第一章

 1
 なまえが初めて虹村億泰と知り合ったのは、数ヶ月前の夏が終わった頃だった。
 億泰がゴミ捨て場でうんうんと唸っているところになまえが遭遇した事がきっかけだった。
 そのゴミ捨て場は、億泰の家がある区画の住人達が使う共同のゴミ捨て場で、なまえが住んでいるアパートの住人も使用していたものだった。
 この時もなまえはゴミを捨てようとしていたのだが、ゴミ捨て場の前で何故か顎に手をやり考え込んでいる人間を不思議に思い声をかけたんだった。
 その出来事が始まりだった。
 結局のところ、億泰がゴミ捨て場の前で悩んでいたのは「雑誌は燃えるゴミで出さない方が良いのか」という事で、なまえはこの時、綺麗な雑誌は資源ゴミで出せば良いんじゃないかと教えた。
 それをきっかけに、ゴミを出しに行くと偶に億泰と遭遇した。そしてそんな時にはいつもゴミの分別について聞かれ、なまえはぶっきらぼうに、ほとんど要点だけを答えるに留めていた。
 名前も、近所のアパートに住んでいる事も、大学生である事も、億泰の人懐っこさを孕んだ会話の流れで喋ってしまったが、毎度のように「なまえサン、このゴミは今日で良いんスよね?」と、陽気な雰囲気で接してくる億泰の事が、この時から苦手だったからだ。
 しかし、近所に住んでいるからだとでもいうのだろうか、なまえはゴミ捨て場でだけではなく、別の場所でも度々億泰と遭遇していた。
 例えば朝、大学へ行く時に鉢合わせたり、最寄りのコンビニへ行けば駐車場の車止めに座っていたり。なまえは億泰を見つける度に気付かれないようコソコソとすれ違うようにしていたが、それでも億泰はなまえを見つけて声をかけたし、億泰の方がなまえを先に見つければ当たり前のように親し気に声をかけてきた。
 考えてみれば最早近所に住んでいる云々は関係なく、どこにいようが見つかれば向こうから近寄ってくるのだが、なまえはそんな、陽気な雰囲気の億泰にいつまでも慣れる事がなかった。
 それどころか、声がする度、億泰がどんどんなまえに対して親し気になって行く度、なまえは腹のそこから不安のような感情が湧き上がっていた。
 やめてほしかった。自分に声をかけてくるのは。
 しかしなまえには「やめて」という一言がどうしても言えなかった。
 億泰が、素直で少し抜けている部分もあるが悪い人ではないという事は分かっていた。
 分かっていたとしても、億泰を傷付けてしまうかもしれないだとか、そういう理由から拒絶の言葉を言えないというわけではなかった。
 なまえはただ、ただ本当に億泰のような人間が自分に構ってくる事を、不安に思ってしまうだけだった。
 

 2
 学校からの帰り道、仗助は億泰と二人でカフェ・ドゥ・マゴへ寄っていた。
 そろそろ寒くなってきた季節ではあるが、仗助達はテラス席で温かいコーヒーを頼み、約ひと月後にやってくる冬季休暇への思いを馳せていた。

「今年の冬休みって十二月二十五日からなんかな? 土曜だろ、その日ってよォ」
「丁度クリスマスかあ……康一の野郎はどうせ山岸由花子と一緒だろ……クソォ、羨ましいぜ」

 ギリギリ冬季休暇に入る予定だろうクリスマスの話題が上がる。そして億泰と仗助の友人である広瀬康一が、現在付き合っている山岸由花子と一緒に過ごすんだろう事を二人は想像して項垂れた。
 男子高校生らしく「俺らも彼女欲しいよな」とどちらともなく呟いたところで、仗助はふと思い出した。数日前に会った女の事だった。
 その女は、みょうじなまえという名前だと事は億泰から聞いていたが、その顔をちゃんと見た事は無かった。
 切り揃えられてはいるものの、顔の半分を隠してしまっている前髪が邪魔をしていたからだった。
 仗助はその女——なまえを見る度に、いつも心の中で「邪魔じゃあねェのかな」と思っていたが、つい先日会った時初めて、いつも隠されているなまえの目元をその長い前髪の隙間から見た。
 もしかしたら、目の辺りに何か人に見られたくないものでもくっついているんじゃないかと、そんなおかしな想像を少しだけしていた仗助は、なまえの目元を見て「何も変な事ねェじゃあねぇか」とどこか拍子抜けしたように思った。
 しかしなまえの前髪の奥が見えたのはほんのちょっとで、それも殆ど一瞬という時間だった為、本当のところは分からなかった。
 そんな先日の出来事を思い返しながら、仗助は口を開いた。

