01
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大人になればなるほど、人肌が恋しくなる瞬間が多々ある。一度経験したのなら尚更であり、それを発散する機会が与えられないと、余計に考えてしまう。と、感じるのは自分だけなんだろうかとなまえは思う。
ようは、誰かに抱いてほしい。ということであるのだが、簡単には誰かに言うこともできず、なまえは悶々としながら日々を送っている。
二十代も後半になった頃のことだった。
「最近、腰が痛くてね。買い物に行くのもひと苦労なの」
この街で、なまえと親しくしている妙齢の女性が言った。
彼女はバールを営んでいる婦人であり、なまえはよくひとりで酒を飲みに寄っていた。
この日も、陽もまだ落ちていない時間からひとり、ふらりと店に来ては酒を煽っているさなかに、婦人がぽつりと溢したのだった。
「言ってくれれば行きますよ。おばちゃんにはお世話になってますし」
「ううん。いいのよ。最近はパッショーネの人たちが気にかけてくれて、一昨日も家具を動かすのを手伝ってくれたの」
「パ……なんですって? 便利屋かなにかですか?」
聞きなれない単語が婦人から飛び出て、なまえは思わず聞き返した。
すると婦人は、ああ驚いたというような顔をして「この街に住んでるのに、知らなかったの?」と【パッショーネ】という集団について、まるで自身の子供の思い出話をするかのように語った。
やれ買い物に同行してもらったとか、迷惑な客を嗜めてくれただとか、果ては電球を替えてもらっただとか。街で出会ったときに挨拶をすれば気さくに返事をしてくれるし、なにかととても頼りになる存在なのだと婦人は言った。
そんな、婦人から、ひいてはネアポリスの住人から絶大な信頼を得ているらしい集団は、なまえの思ったような便利屋ではなく、なんとギャング集団だった。
「ええ……ギャングって。それ大丈夫なんですか」
「大丈夫もなにも、かれらは街の治安を守ってくれているのよ。昔は麻薬なんかを売ってたり、悪い噂もよく聞いてたけど、今は体制が変わっただとかで、以前よりも街のことを考えてくれてるみたい。前からわたしたちの力になってくれる人は何人もいたんだけどね。とくにブチャラティって子がいて、彼は本当に親身にいろいろ聞いてくれるのよ。いい男だし」
「……へええ」
いい男だし、と言った婦人は、どこかうっとりとしているようだった。それから、自分がもっと若かったらと語りだしたのを意識半分で聞いていたなまえは、話の中心にいる【ギャング】についてぼんやりと考えた。
婦人は、ギャングの構成員たちに色々なことを手伝ってもらっているようではあるが、果たしてそれは誰にでもそうなのだろうか。婦人とギャングとの仲だからこそのものなのだろうか。分からないが、なまえもネアポリスで暮らす住人である。例えばギャング構成員の、どんな人でもいいから誰かを紹介してもらったりして、自分の【頼み】を聞いてくれはしないだろうか。
しかしなまえは【誰でも良い】とは言いつつも、人を選んでいる節もあった。選んでいるとはいっても、容姿だとか、そういうものではなくて【信用できるか】をみていた。
たぶん、少し露出の多い服を着て、夜の街に出てみれば一夜の相手は見つかるだろう。ここイタリアという国では、個人での売春、買春は認められていると聞く。金さえ払えばきっと、簡単に相手は見つかるはずだった。しかしそれではだめだった。金を払うのが嫌な訳ではない。単純に、怖いからだった。
【普通の行為】だけで終わればいいが、そうじゃない場合も、無きにしも非ず。例えば相手が危ない人間だったのなら、暴力をふるわれたり、最悪、殺されてもおかしくはない。初対面の知らない人間に裸一貫で挑むのは勇気がいるし、そんな勇気はなまえにはなかった。だから、信用という名の後ろ盾がほしかった。
