二〇二六年、秋のこと
十月五日。
暑い季節が過ぎて、過ごしやすい日常がやってきた頃。
街並みは早々から月末にやってくるハロウィンの準備に勤しみ始め、秋の味覚フェアなんて言葉も至るところに見え始めている中、なまえは午前中に予定していた用事を済ませ、そしてお昼が過ぎた頃に帰宅した。そんな時だった。
部屋の中に知らない人間がいた。
八畳一間のワンルームに置いてあるシングルベッドの側。そこへうつ伏せで人が倒れていたのだ。
ピンクがかった紫色の頭髪に紫色の服を着た、少年のような、青年のような、そんな男の人だった。
『……う、えっ、な、あ……空き巣? ——あっ、け、警察』
鍵は閉まっていたし、こじ開けられた形跡も無かったと思い出しながら、なまえはゆっくり、なるべく音を立てずに鞄にあるスマホを取り出す。こういう時は、とりあえず警察を呼んだ方がいいよねと自問自答を頭で繰り返すが、同時に、この状況は警察を呼ぶよりも先に部屋から出て行った方が良いのではとも思った。
空き巣——仮にそう呼ぶが——をよく見てみれば、微かに肩周りが上下していて、どうやら眠っている?ようだが、いつ目を覚ますかも分からない。そんな時になまえがいれば、空き巣は何をしてくるかも分からない。頭の中は冷静であるのに、体は思ったように動いてくれない。
この部屋はマンションの中層階であるし、どうやって空き巣が侵入したのかは分からないが、幸いなまえは最低限以上の物をあまり買わない性分だった事もあり、盗まれる物は殆ど無かった。現金は銀行であるし、キャッシュカードは持ち歩いている財布の中にある。通帳や銀行印なんてものは口座を作った時から不要として契約したためそもそも持っていなかった。とどのつまり、なまえの住んでいる部屋にはお金になるようなものはないのだ。強いて言うならテレビだとかの家電など、そんな物くらいだった。
もし今、空き巣が目を覚ましてしまえば、暴行された上に鞄を取られてしまうかもしれない。鞄にはなまえが生活していく上で必要不可欠なものばかりが入っている。それを失ったりしてしまえば大変なんてものではない。そんなもしもの、最悪の状況を想像して身が震えた。それは嫌だと思いつつ、今のうちにと固まってしまっていた自分の足に喝を入れ、玄関まで摺り足で戻ってからとりあえず靴を履く。靴なんて履いてる場合かとは思うものの、空き巣が眠っているという少しの油断からなのかは自分でも分からなかったが、とにかく何があっても走って逃げられるようにという考えからスニーカーを履いた。
もう一度部屋の方を振り返ると、ワンルームゆえにここからでも空き巣の様子は見てとれる。まだ起き上がってはいなかった。
思いつきで手に取った靴べらを武器がわりにして、なまえは玄関扉の鍵を開けてからその場でスマホを操作する。玄関扉を開けた時の音が響くのを危惧して、その場で警察に連絡しようと思ったからだった。
しかし、ひゃくとうばん……と電話アプリのアイコンをタップした時、「うう」と明らかに人のものである呻き声が聞こえた。言わずもがな、空き巣がいる方向からだった。
「あ、れ……うっ、ぼく——はっ! ブチャラティたちは……!」
うつ伏せの状態で、呻き声と一緒に何かを呟いたと思えば空き巣は突然ガバリと起き上がった。
そして焦ったようにキョロキョロと周りを見渡しながら、混乱した様子で言葉にならないような音を口にする。そうして、いつでも逃げられるようにと玄関扉のドアノブに手をかけているなまえと目が合った。
「な、は!? ……女の人!? えあ、だ、誰なんですかあなた!? ここは……ぼくは死んだ筈じゃあ……ど、どうなってんだ!?」
『え、な、何語? ——って、ちょっと! 動かないで! 警察呼ぶから!』
「ひっ……!」
なまえの存在に驚いた様子の空き巣は大きく声をあげ、よく分からない言葉を喋ったと思ったら立ち上がろうとした。慌てて靴べらを構え直し大きな声で制止するのだが、空き巣はそんななまえの挙動を見て、今度は怯えたように頭を抱えた。その瞬間、勢いよく身体を丸めようとしたせいなのか、彼はすぐそばにあったベッドの縁に思い切り頭を打ち付けてしまっていた。
ガン!と大きな音がした。
「ッッイ! イッテェェ! ぐ……くそ、なんなんだよォ……! 痛えよォ……!」
『は……え、ちょっと……だ、大丈……夫?』
痛みに悶える様子を見て、相当な間抜けなのか何なのか、もはや空き巣なのかどうかも分からなくなってしまって、打ちつけた頭を抱えてうずくまる空き巣へ思わず近寄った。その気配を察知したのか、空き巣は顔を一瞬上げ、近寄ってきたなまえの姿を認めると「ひぃ!」と叫び、そのままの大声でどこのものなのかも分からない言葉を発しながら、また頭を抱えてしまった。
