イチ
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とにかく眠い日が続いていた。
時間はあるし、眠ろうと思えばなんとか眠れるが、わたしは眠りにつくのがとてもおそろしかった。
三年前のことだった。
わたしが十九歳のある時から【それ】は始まって、眠れない日が続いていた。
あまりにも眠れないので、睡眠薬を処方してもらい無理矢理に眠りにつくようになった。
しかし最初だけだった。
少し眠れるようになったものの、身体が薬に慣れていくのは止められなかった。薬の効き目が薄くなって、それに比例して薬の量は瞬く間に増えていった。
そしてどんどん眠れなくなっていった。――否、眠気はあるし眠りにつくことはできていた。眠っても、ただただ直ぐに目が覚めてしまうだけだった。
わたしは、【おそろしい悪夢】に悩まされていた。
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なまえは疲れていた。
さまざまな考えがあり、なまえは人生の中で一度は行ってみたかった国々を見て回っていた。
そうして、美しい景観や自国とは違う言葉、その地の人たちに触れて、少し疲れてきたと思ったとき、イタリアへ来た。
北から南下して、イタリア南部最大の都市であるネアポリスという街までなまえは来ていた。
ここは【ネアポリスを見て死ね】と言われるほどに美しい街並みで、間近に見える海もとても綺麗だった。
「ここにさせてもらお」
これまでの旅は、なまえにとっての"終活"だった。その幕を降ろすのは、生まれ育った日本から遠く離れ、海の色も、街の色もなにもかもが違うイタリアという異国でと、なまえはこの時に決めた。
なまえはこれからのことを考えた。
これからのことというのは、どこで、どうやって死ぬかということだった。
今まで働いて貯めたお金は、この旅でもうほとんど底をついていた。かろうじてあと数日ホテルに泊まり過ごすお金はあるが、他の国へ行くのも、日本へ帰るための旅費に充てるには足りそうもないほどだった。
しかしそれで良かった。なまえはすでに、この地へ身を沈めることを決めていたからだった。
あとは、どこで、どうやって最後の時間を過ごし、終わりとするか。
「……どうしよっかな」
現在の時刻は朝。視線の先には凪いだ海が朝の太陽に照らされて光っていた。
なまえがいる場所は橋の上だった。
少しだけ踏み込み、橋の下を覗けば高さは【充分】のように思えた。
しかし周りには活動を始めているこの街の人達が多くいた。人目につくところでは気が進まなかった。万が一助けられても困るし、異国の人間が突然自分の住んでいる街で死体となって見つかるのは気分も良くないだろうと思ったからだ。
できれば人目のつかない、もはや土に還るまで誰にも見つからないような場所で、なまえは死んでしまいたかったのだ。
ここではダメだと、なまえは橋の欄干から背を向けてもたれかかった。
場所はもう少し探すことにした。あとは方法だが、刃物やなんかで自身を刺してしまうのは痛みへの恐怖が勝ってしまいそうで却下した。
首を吊るのも、死にきれない場合もあると聞いたことがあった。そもそもなにか道具を使うやり方は範疇に入れていなかった。
人を巻き込まず、一度でやり遂げられる方法となれば、やはり充分な高さのある場所から落ちてしまうのが一番良いような気がした。というか、それしか無いと思った。
ひとまずは、人気の無さそうな、それでいて高い山や崖でもあるような場所を調べてみることにした。
欄干にもたれていると、うつらうつらと船を漕ぎそうになった。
「ボンジョルノ、シニョリーナ。探してるもの、ある?」
『……はい?』
落ちそうな瞼を必死に開けている時だった。
地面が映っていたなまえの視界の中に、鈍く光る革靴が映り込んだ。同時に頭上から声がして重たい視線をあげれば、言葉は悪いが"いかにも"みたいな男性が薄ら寒い笑みを浮かべてなまえを見ていた。
その人は顔を上げたなまえを見た瞬間、ほんの少しだけどこか気まずそうな表情をしたあと、すぐにまたうさんくさい笑顔に戻り、そして弾丸のように喋りだした。
おそらくイタリア語なんだろうが、生憎なまえには分からなかった。というか、この男性はなまえが言葉を理解していないことを分かっていながら話しているように思えた。
何がしたいんだろう。思いながら、身振り手振りで何かを伝えてくる男性を見ていると、かれはポケットから小さい【なにか】を取り出した。
周りからあまり見えないようにする為なのか、さりげなく手のひらで覆い隠しながら、それをなまえの目の前に差し出した。
「これなんだけどさ、お姉さん、旅行者みたいだから安くしとくよ。ほら、これっぽっち! ここに来た記念にさ! 結構上物だよ」
『……これって』
男性の手の中で揺れる、ビニールの小袋に入ったその白いものは、片栗粉のような、そんな見た目をしていた。
しかし、こんな道端で片栗粉を見せびらかす人間がいる筈もない。
なまえは【それ】を実際に見るのは初めてではあるものの、小袋の正体が片栗粉なんて生易しいものではないことを、瞬時に理解した。
そして目の前の男性は、おそらく【それ】をなまえに売りつけようとしているようだった。
男性はソレを持つ手とは反対の手の指をいくつか立てていて――察するに金額を提示しているんだろう――なまえの反応を伺っている様子だった。
ニコニコと、嘘みたいな笑顔を貼り付けている。
本来なら、今すぐにでもこの場から立ち去るべきだと思った。
言葉がほとんど分からない旅行者であるなまえにソレ——【麻薬】を売り付けようとしている男性は、きっと表の世界の人ではないのだろう。裏だとか表だとな、そんな事を考える余地も無かったなまえの人生だったとしても、麻薬というものは危険なものであるし、それを売り買いしている人間とも関わらないほうが身のためなのだということくらいは分かっていた。
おそろしい、と思うべきなのだ。
しかし、なまえは目の前の男が差し出しているものから目が離せなかった。自分が常飲している睡眠薬より、もしかしたらぐっすり眠れるんじゃないかいうその考えが頭のほとんどを埋め尽くしてしまったからだった。
麻薬がどういう効果を身体に及ぼすのかは、小説や漫画だとか、テレビドラマだとか、そんなフィクションの世界の中では見たことがあった。
気分を昂らせるだとか、落ち着くだとか。そんな効果くらいしか知らなかったが、気分が良くなるのなら悪夢なんて見ることもなく、真に熟睡することだってできるのではないかとなまえは思ったのだ。
それが睡眠という概念から逸脱しているものだとしても、昼夜問わず付き纏っているどうしようもない眠気と、それを引き起こしている悪夢を見ずに眠れるのなら、なまえはそれでよかった。
もちろんこんな代物を一度でも使えばこの先どうなるのかは分からない。大枚をはたいて求めるようになってしまうかもしれないし、中毒になってしまえば身体はボロボロになってしまうだろう。それに結局、使ったところで眠れるのかなんてことの真相は分からないが、なまえはすでに、自分のこれからのことなんてどうでもよくなっていた。
どうせ死ぬのだ。それなら最後に一度だけ、もういちどなんのしがらみもなく眠れるかもしれないのなら、なんでもよかった。
『これで……足りますか』
「ベネ! 随分と羽振りがいいんだな、シニョリーナ」
なまえが差し出したお金を男性は掻っ攫い、何かを言いながら麻薬だろうソレを寄越した。
反応から見て、なまえが差し出したお金は少々多かったかもしれないが、相場などは知らなかった。無言で小さいビニールの袋をひとつ受け取った。
なまえは手のひらにやって来た袋を握りしめ、用は済んだと言わんばかりに素早く立ち去る男性の背中を見えなくなるまでぼんやりと眺めた。