なまえ自身が相手を信用していなくても、なまえの知り合いが信用しているだとか、そういうので良かった。ギャングと婦人の関係性は、まさにそれだった。
「……いや、ないないないない」
「え? なまえちゃん、どうかした?」
「あー……」
なまえは自分が咄嗟に考えたことに、自分で頭を抱えた。
婦人がなまえの丸めた背中に手のひらをやり、何かあったのかと聞くが、答えられるはずもなかった。
性欲を発散したくて例のギャングに【お手伝い】してもらえないかと思った、だなんて、ついに頭がイカれたかと冷えた目を向けられそうだ。
なんでもないと婦人には答え、なまえは深く息を吐いた。
2
ある日の夜、なまえは婦人がいるバールへ来て、いつもよりも少しだけ多く酒を煽っていた。
こんな日は、酒を飲んで忘れるに限るのだと、カウンター席へ座り、モレッティをひたすらに体へ流し込んでいた。
なまえがこんな風にして酒を煽ることは時々あった。婦人は最初こそ何かあったのかと理由を尋ねはしたのだが、なまえはいつも理由を語らなかった。
しょうもない理由であるし、人に言えるようなものでもなかったからだ。
ただ、建物と宵闇の隙間に隠れて【いたして】いる男女を思わず見つけてしまい、どうにもこうにも体の中に湧いた熱っぽさが出て行ってくれなかった。
ようは、性的なものを見て、性的な欲求が体を駆けてどうしようもない。という、ただそれだけのことだった。
「……爆発しそう」
「なんだって? なまえちゃん、何か言った?」
「ううん。おばちゃん、オリーブ食べたいです」
時折、婦人がなまえに話しかけて、軽くお喋りをしながらおつまみであるオリーブや野菜のスティックなどをかじり、それをモレッティで流しこむこと暫く。もうすぐ店を閉める時間になった。
沢山いた客は一気に減り、なまえと、それから男性客がひとりとなった。
婦人はカウンターの中で片付けをしながら、「今日はわたし、まだ店にいるから、なまえちゃんは酔いを少し覚ましてから帰りなさい」と言い、水の入ったグラスをなまえへ渡した。
「うん。グラッツェ。おばちゃん」
「いいのよ。何か食べる? パスタとか、そんなものしかできないけど」
「えっ、食べます食べます。やったあ」
「じゃあ一緒に、食事にしましょう」
そのまま婦人は店の奥へと消えていった。
そんなタイミングを見計らっていたのかどうなのか、店に残っているもうひとりの男性客が、なまえのほうへ寄ってきた。
目が合って、唐突に「おれ、おねえさんのことタイプでさ」となまえの座る席のとなりへ無遠慮に腰掛けた。
「……はい? タイプ?」
「おねえさんアジア人だろ? なんでイタリアに来たの? おれ、なんていうかさあ、おねえさんみたいな清楚っぽい雰囲気の顔が好きなんだよな。奥ゆかしいってーの? アジア人ってそういう顔してる女が多いからさ」
「……はあ、そうなんですか」
男は自分の趣味趣向をひとりで語っている。誰も聞いていないのに。
ただの酔っ払いかとなまえは思い、話半分でぼんやりと聞いていた。
しかし、雲行きが少々怪しくなってきたとなまえが感じたのは、男がズボンのポケットから金をガサリと取り出し、カウンターテーブルに置いたときだった。
なまえは訝しげな顔をして、日本円にしてだいたい三万円ほどと思われる金と、男の顔とを交互に見た。
「それでさ、おれ、アジア人とヤッてみたいんだよ。このくらいで、どう?」
「……いや、いやいやいやいや。え、『このくらいでどう』? 何言ってるのかぜんぜん分からないです。怖いです」
「だから、おれがおねえさんを買うって言ってんの。頼むよ」
「誰がいつ、【売ってます】って言ったんですか? 売ってないもの買おうとしてるのが意味分かんないって言ってます。わたしは。頼まれてもあなたには売れませんけど」