「や、やめてくれよォ! 僕が何したってんだよォ!」
『うわ、ちょ、声おさえてっ、落ち着いて』
「うわああ……!」
『……もう! 近所迷惑になるから声! 静かに! 落ち着いて! プリーズ! ビー、クワイエット! カーム、ダウン!』
どうしてそんなに混乱しているのか、なまえには分からなかったが、とにかく怯え、声を上げる空き巣に身振りを加えながら言ってみる。どうやら日本語は通じていない様子であるし、彼がどこの国の言葉を喋っているのかも分からないので、拙くはあるが分かる範囲の英語を混えて言ってみれば、どうやら理解できる部分があったようだった。
怯えた表情は変わらずだが、少しばかり落ち着いた様子の空き巣がなまえをチラリと見た。
『……あー、えっと、ドントビー、スケアード。何もしない……えっと、アイ、ウォントドゥー、エニシング。大丈夫、カームダウン。ドゥーユーアンダースタンド?』
「……あ、お、落ち着けって、言ったのか? 英語、だよな……英語あんまり分からないんだけど……イタリア語で喋ってくれよぉ……」
『え、イ、イタリア?』
「! そ、そう、そうだよ! イタリア語だよ!」
なんとか頭を回転させて、知っている単語を並べるだけの英語を色々言ってみれば、空き巣はまたなまえには分からない言語で呟いたのだが、その中にイタリアという国名が入っている事に気が付いた。
それを繰り返せば、空き巣はパッと表情を綻ばせる。
しかし生憎、イタリア語なんてものは英語よりもなまえは知らなかった。"こんにちは"だとか"ありがとう"だとか、それくらいしか分からなかった。
どうしようと考えたあと、あっと閃いたなまえは、結局警察にも連絡をせずにポケットへしまっていたスマホを取り出した。
翻訳アプリを起動して、あなたは誰で、どうしてこの部屋にいるのか、どうやって、何の目的があってここへ来たのか、日本人じゃないのかなどをスマホへ向かって喋ってみせる。そしてイタリア語に変換された文章を空き巣へ見せた。
「っな、なんですかコレ……ん、っと、君はだれ? なんでここにいて、どうやって来たのか? 目的? 日本人じゃないのか、だって?」
空き巣が問いを読み終わったのを確認してから、今度はスマホに向かって喋ってもらうべく、マイクボタンをタップする。そのまま空き巣の顔の前へスマホを持って行くと、なにやら困惑した顔を向けられた。
翻訳アプリ使った事ないのかな、と、身振り手振りを使ってどうにか喋ってほしい事を伝えれば、空き巣は眉を顰めたままスマホに向かって口を開いた。
「ここに向かって喋れば良い、ってことかな……ええっと、僕はドッピオ。ヴィネガー・ドッピオといいます……ここにいるのは……なんでか分からない……どうやって来たのかも……。日本人じゃないし、イタリア人、です……あとこの、四角いものは何ですか?」
空き巣が喋り終え、ピロンという音と共に日本語へ翻訳された文章を見る。
その中の『ここにどうやって来たかも、なんで来たかも分からない』という返答になまえは顔を顰めた。同時に"四角いもの"というのが何を指しているのか分からず、どうにか聞き返してみればなんとスマホの事を"四角いもの"だと言っている様だった。
その事に、多分今日で一番、顔を顰めたと思う。しかしスマホが分からないと言われれば、翻訳アプリの使い方を分かっていなかったのも合点がいった。アプリというよりスマホ自体を知らなければ、困惑もするだろう。
なまえはとりあえず、スマホというものが何なのかと、翻訳アプリの事を説明するべく、空き巣――もといドッピオという少年が手に持ち四方から珍しげに眺めているスマホを返してもらった。
『コレは、スマートフォンと言って、簡単に言えば携帯電話で、電話やメールは勿論だけど、今みたいに言語を翻訳してくれたり、他にも色んな事ができるもの、かな』
翻訳し、画面を見せればドッピオは「なるほど」と言うような表情になった。その様子から、携帯電話の事は流石に知っているようだった。しかし次にドッピオが翻訳した「便利なものなんですね」という文章を見た時、なまえはひとつ、ふと気になった。
見たところ、ドッピオの表情は嘘を吐ているようには見えなかった。それにそもそも、スマホを知りませんなんて嘘を吐く意味が分からない。となれば本当に知らないという事になるが、そんな事があり得るのか。
ドッピオは言葉もそうだが顔立ちからして本当に日本人では無いようだった。外国人の方が日本含めアジア人よりも大人びて見えるものだが、それでもドッピオは若そうに見えたし、十代半ば、もしくは後半くらいだろうと思う。
