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 なまえの継父が蒸発したのは、継父の故郷であるイタリア、ネアポリスに家族で移住してから、たった一年のことだった。
 移住を考えだしたきっかけは、ある日継父が『おれの故郷は空気もとても美味しい』と言ったことだった。なまえの母は、呼吸器系の病気を患っていた。
 空気が変われば、もしかしたら病気も良い方向に変わるのではないかと考えた結果、移住することになったのだ。
 なまえはこの時十七歳で高校生真っ只中だった。
 それなりに友人もいたし、学校も好きだった。
 友人たちと離れることや生まれ育った日本という国を離れることなど、たくさんの不安があった。
 日本とイタリアは簡単に往き来できる距離ではない。しかしいつかまた、日本へは帰れる時が来るだろうとなまえは漠然と思っていた。
 だから一緒にイタリアへ行くことにした。今は母の体を最優先に考えたいと思っていたし、なにより母が好きだったからだ。

「——五分くらいですか? はい。はい。じゃあ、待ってる」

 電話が鳴って、出てみればなまえがこれから会う人間だった。
 なまえは予定していた待ち合わせの時間よりも少し遅れると言った相手をその場で待つことにして、電話をポケットにしまった。
 建物の壁に身を預けてぼんやりと立っていると、ふと近くの路地から叫び声が聞こえた。
 このネアポリスという街は、なまえの母国である日本よりも随分と治安が悪い。路上で喧嘩をしている人なんてしょっちゅう見るし、ドラッグをして意識が混濁しているんだろう人が道端で座り込んでいるのもザラだった。
 なまえは叫び声が聞こえるとほとんど同時に、自身の鞄を強く抱き込んだ。意味があるのかは分からないが、身を守るためだった。
 壁に背中をくっつけながら周囲を警戒していると、ふと路地から二人組の男が出てきた。
 ひとりは特徴的な帽子をかぶっていて、ものすごく丈の短い服を着ていた。もうひとりは胸のところが大きく開いた服の、綺麗な金色の髪の男だった。
 なまえは一瞬だけその二人組を認めたあと、視線を逸らし、空気になることに努めた。
 路地から出てきた男たちは、きっと関わってはいけない人たちなのだ。そう思ったのは、叫び声がした路地から二人が出てきたこともあるが、彼らがしていた会話も判断の材料だった。

「あいつ、ひとまずは連れ帰るでいいんだな?」
「ええ。この場では口を割りそうにありませんでしたから。人目もありますし、あとは連れ帰ってから問い詰めましょう」
「はいよ——おーい、喋る気力は残しとけよ。大事な情報源だ」

 帽子の男が路地の方へ向かって不穏なことを言ったとき、なまえは息が詰まりそうになった。
 他にも仲間がいるんだろうか。叫び声をあげた人はどうなっているんだろう。彼らは何者なんだろう。なまえの頭にはさまざな疑問が湧いたが、たったひとつ、彼らと関わってはいけないことだけは確かに理解した。
 しかし、なまえがチラリと向けてしまった視線と、金色の髪をした彼との視線がぴたりと合ってしまった。
 慌てて視線を地面へ逸らすものの、立ち去ることはできなかった。
 コツコツと靴音が静かに鳴ったと思ったら、次には頭上から声がしたからだった。

「ボナセーラ、シニョリーナ。あなた、観光客ですか? ひとり?」
「へっ……あ、……いいえ。観光客じゃない。連れが……もうすぐ来ますっ」
「そうですか。しかしこんな夜に女性ひとりでいるのは感心しませんね。早く帰るといい」
「……連れが来たら、行きますから。もうすぐ来ると思う」

 男の顔は見られなかったが、視界に入る彼の黒一色でまとめられたスラックスズボンや革靴が、暗い夜の中で星のように光っていた。
 何を生業としている人なのかは分からないが、綺麗に整えられている服飾品を見ると、なまえは少しだけ卑屈に思った。彼は良い暮らしをしている人なのだと感じたからだった。
 視線を少しだけ滑らせて見た自分の服は、お世辞にも【良いもの】とは言えないものだった。破れてしまって、自分で繕った箇所をそっと手のひらで覆った。
 早くどこかへ行ってくれないかなと思ったとき、『ナマエちゃん!』と男の声がした。
 なまえが待ち合わせしていた男だった。