「なに、先約でもいんの? そいつ金払いはいいの? おれは金も払うし、天国みたいな体験させる自身もあるぜ」
「は、はあ? 何言って——ちょっ、」
テーブルに置いていた手を、なまえは男に握られる。話の全く通じない男になまえは体が粟立った。咄嗟に振り払おうとするものの、ガッチリと腕を掴まれてしまって身動きが取れなかった。
どうしようと焦ったが、なまえはふと思った。
本当に【誰でも良い】と思っていさえすれば、なまえの目的はこうも簡単に叶うのだということだった。
今、ひとつ頷いて、テーブルの上の金を懐へしまえば、悶々として、悩みにさえなっている胸の内の気分を晴らすことができる。この先ずっとこんな欲求を晴らせる機会なんてないかもしれない。これはチャンスだ。恋人だとかそういう色恋を含まず、金の絡む関係がなまえの理想だった。
男の目的は明白だった。そういう行為を目的として、金を払い女を買う。なまえ自身、【行為】という目的は男と同じであるし、望んでいたのもあるが、しかし、やっぱり、こういうことじゃない、とも思う。なまえは【金を得るために体を売る】わけではない。行為はできるだろうが、金も貰えてセックスもできてラッキー! とは、なまえはならなかった。
男を見れば、まるで【金が欲しいだろ?】と言わんばかりの目をしていて、なまえは眉を顰めた。その顔を見て、男は何を勘違いしたのか、懐からもう何枚かの札を出し「これならどう?」と言った。なまえは何故か、すごく腹が立った。
男に握られた手を思い切り振り払って、テーブルに置かれた金を乱暴に取ると、それを男の顔面めがけて投げつけた。
「!」
「抱いてほしいと思ってたのは認める! けどあんたじゃない! 金もいらない! そういうことじゃない! ひっこめろ! その金! お呼びじゃないんだよ!」
「な、てめえ! このアマ! こっちが下手に出てりゃあ調子乗りやがって!」
驚いた男が、口汚くなまえを責め、そしてそのまま殴りかかろうと手を振り上げた。
なまえは咄嗟に目を瞑ってしまい、すぐにでも来る衝撃に備えていたのだが、一秒、二秒と経っても殴られることはなかった。
「……?」
代わりに男の呻き声が聞こえて、恐る恐る目を開けてみれば、男の数が増えていた。
全部で三人が増えている。その中の、独特な柄の入った白いスーツの男が、なまえを買おうとした男を取り押さえていた。綺麗な顔をした男だった。
「いや……だれ?」
「騒がしいと思って出てきたが……シニョリーナ。怪我はないか。何があった。この男はきみの知り合いか?」
白いスーツの男は、取り押さえている男の腕を背中側でぎりぎりと拘束しながらなまえへ向かって聞いたが、なまえは突然のことで頭がまわらず、相槌にもならないような声を漏らすことしかできないでいた。
そんな時、拘束されている男が「お前らは誰なんだよ! おれはこの女を買おうとしただけだ!」と、大きな声で言ったのだが、ぎゃあぎゃあと「抱いてほしいとか言ってただろ!」とか「金は払うって言ってるだろ!」だとかを喚きだしたのを見て、白いスーツの男は眉を顰める。次の瞬間には思い切り殴りつけられ、喚いていた男は大人しくなり地面に転がった。
「少し黙ってろ」
既に沈黙している男に向かって、白いスーツの男が言い放った。
いや、もう黙らされてますけど、とは口には出せなかったが、なまえは沈黙している男とは別の意味で【危ない人】が来てしまったと思った。
なまえがこっそり戦慄いている間、白いスーツの男は仲間——だと思われる——のもう二人のうちの、背の一番大きなロングヘアーの男に向かって「この男をどうにかしておいてくれ」と言った。
どうにか、とは。気絶している男は何か恐ろしいことをされるのではないかと一瞬思うが、それは瞬きほどの時間だった。なまえは「どうでもいいか」と、ロングヘアーの男によって、店の外に引きずられていく男に心の中で合掌をしておいた。