「そういやぁ、あのなまえさん……だっけ? オメーあの人といつから知り合いだったワケよ……っつーか珍しいよな、お前がちゃんとさ、顔覚えてンの。近所に住んでるっつーだけの事じゃあなかったか?」

 仗助が初めてなまえという女を見かけた時、気さくに声をかけていた億泰は、彼女はただ近所の人なのだという事しか言わなかった。
 その時は「ふうん」と特に何の感想も抱かなかったものの、なまえを見かける度に必ずと言っていいほど声をかける億泰を見ていると、なまえにというより、億泰の事が気になった。
 億泰はいい奴だ。少々喧嘩っ早いところもあるが、機転も効くし度胸もあり、そして単純な奴だった。それは沢山のスタンド使いや吉良吉影と戦ってきた時から仗助はそう感じていたが、戦い以外となると億泰は結構アホだった。
 学校の成績も良いとは言えないし、ちょっと話したくらいの人間の顔だってすぐに忘れてしまうほど、どこか抜けているような奴。それが億泰なのだと仗助は思っていた。
 だからこそ、近所に住んでいるだけの女の事をちゃんと覚えていて、ああも構いに行く億泰の事が不思議でならなかった。
 それはただ単純に気になっただけで深い意味はないのだが、強いて言えば、いつもどこか億泰を避けようとしている雰囲気を纏っているなまえに、自身の親友である億泰がそれに気付かず迷惑をかけているんじゃあないかとほんの少し、本当にちょっぴりとだけ心配になっただけだった。
 それともうひとつ、単純になまえとの出会いだとか、どうして親しくなったのか、その過程を聞いていなかった為、それも気になった。
 話題のタネになれば良いくらいの気持ちで億泰に聞いてみただけだったのだが、億泰が返してきた言葉に仗助は目を瞬いた。

「おい仗助ェ。確かにオレは人の名前も顔もぜんっぜん覚えらんねェけどよォ。かわいいオネーサンってなら話は別モンだぜ」
「かわいい?」

 仗助は先日初めて間近で見たなまえの姿を記憶から呼び覚ました。
 自分や億泰よりも小さい身長。肩ほどの長さである髪の毛は変にいじっていないのかサラサラと風に靡いていて、身だしなみだって小綺麗にしていた。後ろから見れば小柄で可愛らしい女という印象を受けるだろうが、真正面から見るとその長すぎる前髪のせいで億泰のように「かわいい」などという言葉は出てこなかった。
 確かに前髪に隠れていない部分——小さい鼻や乾燥もしていなさそうな唇といったところだけ見れば、なまえの顔は整っているのかもしれない。しかしそんな部分的なところだけを見て、かわいいなどと億泰が言うだろうか。いいや、そんな事はない筈だと仗助は考えて、それなら億泰はなまえの長い前髪の奥を、その素顔を全て見た事があるという事だと思い至った。
 仗助が悶々と考えている横で、億泰はなまえと出会った時の話を、テーブルに肘をつき、手のひらに顎を乗せてどこか思いを馳せているように話した。
 
「なまえさんと初めて喋ったのは、オレがゴミ捨て場で"雑誌っつーのは一体ナニゴミなんだ"って思ってた時に教えてくれたんだよ」
「……へぇ」
「そっからだな。たまーにゴミ捨て場でバッタリ会うからよォ。そのたんびに分からねェ事教えて貰ってたってワケ。良い人だろ。ちこっと喋ったりもして、なまえさんが何してる人なのかってのもその時に聞いたんだけどよ、出会いってああいうのを言うんだなァってオラァ思ったね。それにその辺で会った時は顔がよく見えねェけど、ゴミ捨て場で何回か会った時はちゃんと見えてんだよなァ。前髪をこう——こうやって留めてんだぜ。可愛い顔してんのになぁ。隠してんの勿体ねェよ」
「……ふうん」