「おいおい、ナマエちゃんはおれの女なんだぜ。気安く話かけるんじゃあねえ」
 
 男はなまえの側にいる金色の髪の男の姿を認めると、眉根を寄せて近づき、絡むように言った。
 なまえは男が言った【おれの女】という言葉にこっそりと眉をしかめた。

「……そうでしたか。ぼくはただ、夜に出歩くのは危ないですよと言っていただけです。彼女がひとりだったものですから」
「おれが来ただろ。ちょっぴり待たしちまっただけじゃあねえか」
「ええ。あなたが来たならもう心配ありませんね。ぼくはもう行きます。それじゃあ」

 コツコツと革靴の音がまた響いた。
 音の方向を見ると、ポケットに手を入れて歩いていく背中があった。後ろで編み込まれた金色の髪の毛が街灯に照らされていて、光を散らばせていた。
 なまえは待ち合わせた男の腕に自分の腕を絡めて『行きましょう』と歩きだした。
 この男の家に行くのは二度目だった。
靴を履いたまま上がるのは慣れないなと思いながら家に上がり、シャワーを借り、【約束していた分】を貰ってから二人でベッドに体を沈めた。
 相手がのしかかってくる重みを感じながら、なまえは自分の家で眠っているだろう母のことを考えた。


 2
 継父が蒸発して、思い返してみれば半年が経っていた。
 まるでジェットコースターにでも乗っている気分のように、時間は足早に過ぎていく。いつまでこんな生活が続くのか、なまえは考えないようにしていたが、それでも時折、ふと頭に浮かんだ。何が自分をこうさせたのか、何がいけなかったのか。日本を離れたころ同級生だった友人たちは、今ごろどんな日常を送っているのだろう。とうに十八歳になっている今、イタリアに来ることがなければ、なまえは高校を卒業しているはずだった。
 もし日本にいるままだとしたら、自分はどんな進路を選んだだろうか。大学へ進んだだろうか。就職しただろうか。専門的な学校へ行っただろうか。
 たぶん、なまえが頭の中で考えたどんな進路も、苦悩にあふれ、辛いこともあっただろう。そしてそれらと同じくらい、楽しいと思うことも、やりがいや、幸せなんかもあるに違いなかった。
 今のなまえとは大違いだった。苦悩だってあるし、幸せだと感じることもいくらかはあったが、なまえには未来がなかった。
 この先、自分はどうなるのか。どうすればいいのか。そんなことがいつも頭の隅にあった。
 日本にいて、普通に高校を卒業して、大学でも、就職でもしていれば、未来の可能性はたくさんあっただろう。将来こんなふうになりたいから今は勉強しようだとか、挫折したとしたとしても、次を考えられる環境は必ずあるはずだった。
 なまえには何もなかった。
 そんなことが浮かんでは、なまえはそれを追い出すように頭を振った。
 明日を生きるために今日どれだけ働かなくてはならないか。なまえの人生は、たったそれだけのことだった。
 それでも、なまえにも働かない日はあった。
 とっくに【諦め】ていてもおかしくないような日常の中で、なまえが自分を保っていられたのは、唯一の家族である母の存在と、それから自分自身でご褒美だと称した、息抜きのおかげだった。
 二週間に一日、全部を忘れてネアポリスの街を散策するのが、なまえは好きだった。
 昼間の明るい雰囲気の街を、観光客気分で歩いて周った。
 この日も朝から家を出て、外せない用事を済ませてから、なまえはネアポリスのなんでもない街を歩いていた。

「なまえちゃん、ボンジョルノ! 元気かい
?」
「ボンジョルノ。元気です。おばちゃん、お店の景気はどう?」
「いいわよお。おかげさまで」
「それは良かったです。じゃあ、また」

 歩いていると、小さなトラットリアの婦人に声をかけられた。なまえが何度か食べに行ったことのある店の人だった。彼女はとても気さくな人で、なまえを見かけるとよく声をかけていた。
 彼女だけでなく、こうしてなまえに声をかける人間はこの街には少なからずいたが、その誰もが、なまえの置かれた状況を知らなかった。
 なまえが他人に頼るということをしていなかったからだった。
 昼間のネアポリスを散策する【なまえ】は、周りからみればいたって普通の、移住してきた日本人の女の子でしかなかった。
 ジェラテリアの店主も、立ち寄ったなまえに愛想よく挨拶をし、フレーバーを悩むなまえを急かすこともなくニコニコとしながら待ってくれていた。

「はは……悩みますね。ごめんなさい」
「いいんだよ。ゆっくり選んで」
「グラッツェ。えーと……」

 色とりどりのジェラートが並んでいるのを見ていると、あれもこれもと食べたくなった。なまえは結局ひとつに絞ることができず、久しぶりのジェラートというのもあってかふたつのフレーバーをミックスすることに決めた。チョコレートとピスタチオ、と口にすると、店主は快活に返事をしながら注文を繰り返したのだが、なまえは「あっ」と思い出したように声を上げた。

