些か年を取りすぎていて、快復には時間がかかっていた。
 当のなまえは立ったまま壁によりかかりぼんやりとしていた。
 ジョルノは、なまえのほうをチラリと伺った。
 彼女は一体何をしたのか。まるで絨毯のように敷き詰められた氷の床を見て思った。
 自分たちはひとまずは助かったから良かったものの、やはりただのアジア人旅行者ではなかったことに警戒心が強くなった。
 彼女は、なんなのだろうか。
 なまえを拘束した時、【ゴールド・エクスペリエンス】を発現させたが彼女には見えていないようだった。【スタンド】は【スタンド使い】にしか見えることはない。見えないということは【スタンド使い】ではないということになるのだが、彼女がやってのけたことは、その辺の一般人にできることではなかった。それなら、やはり彼女はスタンド使いなのだろうか。
 分からないが、どちらにしても【敵】だと判断するには少し早計であったし、逆に仲間になり得るかと言われれば、それには判断材料がもう少し必要だった。
 ただ、【老いさせるスタンド】を倒し、無事に目的地であるヴェネツィアまで行ったとしても、そこで彼女を素直に帰すべきではない。何かしらの【力】があると分かった以上、自分たちと偶然に出会ったように、いつ【敵側】と出会うも分からない。これはもしもの話だが、未知数である彼女がジョルノたちと敵対するのは避けるべきであることは明白だった。
 それに、いずれボスを倒すということを内に秘めているジョルノは、【誰にも分からない謎の能力】を持っているなまえを仲間に引き入れれば、こちらの利になるのは間違いないと思った。
 それにはまず、情報が必要だった。

「なまえさん、でしたね。あなたのおかげでぼくたちは助かりました。ありがとうございます」
「……えあ、あ、ぷ、プレーゴ」
 
 ジョルノはなまえの隣に立ち、彼女と同じように壁に背を預けた。
 核心に迫る前に、少しでも打ち解けるために話しかけてみるものの、返ってきたのは子供のような発音のイタリア語だった。
 それを聞いて、ジョルノは疑問に思った。
 なまえの、イタリア語を聞き取る能力は完璧なのだろうと思う。分かっていないならそう言うだろうし、返事が返ってくること自体もないかもしれないが、なまえはジョルノの言っていることをきちんと理解し、そして正確に返してくる。
 しかし話すのはてんでダメなようで、発音はもちろん、返事を寄越す際、簡単な単語でしか返ってこなかった。
 確かに、話すよりも聞くほうが、理解度は高くなる場合もあるだろうが、ここまで差が出るものだろうか。
 ジョルノはそれが不思議でならなかったが、
思えばパッショーネに入団する前に出会った日本人——コーイチ・ヒロセ——も、まるで地元の人間のようにイタリア語を話していた。
 結局、なぜあんなに言葉が堪能だったのかは分からないままであるが、彼はスタンド使いであったし何かしらの力は使っていたのだろうし、なまえもまた、コーイチのもとは例え違うものだとしても、何かしらの力が働いているのかもしれないとジョルノは思った。
 それとは別で、そういえばなまえはジョルノたちに「英語か日本語が分かるか」と最初に問うていた。
 ジョルノは英語もそこそこ理解できるものの、日本語の方が馴染みのあるものだった。母が日本人であるし、幼い頃は日本に住んでいたからだった。
 なまえもそれに近しいものなのだろうか。彼女がどこから来たのかは、聞いていなかった。

「日本語は分かるんですか、あなた」
「えっ」
「分かるんですね。ぼくも話せるんです。とはいっても、今はイタリア語の方が話しやすいんですが、英語よりはこちらの方が分かります」
「……そうなんですか。お上手ですね、日本語」
「母が日本人なもので、以前は日本に住んでいましたから……あなたは? 名前が日本のもののように思うんですが、母国は日本?」