 億泰は自身の片手を額に持っていき、横に流す仕草をしてから、なまえの顔を瞼の裏で見ているように目を閉じて思い出話を語った。
 なるほどそんな事が始まりだったのかと仗助は思い、そして良い意味で単純な億泰が、なまえの事を良い人だと構う理由も理解できた。
 しかし仗助は、どうやらなまえが長い前髪を億泰の前では分けて留めているという事実だけが頭の中で反復して、そしてなんとなくズルいと思った。
 なまえからしてみればそれは偶々で、家にいるときは大抵前髪を留めていたし、ゴミ出しの為だけに髪の毛を整えたりはしなかった。その結果、億泰にはいつも化粧っけのない、隠す事もしていない顔を曝け出した状態で鉢合わせていただけだった。

「オメーがそこまで言うんならよォ。オレもちゃんと見てみたいもんだぜ」

 億泰に届いたかどうか分からない程の声量で、仗助は呟いた。
 案の定億泰は「なんか言ったかよ」と呆けていて、仗助は首を小さく横に振りながら、次にもしなまえと会う事があれば、億泰に続いて自分も声をかけてみようとこっそり企んだ。
 億泰は気付いていない様子だが、なまえは億泰の事も、仗助の事も避けたがっているようだった。もしかしたら自分達の事だけでなく、他の人間の事も同じように避けているのかもしれないが、声を掛けられた時、いつもあからさまに逃げていくなまえをどうやって引き留めようかと、仗助はすっかり温くなったコーヒーを飲みながらそればかりを考えていた。


 3
 ある土曜日の事。なまえは二ヶ月にいっぺんのペースで通っている美容院へ来ていた。
 肩に触れる程度で揃えてもらい、前髪もちょうど目が隠れる長さまで切って貰った。
 顔の半分を覆っていた前髪が短くなって、どことなく隙間風のようなものを感じたなまえは、その前髪に関して、もう少し短く切り揃えても良いのではないかという美容師の提案を頑なに断った。
 なまえは自分の顔を見られるのが嫌で前髪を伸ばしている訳ではなく、前髪を他人と自分を隔てる、一種の壁に見立てていた。
 それは無意識のうちに、いつの間にかそうしていたのだが、なまえはこの長い前髪がないと不安に感じるようになっていた。
 美容院を出た時、なまえはどっと疲れていた。
 美容師は気さくだが世間話をしてこないし、どういう髪型にしたいかという事には、基本的には反対してこなかった。
 しかし、ことなまえの前髪に関しては毎回一度か二度、必ず「今回はもう少し切ってみますか?」と聞いてくる。なまえはそれが毎回苦痛で、何度も美容院自体に行くのをやめようとした。
 だけど前髪ならともかくそれ以外を自分で切る訳にもいかず、結局、少し前まではひと月に一度訪れていた美容院には、今はふた月に一度というペースで通うようになった。
 
 なまえは人が怖かった。
 どんな人でも、笑顔の裏では何を考えているのか分からない。同級生だって、美容師だって、そして最近の悩みの種であった虹村億泰だっもそうだった。親し気に声をかけては来るが、その裏で何を考えているのか分からないと思うと、なまえはどうしても不安になった。
 人が何を考えているか分からないというのは誰しもそうであるが、なまえはそこらの人達が気にも留めないような人間の裏側というものをいつも考えてしまっていて、その度に、泥沼に足を取られる感覚に陥ってしまっていた。
 なまえが人を怖いと思うその感覚の根本には、人を信用できないといった感情があった。
 だからといってなまえ自身は、誰とも関わりたくないと、そんな風に思っている訳ではなかった。
 信用できるかどうかだとか、何を考えているのかだとか、そんな探り探りの友人関係ではなく、ただ楽しいから、ただ好きだから一緒にいて馬鹿をやるような友人関係を今でも築けたらと常々思っていた。
 しかしどうにも、他から見れば"普通"の事が、今のなまえには難しかった。
 つい三年程前までは、普通の女の子で、普通に友人もいて、好きな人もいて。男女問わずみんなで学校終わりに遊んだりもしていたようななまえは、本当に普通の、どこにでもいる女子高生だった。
 しかしそれは高校を卒業する少し前までの事で、なまえの"普通"は、そこで終わっていた。