今や何をするにもスマホを使い、小学生でも持っている時代だというのに、スマホが無い生活なんて考えられないだとかを考えそうな年齢ほどの男の子が、まさかソレ自体を見た事も無いなんて。どう考えてもおかしい気がした。
今まで監禁だとかをされていたため世間を知らずに生きてきて、そして逃げ出してきたとか。しかしそれだとどうして、どうやって自分が私の部屋に来たのか分からないと言っていた説明がつかないし、まず警察に行くだろう。考えられないがイタリアから日本へ逃げてきただとか言うならもっとそれ相応の場所へ行くだろうし。国を渡って来たというなら彼が手ぶらなのも変だ。
それなら、他の理由があるんだろうか。可能性としては……記憶喪失、だとか。そういうものだろうか。あまりピンと来ないが、考え過ぎだろうか。たかがスマホを見た事がないと言っているだけで。
しかし妙に気になってしまったなまえは、ひとまず本人にいくつか聞いてみようとスマホに吹き込む。
『もしかしてどこからか逃げてきたり、する……? 監禁されてたとかはない? それと一応……今日は何年の何月か分かる? なにかが思い出せないとか、そういうのはある?』
言ってみて、自分でも何を言ってるんだと思いつつ、記憶喪失について考えた。
ドッピオが本当に記憶喪失だとして、彼がこの部屋にいる事やここに来るまでの事を覚えていないのは理解できる。何かのっぴきならない事情があり、その事情の前後や自分の事を覚えていないだとかは、テレビやなんかで聞いた事があった。
しかしなまえの目の前で困ったような表情をしているドッピは、自分の名前は言えているし、携帯電話の事も分かっていた。ただ、ここにどうして、どうやって来たのかという事と、スマホという物の事が分からない。その記憶だけが抜け落ちる事なんてあるんだろうか。
私なまえは専門家じゃないので本当のところは分からずだが、それでも珍妙すぎるのではと思うのはなまえだけじゃない筈である。
単なる記憶喪失では無いのかもしれないと考えるが、それならなんだというのだろう。例えば携帯電話はあるけどスマホは無かった時代の人……。なまえはそこまで考えを巡らせて、ふと思いついたのはタイムスリップしたという事だった。突然この令和の時代に、なまえの部屋に飛ばされてしまっただとか。その思いつきに、思わず馬鹿馬鹿しいとため息が出た。
そんなのはファンタジーの世界の話で、現実ではあり得ない。二〇二六年の今でもタイムマシンなんてものは存在しないのだ。
そんな事を思いながら、先に翻訳されたものをドッピオへ見せる。彼は疑問の表情を浮かべて、なまえの促すまま答えだろうイタリア語を話していった。
そしてその答えは、ついさっきなまえが馬鹿馬鹿しいと一蹴した、まさにファンタジーな事がまさか現実で起こっているのかもしれないと思わせられるものだった。
「逃げてはいないです、監禁も無いけど……何年? 今は二〇〇一年じゃあないんですか? どうしてそんな事聞くんです?」
『は?』
回答を見て、スマホに表示された文字を目で追うごとになまえは思わず懐疑的な表情になった。
『にせん……いちねん? え、いや、本当に言ってるの? ――冗談ならやめてよ。ふざけてるの? 今は二〇二六年なんだけど。二〇〇一年な訳ないでしょ』
至極真面目な顔をしながら馬鹿みたいな事を言わないでほしい。そう思いつつ今が西暦二〇二六年だという事を、ドッピオへスマホ越しに言えば、彼は信じられないといった顔をした。
それから思い切り困惑しながらもなまえの手からスマホを奪い取り「冗談を言っているのはそっちだ。ぼくはあなたの質問に答えただけじゃあないか。二〇二六年? 訳の分からない事を言わないでくれよ」と喧嘩越しにも思える文章をつきつけた。
なまえはスマホの言語設定をイタリア語に切り替え、そしてカレンダーアプリを開き、時計アプリを開き、その全ての日付が二〇二六年を示している事を指し示した。
これらが証拠だと言わんばかりに買ってあった雑誌の日付けや、それからテレビを点け日付けが記載されていたチャンネルも見せたりしていると、それを促されるまま見ていたドッピオの表情は次第に曇っていく。ついさっき喧嘩越しのような文章をつきつけた人物とは別人のように大人しくなって、そうして最後には難しい顔をして何かを呟いた。
なまえはそれに、『なに? どうしたの』と聞けば、彼は恐る恐るといった風に、スマホにイタリア語を吹き込んだ。