「ちょっと、待って」
「ん? どうしたんだい」

 ごそごそと鞄を漁って財布を取り出したなまえは、その中身を見てがっかりした。フレーバーをミックスすると少しだけお金が足りなかったからだった。
 諦めて、「やっぱりチョコレートだけにします」と言いながら店主の方へ顔を向けた時、なまえの横から手が伸びてきた。それから「チョコレートとピスタチオのものを。ふたつお願いします」と手の主が言った。

「ジョバァーナさんじゃあないか。ボンジョルノ。すぐ用意するからちょっと待っててよ。なまえちゃん、先にいいかな?」
「あ、はい。どうぞ」

 なまえの真横にいる【ジョバァーナさん】という人に、店主はまるで友人が来たのかというような笑顔を向けて対応し、いそいそとコーンにジェラートを乗せていた。
 なまえはその人の顔を見ることもせず、横から注文をするほど急いでいるんだろうなと、少しだけ端へ寄った。
 すぐにジェラートがふたつ用意され、店主の手によってなまえの視界を横切った。それを見送り、改めて自分のものを注文しようとしたとき、「これをどうぞ」という声と共に目の前へジェラートが差し出された。

「え……あ、」
「……おや、驚いた。あなた、少し前に会いましたよね——ああ、ほら。どうぞ受け取って。ここのジェラート、美味しいんですよ。溶けてしまったらもったいない」
「いや、えっと、なんで?」
「なまえちゃん、受け取っときな。ほら、せっかくなんだから」

 店主に促され、なまえは差し出されたジェラートをそっと受け取った。
 うっすら緑色をしたピスタチオと、澱みのないブラウン色をしたチョコレートのフレーバーが乗ったジェラートはとても綺麗で、甘い匂いになまえは感嘆の息をもらした。
 しかし、店主が「なまえちゃん、ジョバァーナさん、また来てよ」と言ったのが聞こえた瞬間、ハッと我に返った。なまえはどうして突然ジェラートを買ってもらうことになったのか分からず、すでに歩き始めてしまっていた【ジョバァーナさん】の背中を慌てて追いかけた。

「あの! これ、なんで」
「あなたが注文している横から、ぼくが注文しました。早く食べたくて仕方がなかったんです。順番を守れなくなるほどに。ですからお詫びと、お礼です」
「……え、なんですか、それ。あの、お金払いますから、わたし」

 【ジョバァーナ】さんの横へ並んだなまえは、それでも歩みを止めない彼と同じ方向へ進んだ。
 彼は、なまえが一度ふたつのフレーバーを頼もうとしていた様子を見ていたに違いなかった。そして、財布の中身を確認したあとにフレーバーの数をひとつに減らしたのを見て、きっと哀れんだのだ。彼の言った、訳の分からない理由では決してない。これは想像でしかないが、なまえにはそう思えて仕方がなかった。
 しかし、つい口をついて「お金を払う」と言ったなまえに、彼はゆったりと歩みを止めた。

「あなた今、お金無いんじゃあありませんでした?」

 南風が吹いて、金色の後れ毛をなびかせながら、彼が言った。
 なまえを見下ろすエメラルドの瞳が、太陽の反射で光った。
 
「……そ、れは」
「できないことを簡単に言うもんじゃあない。素直に受け取れば良いじゃあないですか。食べたかったんでしょう、それ。随分と時間をかけて選んでたの、見てたんですよ」
「……でも」

 受け取ればいいと言われても、なまえはどうしても素直になれなかった。
 なまえはよく知りもしない他人から、それがたとえ哀れみや見返りを求めない親切心からきているものであったとしても、何かをしてもらうことがとにかく嫌だったからだ。
 どうしようと視線を下へ向けながら眉を顰めていると、上から声が降ってきた。言わずもがな【ジョバァーナさん】のものだった。

「なかなか強情な人ですね——ならこうしましょう。ここで会ったのも何かの縁です。ジェラートを食べ終わるまで、ぼくに付き合ってください。そうだな、最近の街の様子だとかを教えてくれませんか? あなたの感じたことでいいんです」
「……なんで、街の様子なんですか」
「【仕事上】といったところです。ですので、ぼくの仕事のお手伝いをしてもらうわけですから、ジェラートの代金はそれでチャラ。あなたはジェラートを貰って、ぼくは街の様子を知ることができる。互恵関係というやつです。どうです?」