床に散らばっている金を指差し「それは、あの人のものです」となまえが言うと、その場にいたもうひとりの、前髪がくるんと特徴的なカールをした金髪の男が回収していた。そのまま、金は彼の懐にしまわれた。
「——それで、あの男とは何故揉めていたんだ」
白いスーツの男がなまえに質問した。
なまえがことのあらましを簡潔に説明すると、男は厳しい顔つきで、ふむと顎に手をやる。それからなまえの方を向き、「ついていかなくて良かった」とほんの少しだけ表情を緩めた。
「きちんと金を渡すやつもいるが、やるだけやっておいて金を渡さずトンズラするやつもごまんといるからな」
「はあ、」
「しかしだ。シニョリーナ。きみもあまり相手に煽るようなことを言って刺激するんじゃあない。おれたちがいたから良かったが、あのまま殴られていれば、下手すりゃ病院送りにだってなってたかもしれないからな」
「……そうですね。助けていただいて、ありがとうございました。気をつけます」
唐突に始まったお説教に、なまえは内心で嫌な顔をした。
相手を煽ってしまったのは分かっていた。そでも【金目的】という目で見られたことにどうしても腹が立ったのだ。たぶん、酒が入っていたのもあるだろうが、たとえ素面だったとしても、ものの言い方が違うだけでなまえは何かしらの文句を言っていただろう。
しかしなまえはいい大人であるので、説教をされたからといって、あからさまにはしなかった。いい大人はそもそも文句を言わないという意見には耳を塞いでおき、ここは物分かりの良い顔をしておくことに徹していると、なまえと一緒に食事をと言って店の奥にずっと引っ込んでいた婦人が顔を出した。
「あら、ブチャラティ。食事は済んだのかしら?」
「いや、ちょっとした問題があって出てきただけなんだが、それももう片付いた。シニョーラ、あなたはこれから?」
「ええ。なまえちゃんと二人で食事にするわ……あ、彼女、なまえっていうのよ。なまえちゃん、彼がこの間言ってたブチャラティ。ギャングだけども、わたしたちにとってとても頼りになる人よ。もちろん、そっちの二人もね」
いい匂いのするパスタをカウンターテーブルへ広げながら、婦人はその場にいる人たちそれぞれをなまえに紹介していった。
なまえはそれを聞いて、この人たちが例のギャング集団だったのかと、どことなく背筋が伸びるような思いだった。
というか、と改めてなまえはブチャラティから順に他の二人のこともよく見てから、思わず呟く。
「……顔採用なの? ギャングって」
そんな訳ないのだろうが、彼らの綺麗な顔を見ていると、なまえはそう思わずにはいられなかった。
3
性欲というものは、発散しなくても人体にこれといった害はないものであり、必要なければしなくても問題はないし、我慢だってできるものである。
しかし、状況によっては性欲を我慢することが、ストレスに感じてしまうこともある。
なまえがなぜ、誰でもいいから抱いてほしいなどと思うようになったのかは、色々な感情もあるものの、この【我慢】というものがきっかけだった。
なまえは高校を卒業してすぐ、五つ年上の、ひとりの男性と結婚した。
なまえが十六の頃に出会った彼は当時二十一歳で、短期大学を卒業した社会人だった。
恋人同士ではあったものの、彼は二人の関係を、あまり大っぴらにはしたがらなかった。なまえが未成年だったからだ。
しかし、やることはやっていた。なまえはそれに同意していたし、初めての経験ではあったものの、彼はとても優しく丁寧で、行為の最中はとても幸せだった。
高校を卒業したら結婚しようと言ってくれた彼のことも勿論大好きではあったし、なまえ自身も、彼と一緒になりたいと常々思っていたため、結婚についてはほとんど二つ返事でオッケーを送った。卒業まであと半年という頃のことだった。