 ジョルノが言った異国の言語に、ナランチャの様子を見守るトリッシュが反応した。ぱちぱちと瞬きをしながらジョルノを見たが、すぐにまた逸らした。

「わたしも、母が日本人です。家では日本語を使うほうが多かったけど、生まれも育ちもイギリス……です。父がイギリス人だったから。日本には一度も行ったことないです」
「父親がイギリス人……すごい偶然ですね。ぼくの父もそうらしいんです。会ったことはないんですが」
「……あ、だから」
「ん?」
「い、いえ、なんでもないです——それより、その、ボブヘアの男の人、大丈夫なんでしょうか。あと帽子の人……ほら、矢印の」

 なまえが天井を見上げて言った。その例えにジョルノは一瞬ぽかんとしてしまったが、すぐに彼女のいう人物を理解して、それぞれの名前を教えた。
 ブチャラティさん。ミスタさん。そう反復して、なまえは改めて「二人は、敵を倒したんでしょうか」と言った。
 確かに、ジョルノも気になっていない訳ではなかった。
 なまえには見えていなかったのだろうが、ミスタのスタンドであるピストルズのうちのNo.6がこの部屋にやってきたとき、彼は「ミスタが危ない」と言っていた。
 スタンドが消えていないぶん死んではいないだろうが、No.6もブチャラティと共に行ってしまった今では安否確認のしようもなかった。そしてそれは、【敵側】も同じだった。【老い】という能力の解除がなされていないため、やはりどちら側も生きていて、そして列車の中ではまだ戦闘が行われている筈だった。
 ジョルノは仲間二人を信じて待つ他なかった。
 ジョルノとトリッシュ、なまえの三人以外は老いていくことこそ止まってはいるが、若く戻るのにかなり時間がかかっている。
 ジョルノ自身もほとんど元の若い姿に戻ってはいるが、体力が快復していなかったし、敵スタンドにやられているアバッキオやフーゴ、そしてナランチャを置いて外へ加勢に行くべきではなかった。
 トリッシュは護衛対象で、戦闘要員ではないし、なまえに関しては敵味方の判別がつかない。何かあったときは、ジョルノ自身がこの【亀の部屋】を護らなければならなかった。

「大丈夫ですよ。彼らなら」

 ジョルノは隣に立つなまえの顔を覗き込んで言った。
 それはなまえへの返答の意味もありつつ、自分自身へ言い聞かせるためのものでもあった。
 なまえは「そうですか」とひと言だけを呟いて、ナランチャを介抱しながら下がりきった部屋の温度に腕をさするトリッシュへ、自身のカーディガンをそっとかけていた。


 5
 もしも、現実に神さまがいたとしたら。
 地に足をつけて、こちらを見つめたりするのだとしたら。
 触れたり、触れられたりできるのだとしたら。
 その瞳はどんな色で、その手はどんなものなんだろう。

「先生は、神さまみたいですね。わたしを在るべきところへ連れて来てくださった」

 なまえが言うと、【先生】はとても穏やかな顔で笑った。

「むかし、きみと同じような境遇だった子がいた。【彼】は残念なことに、自ら闇の道を行ってしまったが、それが何故か、分かるかね?」
 
 言いながら、なまえの肩に手を置いた。
 なまえにとっては大きな手が、ぽんぽんと優しく跳ねた。
 自分と同じ境遇とは、どういうことなのだろう。どうして、【彼】が闇へ行ってしまった理由を自分に聞くのだろう。なまえは【先生】の言っていることが理解できなかった。
 よく分からないと素直に答えれば、【先生】は朗らかに笑った。
 それから、どこか安心したような顔になった。

「いいんじゃよ。分からずとも。分からない方が良い場合も、世の中には溢れておる」
「……?」
「きみがいずれ、自ら【彼】とは違うことに気付き、そして【これで良かったのだ】と心から思えたなら、それでいいんじゃ。きみは他人にとてもよく共感できる優しい子じゃ。そのまま、今のまま、他人を思いやる気持ちを忘れんように」
 
 よく言葉遊びを好む【先生】の言葉は、簡単なようで難しいものだった。
 しかし、なまえにとっての【神さま】が、今の自分のままを望むなら、そうしていようと思ったし、そうしたいと思った。
 【先生】は、なまえの瞳を覗き込んだ。
 なまえが何も言わなくても、【先生】は理解したかのように何度か頷いて笑っていた。
 なまえにとっての【神さま】だった【ダンブルドア先生】の瞳は、まるで全部を見通しているようで、どこまでも透き通ったような綺麗な青色だった。