「……ど、どうやってここに来たのかは本当に分からない。気付いたらここにいて、あなたがいて……それに、確かに、よく考えればぼくが知っている携帯電話は"コレ"とは全然違う。この……テレビですよね、コレ。コレだって映像が凄く鮮明というか。ぼくが知っているテレビはもっと分厚くて、ブラウン管テレビだから……二十五年後のテレビはこんなに薄いって事なのか? と、とにかく見た事がない……何がどうなっているのか分からない……ぼく……ぼくは、過去から来たんでしょうか。そんな事あり得る、のか? ぼく、どこに行けば……ど、どうしよう、ぼくはどうしたら」
『……』
なんとか絞り出したといった様子で言い終えたスマホの画面には、今自分に降りかかっている状況に混乱している様子が文面からありありと伝わってくるようだった。
その動揺が本物のように見えて、今にも倒れてしまうんじゃないかという程に青ざめているドッピオになまえは言葉が出なかった。
どうしたら良いのか分からないのはなまえの方だった。
ここまでのやり取りで彼が単なる空き巣でない事もぼんやりとだが……いや百歩譲ってだが理解した。……事にする。
しかし、だからと言ってドッピオをどうすればいいのかは分からなかった。警察に連れていったところで対応に困るだろう。時代の迷子だなんて笑えないし、なにかそういう専門的な病院だったりを迷惑そうな顔をしながら紹介されて終わりだろう事は目に見えていた。
なまえだって、まだドッピオが記憶喪失だったり、妄想癖のような、精神的な障害を抱えているとかじゃないかと思う部分もあった。というかそっちの方が現実味があるし、寧ろそうであってくれた方がいいのではと困惑気味に思っていた。精神的な何かだった方が、何かしら的確な対応ができるかもしれないと思ったからだった。
過去から来たなんて言われたら、それこそなまえの想像の中にいる警察と同じく対応に困るし、どう考えても信じられないし、そんな馬鹿なと一蹴してしまいたくなる。
しかしぶつぶつと何かを呟いているドッピオをチラリと伺えば、不安そうに眉を困らせていて、その様子はなまえの胸の内に訴えかけてくるようだった。
このまま放り出すのは簡単であるが、過去から来ただとか記憶喪失だとかそんな事は無しとしても、言葉の通じない国に一人放り出されてしまえば、ドッピオはどうなるのだろう。そう思うと、一人にしてしまうのは気が引けてしまった。
……もうどうにでもなれ。
なまえは半ば投げやりのように、スマホへ文章を吹き込んでいった。
『あの、ドッピオくん。過去から来たって完全に信じた訳じゃないけど……行くところは……無いんだよね? それなら、暫くここに居てもいいよ。君が良ければ、だけど』
「は、え……ほん、本当に……? でも迷惑じゃあ……」
『迷惑だとかを考えてる場合じゃないと思うんだけど……どうする? 出て行くならそれでも良いんだけど』
「……い、いいえ! いさせてくれるなら、嬉しい……。ぼく本当にどうすればいいのか分からなかったから……あなたが良いなら、お願いします……!」
ドッピオは今にも泣き出しそうになりながら翻訳アプリへ言葉を吹き込んでいく。両手でスマホをなまえへと差し出すその様子は、本当に心の底から助けを求めているみたいだった。
なまえはそれにほとんど二つ返事でオーケーを出した。
「……ありがとうございます、本当に」
ドッピオが最後に言った言葉の内のひとつの単語はなまえにも聞き取れ、理解もできた。
渡されたスマホの画面を見るより前に『どういたしまして』と、殆ど無意識になまえは呟いた。
伝わってはいないだろうけど。
『あ、でも、あともうひとつ条件というか、言っておかなきゃいけない事があって――』
スマホを受け取って、なまえは話す。
ドッピオの居候に関して、これだけはきちんと、前もって言っておかなければならない事があった。
『居ても良いんだけど、多分、半年とちょっとくらいになるのかな、私ここを出て行く予定……出て行くかもしれないから、だからその時までに……えっと、例えば過去に帰る方法を探すとか? してほしいの。私も協力できるところはする。でももし過去に帰れなかったりした時は、ドッピオくん一人でこの家から出て行って貰わなきゃいけない。この家は解約しなきゃいけないし、私は一緒に行けないから。だから日本語も少しは分かるようにしてほしい――』
そこまでで区切り、一度ドッピオへソレを見せる。彼は色々思う事があるんだろう、どうして出て行くのかを単純に疑問に思っているような、そんな顔をしてなまえを見た。
それからこれまでのやり取りで翻訳アプリの使い方をすっかり覚えたらしいドッピオは、アプリ内にあるマイクボタンを押して何かを言おうとした。しかしなまえはそれを制止して、『オッケー?』と咄嗟に出た英語で聞けば、彼はうんと頷いた。