実質的には婚約という間柄になったなまえたちは、そこから会う頻度も増え、そして行為に及ぶことも目に見えて増えていった。
なまえは漠然と考えていた。
初めて自分の全部をあげた相手と、これから先も一緒にいて、夫婦になっても恋人同士みたいに幸せなセックスをして、愛を確かめあっていければいいなと。
なまえにとってのセックスは、もちろん肉体的快感を得るためのものでもあるが、お互いがお互いを思いやっているからこそ生まれる、心で想う快感を得るものだった。
愛しいと思うから触れたくなるし、触れられたくもなって、行為の最中は、愛しい、嬉しい、幸せ、だとかの感情がぐるぐると循環しているようで、いつしかなまえにとって彼との行為は、必要不可欠なものになっていた。
そしてずっと、それが続くものだと思っていた。
しかし、高校を卒業し、彼と結婚したとたん、ぱったりと無くなってしまったのだ。
彼はいわゆる、【釣った魚に餌をやらない】人だった。
なまえの【我慢】がはじまったのは、そこからだった。
彼から誘われなくなり、なまえから誘っても断られてしまう。渾身の可愛げを発揮して誘っても失敗。可愛いものからセクシーなものまで、色んな下着なんかをつけても失敗。仕事で疲れているだろう彼の体をマッサージして、満を持して誘っても失敗。シンプルに大型連休のうちに誘っても失敗。
失敗の数をあげればキリがないが、とにかくなにもどうやっても、彼がなまえの誘いにのることはなかった。
体型だって気にして綺麗にしていたつもりだったし、家でもだらしない格好をしないようにして、彼にとって魅力的な女性でいることを、いつも心がけていた。
イタリアに移住することになったのは、世間で新婚だと言われる期間が過ぎた頃だった。
突然のことだった。
『ヨーロッパ圏に赴任できる若い社員を、会社で大規模に募集していたから、手をあげて、イタリアのミラノに決まった。急だけど三ヶ月後には日本を発つから、そのつもりで。なまえもイタリア語、少しは勉強しといて』
そう言われたとき、なまえは内心で腹が立っていた。なんの相談もなかったし、なまえが赴任先についてくるのが当たり前のように彼が振舞っていたからだった。それでも、腹立たしいのをおくびにも出さず、なまえはついていくことにした。
海外は愛情表現がとても大胆で、オープンな雰囲気だと聞いたことがあった。環境が変わって、彼は仕事も忙しくなるだろうが、現地の雰囲気を浴びていれば、夫婦関係も良い方へ変わるのではないかと思ったからだった。
しかし、結局のところ、夫婦関係は良くもならず、悪くもならずといった、旧態依然のような状況が続いた。
変わったことといえば、なまえ自身の気持ちが、悪い方へ転がっていた。
日本と違い、公衆の面前で堂々といちゃつくカップルを目にするたび【羨ましい】となまえは思うようになり、それでいて、次にはどうして自分はあんな風に抱きしめてもらったり、キスをしてもらったり、してもらえないんだろうと、悲観的に考えるようになった。
結婚して、触れ合うことがなくなって五年。なまえは行為どころかキスさえも、しなくなっていた。
友人も家族もいない、自分の思いを吐き出す場所もないイタリアで、夫と暮らしている筈なのにも関わらず、なまえはずっとひとりだった。
どうしようもなく体がもどかしくなった時には、自分で自分を慰めることしばしばあったが、それをしてしまうと今度は虚しさに襲われた。
他の男性と、なんてことも何度も考えたが、その一線は超えられなかった。
なまえはずっと、彼に、夫に抱いてほしかった。
【我慢している】と思っていたことが【我慢させられている】に変化したのはこのくらいの頃だった。