 6
 突然だった。
 ブチャラティとミスタの帰りを【亀の部屋】で待っていたとき、唐突になまえの横にいた金色の髪の男が床に膝をついた。
 咄嗟になまえも彼の傍に膝をつき、顔を覗きこめば、落ち着いていたはずの【老化】がまた進んでいるみたいだった。

「な、なんで」

 床の氷はすでに溶けていて、倒れ込んでしまった彼の髪が水に濡れた。
 パッと視線を上げてみると、ソファで眠っているフーゴと、もう一人の長髪の男も、戻りつつあった【老化】がまた進んでいた。
 冷却が足りないのだろうか。分からないが、トリッシュという女の子の方を見れば、ヘアバンドの——おそらく、ナランチャという名前の——男を腕に抱きながら困惑した表情でなまえを見ていた。
 何が起こったのかと少しだけゆっくりとした発音の英語で問うと、彼女は首を横に振った。
 その時、天井から侵入してきた【知らない男】が、トリッシュを連れ攫った。
 ナランチャが地面に投げ出され、水浸しの床に倒れる音が部屋に響いた。
 もしかしたら、今のが【敵】なのだろうか。そうなれば、ブチャラティとミスタはどうなっているのか。
 唯一【日本語】という言語で会話ができる金色の髪の男に頼りたかった。
 しかし彼は既に気を失っていた。急激に年を取り、体力を失ってしまったんだろう。
 とにかく、濡れた床に倒れている彼をここままにはできない。なまえは再び【杖】を取った。

「ウィンガーディアム・レヴィオーサ——浮遊せよ」
 
 唱えると、男の体はふわりと持ち上がった。
 後ろで結ってある美しい髪の毛が、吸い込んだ水を滴らせた。
 ソファまで運び、ゆっくりと降ろした。
 シワだらけになった彼の顔を見ながら、なまえが【杖】をホルダーにしまっていると、上から声が降ってきた。知らない声だった。

「な、なんだお前!? 知らねえ顔だ! お前も新入りか!? い、いいや! そんなことはどうでもいいんだ……! ヒヒヒ、やったぜぇぇ……!」
「は……!?」

 首があらぬ方向に曲がっている、血塗れの男が上から降ってきたと思えば、ソファで眠っている三人の男たちに【何か】をしているような仕草をした。手のひらを握りしめて、まるで【何かを引っ張っている】ような。
 血塗れの人間なんてほとんど見たことがなかったなまえは、その男の形相に体が動かなかった。
 男がチラリとなまえの方を見て、次には「お前もだ!」と口にした。その瞬間、なまえは【透明の何か】に首を締め付けられる感覚が襲った。
 思わず首元に手をやるがそこには何もなく、それでも締め付けられる感覚は確かにあって、なまえはパニックになりそうだった。
 しかし、頭の混乱とは対照的に、体はほとんど無意識に【杖】を取り、男の方へそれを向けていた。

「レラシオ——放せ!」

 男の顔が一瞬、訳の分からないものを見たような表情になったのが見えた。
 なまえが唱えたことにより、男は【見えない何か】を手放してしまったように自分の手のひらとなまえを交互に見た。

「ヴェンタス——吹き飛べ!」
 
 ほとんど間を置かずになまえがもう一度唱えると、杖の先かららせん状の突風が吹き出た。
 それは男に直撃して、そのまま天井へ、そして部屋の外まで吹き飛んでいった。

 男が【亀の部屋】からいなくなると、なまえはそのあとを追いかけた。
 【杖】を振るうのを見られたからだ。
 あの男はきっと、ブチャラティたちが【敵】だと言っていた人間だろう。そのブチャラティや他数人にも見られたことも問題ではあったが、敵が逃げてしまったら、仲間になまえのことを漏らしてしまうかもしれないことのほうが問題だった。
 その前に、対処しなくてはならなかった。
 しかし、結果的にその必要はなかった。
 外に出てなまえが見たのは、敵の体がバラバラになって、四方に散っている光景だったからだ。
 亀の外はいつの間にか列車の車内ではなくなっていて、太陽が傾いてオレンジの光が地面を照らしている、外だった。傍らには停車している列車があった。
 敵のものだろう四散しているひとつの【かけら】に近寄って見てみると、それは片方の【足】だった。
 ブーツと一緒に【足そのもの】が切り落とされている。なまえは思わず後退り、口元をおさえた。