 首を少しだけ傾けてなまえに聞く彼が何を考えているのかは分からなかったものの、以前に夜のネアポリスで会った時より物腰が随分と柔らかい。仕事だとか、小難しい発言はさておいて、ジェラートを手に持ちなまえの返答を待っているようすはまるで少年のようだった。
 なまえはどことなく毒気を抜かれた気分になって、彼に向かって首を縦に振った。

 彼はジョルノ・ジョバァーナと名乗った。
 なまえとジョルノはジェラテリアからさほど離れていない海の見える高台まで来て、ふたつほど並んでいるベンチへ二人で腰掛けた。
 天気が良いですねだとか、他愛もない話から始まり、なまえはジョルノへ最近の街の様子を言って聞かせた。とは言っても、トラッテリアの婦人や、先ほど行ったジェラテリアの店主だったり、他にもなまえに親しくしてくれる人たちから聞いた話をしただけだった。
 内容は、街に蔓延っていた【問題】が無くなっていっているというものだった。
 なまえは詳しく知っているわけではなかったが、今から一年ほど前を境に、【あるのも】をきっかけとした犯罪や暴力事件が減っていったと街の住人からはよく聞いていた。
 【あるもの】というのは【麻薬】のことだった。
 一年前まではネアポリスを拠点としているギャング集団が女子供見境なく麻薬を売り捌いており、そのせいで中毒者や売人たちによる暴行事件や犯罪が後を絶たなかったらしい。しかし噂によると一年前、そのギャング集団のボスが変わり、そこから街の治安は目まぐるしく良くなっていったのだとなまえは聞いていた。
 街の人たちは以前のボスのことも知らなければ新しいボスの顔も見たことはないそうだが、新しいボスは街の治安を守ってくれているのだと、そう言っていたのは先ほど立ち寄ったジェラテリアの主人だった。
 今や警察よりも、何かあればそのギャング集団の構成員たちに頼ることも多いのだと。これを言っていたのは港で船の貸出業をしている人だった。

「なんだか不思議ですけど。ギャングって、名前だけ聞くと良いものには思えないから」
「ええ」
「でも街の人たちは、治安が良くなったのはそのギャングのおかげだって、言ってるのをよく聞きます。こういう問題を解決してくれた、とか。麻薬中毒に陥ってた息子を、更生施設に入れるための説得を一緒にしてくれたとか。わたしはそのギャングの人たちとは会ったことないから、又聞きでしかないんですけど……このくらい、ですかね」
「なまえさんは、街の人たちと親しいんですね」
「……みんなが良い人たちなんです。わたし日本から移住してきたんですけど、なにかと気にかけてくれる人も多くて。それでよくお喋りに混ぜてもらってたりしたから」

 なまえは言いながら、あとひと口で食べ終わる量にまで減ったジェラートのコーンを、口へ放り込んだ。
 ジョルノの方を見てみれば、彼もまた、ジェラートを食べ終わったようで、なまえは彼のほうへ体を向け「ごちそうさまでした」と頭を下げ礼を言った。

「いいえ。ぼくのほうこそ、良い話が聞けて助かりました」

 ジョルノが立ち上がり、なまえを振り返った。
 彼の後ろから太陽が照らしており、逆光となって彼の表情には影が差していた。
 なまえは眩しくて目を細めながら、ふと、もしかしたらこのジョルノ・ジョバァーナという人間は、街の人がいうギャング集団の人間なのではないかと思った。
 街の話を聞くことを【仕事上】の都合でと言っていたし、【仕事】というのがギャングのことであるならば、色々なことに合点がいく気がした。
 そして、ジョルノには、街の人たちがいう【良い面】とは別に、【ギャングそのもの】の顔も存在するのではないかと思った。
 数日前の夜に会った時の、彼の顔がそれだ。
 彼が本当にギャングであるのかは結局のところ分からないし、憶測でしかないのだが、なまえはほとんどの確率で【そうなのだろう】と考えていた。
 街の人たちが【良い人たち】と言う面はとても聞こえの良いもののように思えるが、それでもなまえは、ギャングというものが【良いもの】には到底思えなかった。日本でいうヤクザだとか、そういうものと同じだと思っていたからだった。良い集団も、もしかしたらいるのかもしれないが、悪いイメージの方が圧倒的に多かった。
 なまえの中では、ギャングというものは、なまえの家に借金の取り立てにくる連中と大差のない存在で、怖いものだった。
 そして、目の前にいるジョルノも、きっとそうなのだと思った瞬間、なまえはもう二度と彼と関わらないようにしようと、頭の中でひっそりと考えた。
 それからなまえも立ち上がって、もう一度だけジェラートのお礼をのべてから、その場を立ち去った。
 ついさっきまで真っ直ぐ見ることのできていたジョルノの顔を、最後は見ることができなかった。