もう自分の何がだめで、どうすればいいのかも分からなくなって、考える気力もなくなって、そうして、寂しいだとか、悲しい、虚しいという感情が怒りに変わっていった。我慢の限界がきたとき、なまえはついに、彼を問いただした。
どうして愛情表現をしてくれなくなったのかを問い詰めたとき、彼が言った。
『最初はただ疲れてるだけだった。結婚したての頃は何かと忙しかったろ? それで全然タイミングがなくて、ほったらかしにしてた。それで、初めてなまえから誘われて、それを断ったとき、なまえがほんのちょっと寂しそうにして、だけどそのあとすぐに笑ってて、なんていうか罪悪感みたいなものが湧いたんだけど、それからも、綺麗にしてる姿だとか、いつもにこにこしてるなまえを見てると、なんだか口にされてないのに無言で誘われてる気分になって、それが圧力のように感じて、重荷だった。だからできなかった。けど、セックスってそんなに大事? おれは、なくてもいいって、結婚して思ったんだけど。お互いが思い遣ってて、好き同士なら一緒にいるだけで幸せって思う』
なまえはかみなりで頭を撃ち抜かれた気分だった。
自分がいままで、愛してほしくてしてきたことが、すべて意味のないことだった。それどころか重荷だったとまで言われて、それならどうして、その時に言ってくれなかったのという言葉が喉元まで這いあがって、なまえはそれを呑み込んだ。
彼は、自分勝手だ。彼はなまえがずっと、彼に触れてほしいと思っていることを分かっていたはずなのだ。それを分かっていながら、なまえの誘いを何年もあやふやな態度で受け流し、果ては【一緒にいるだけで幸せ】だ、なんて言ってのけた。
なんで、どうしてと思うのと同時に、なまえはふと、自分自身はどうだったのかと考えた。
自分はずっと、彼に抱いてほしいと思う気持ちを明け透けに出していなかっただろうか。今夜こそと、まるで盛りきった動物のような、そんな態度をしていなかっただろうか。いや、きっとしていた。
仕事で疲れている体をマッサージしてだとか、ちゃんと健康的な食事をつくってだとか、なまえはそれらを、彼を思いやる気持ちの上でやっていたと自分でも思っていたが、その実、ただ彼にもう一度抱いてほしいからという欲求を、思いやりという言葉に隠していただけだったのかもしれなかった。
彼も勝手だと思うが、自分も大概、勝手だった。
それに気づいたとき、なまえは今まで大切にしてきた【つもり】の、愛だとか思いやりだとか、そういうもの一切が、ぜんぶ面倒なものに見えた。
もっと早く、彼と話していればこうはならなかったのかもしれないが、今更であり、なまえの、九年ほどあった結婚生活が終わった瞬間だった。
それから約二年。
なまえは離婚してからもイタリアへ居続けた。
手続きだとかが大変面倒だったが、彼の、イタリアでの赴任が終わり、帰国することを知っていたなまえは、どうしても日本に帰りたくなかった。
それでいて、いい思い出のあまりないミラノにも居ることは憚られて、なまえはイタリアを南下し、ネアポリスに居着いていた。
元夫である彼のことは早々に諦めがついていた。
普通なら、次に行こうだとかを考えてもおかしくないのかもしれないが、なまえは恋人という関係を築くことにこりごりしていた。
恋人だとか夫婦だとか、愛が絡んでくるととても面倒ではあるし、そういうものはいらないと思っていた。
それでもふと、例えばラブロマンスの映画や、相変わらず大胆に道端でキスをしているカップルなんかを見ると、彼との行為のときに感じた、身を震わすような幸福感と快感を思い出すことがあった。
彼自身のことはハッキリ忘れたと言っていい。しかし行為自体のことや与えられた快感は、体が覚えてしまっていた。
なまえはどうしようもなくむずむずとする下腹部に悩んで、発散したいと考えるようになった。
誰でもいいから、この悶々とする気分をどうにかしてほしかった。