「なまえ。もしかして、きみがその男を【亀】の中から吹き飛ばしたのか」

 ブチャラティが近付いてきて、なまえに言った。
 彼が生きていることに少しだけホッとして、それから【若返っている】彼の様子に、敵に勝ったのだと漠然と思った。
 彼の質問に、何度か首を上下に振って答えた。

「そうか。助かったよ——きみはトドメを刺そうとして出てきたのか?」
「……No, not like that.」
「ん? ああ、違うって言いたいのか。まあどちらにせよ、そいつはもう死んだぜ。バラバラになってな。興味本意で見に来るもんじゃあない。ひとまず亀の中に戻るんだ。いいな」
「……OK.」

 有無を言わせないブチャラティの雰囲気と、背中をそっと押されたことでなまえはすぐそばにいた亀に近づいた。
 死んでいるのなら【対処】する必要もないのだが、敵のことは、ブチャラティが殺したんだろうか。
 なまえは【人を殺す】というのがとても重罪であることを昔から教えられてきた。
 ブチャラティたちも、敵も、容赦なく人を殺してしまえる人たちだというのは、どこかで理解していたつもりだったが、死体を目の当たりにした途端、感情が理解を覆ってしまい、ブチャラティたちのことが恐ろしくなった。
 逃げ出すなら、亀の外にいる今が絶好機だと思った。
 しかし、なまえは思いとどまった。
 ブチャラティたちにも、【杖】を振るうのを見られているからだった。ブチャラティにも、トリッシュにも、亀の中にいる金色の髪の男にも。その記憶は【消さなければ】いけなかった。
 なまえは【魔法使い】であり、ブチャラティたちのような【魔法族でない人間——マグル】には、存在を秘匿しなければならない決まりがあったからだ。
 どうにかして彼らの記憶を消さなければ。その為には、まだ彼らと離れる訳にはいかなかった。
 とは言っても、なまえは【記憶を操作する魔法】に関して、応用的な使い方ができなかった。
 一人ずつに杖を向け、呪文を詠唱して魔法をかけないといけないのだが、彼らに対しそんなことが果たして可能なのだろうかとも思うが、やならければなならないことは確かだった。
 【亀の中】に戻ると、みんなの【老化】が治っていた。
 金色の髪の男が近寄ってきて、彼が気絶した時のことと、なまえが外に出ていた間のことを聞かれた。
 なまえは治っていた老化がなぜ再度進んだのかは分からなかったが、そのあと【亀の部屋】に敵が侵入してトリッシュが連れ去られたこと。また敵が来たのを咄嗟に追い出し、そしてブチャラティが倒したんだろうことは伝えておいた。
 その後、ブチャラティとトリッシュが戻ってきて、彼らからの会話から敵は二人いたことを知った。
 なまえが見たバラバラにされた死体は【老化】の敵ではなく、釣り竿のようなもので攻撃する人間だった。
 それから【老化】の敵の方が死に際に力を振り絞り、消えかけていた能力が再燃したことも聞いた。治りかけていた【老化】が、また進んでしまったのはその為だろう。
 列車が完全に停止してしまった今、ブチャラティたちは移動が困難になったようだった。

「どうやら仲間にも連絡していたらしい。おれたちの居場所は伝わっているだろうから、すぐにでも列車からは離れよう。なまえ、ひとまずきみも来るんだ。きみには聞きたいことがある」

 ブチャラティがふとなまえの方を向いて言った。
 なまえの【魔法】を、眠っていたため見ていないフーゴやナランチャ、まだ名前の分からない長髪の男は、ブチャラティの言ったことに疑問の表情をしていた。
 しかし、今は説明している時間はないのだとブチャラティは言いながら、走行車を探すよう金色の髪の男に頼んでいた。
 そういえば、金髪の彼の名前もまだ分からなかった。たぶん誰かに呼ばれてはいただろうが、なまえは覚えていなかった。