 なまえが美容院のあと足を運んだのは図書館だった。
 美容院へ行った日はどことなく疲弊しているので、なまえは本の匂いに包まれた図書館へ時おり立ち寄る事があり、興味が有る無いに関わらず適当な本を借りてその場で読んでいた。
 無機物である本には人間のように裏表が無いし、小難しい文字の羅列を見ていると、なんとなく気分が安らぐからだった。
 この日もなまえは、無作為に分厚い本を選び取り、その本が収まっていた棚へ背中を預ける。立ったままでよく分かりもしない内容に目を走らせていると、ふとなまえの体に影が落ちた。

「失礼。その本を見たいのだが、借りてもいいか。——いや、ほんのちょっぴり……数分借りられればそれで良いんだ。頼めないだろうか」

 唐突に声を掛けられて、なまえは肩を強張らせた。
 こういった事態にならないよう、なまえはいつも「誰が読むんだろう」といった本を意識的に選んで見ていた。この時も、一体どこのどんな人が読むのだろうと"海洋生物学研究論文集"という如何にも小難しい本を選んだというのに、目の前にいる大柄の男はなまえの手元にあるその本を必要としている様子だった。
 選ぶ本を間違えたとなまえは思う。同時に、まともに読んでいない本を貸し渋る事はないので、「どうぞ」と言いながらなまえよりもだいぶ大きな手の上へ、そっとその本を乗せた。

「助かる。少しの間待っていてくれ」
「……あ、いいえ。私もう大丈夫、なので」

 この場で早速目的だろうページを開きながら、男はなまえに言った。
 しかし、なまえは彼を待つ理由もないので早々に立ち去ろうとするのだが、その時、ふとなまえにとって「誰が読むんだろう」という印象であった"海洋生物学研究論文集"を真剣に読む男の事が少しだけ気になった。
 なまえは立ち去るのをやめ、本棚に目を向ける振りをしながらこっそりと男の方を伺った。
 瞳は青く、全身を白いコートで覆っている。襟元には沢山の装飾がくっついている。変わった記号のようなものや、それから海を生きる生物がモチーフになったような物だった。
 身長はかなり高く、あの億泰の友人であるリーゼントの彼よりも大きいだろうと思った。それでいて体格もしっかりしている。女性の平均的な身長と体つきをしているなまえには威圧感さえ感じるほどだった。
 
「海には——」

 なまえがこっそり観察していると、ふと男が口を開いた。
 反射的に男の方を見れば、パチリと目が合う。それが合図かのように、男は一度区切った言葉の続きを淡々と話しだした。

「——様々な生物がいるが、わたしはヒトデの生体に関して調べていてね。同じ棘皮動物のウニだとかナマコだとかも調べている。この本にそれらの論文があると聞いて来た訳だが……ああ、棘皮動物というのは——」

 なまえにはキョクヒ動物というものがよく分からず困惑していると、それに気付いた男は本棚から分厚い図鑑のような本を取り出し、まるでいつもソレを見ているように、滑らかな動作で目的のページを開いてみせた。
 海水の水圧で体を動かす動物、などと書いてあるそのページには大きくヒトデのイラストが載っていて、男は細かく、ページのあらゆる箇所を指差しながらなまえに説明をしていった。
 なぜこんな状況になっているのかなまえは混乱しながら、しかしどうにも男を拒絶する事ができずただじっと彼の説明を聞いていた。
 時折、相槌にもならないような声を発し、こんな事でもなければじっくり見る事もなかっただろう沢山のヒトデの写真を、男が差す指に沿って見ていった。
 そうしている内に、なまえはじわじわと「楽しい」という感情が湧き上がるのを感じた。
 居心地がいいというか。ヒトデに特別興味が湧いたという訳では全く無いのだが、男の、低い声で淡々となされる解説を聞くのはなまえにとって苦になるものではなかった。
 それが何故なのかはなまえ自身分からなかったが、とにかくいつも他人に感じていた不安感が、どことなく瞳を輝かせながら海の生物について語る男に対しては、全然湧いてこなかった。
 気付けばなまえは、まるで生徒が信頼の置いている教師にするように、気になった事を質問していた。
 それに男は嫌な顔ひとつせず答えていく。
 こんなふうに殆ど知りもしない人と自然に会話したのは、なまえは久しぶりだった。
 

 4
 ある日、東方仗助は奇妙な光景を見た。
 友人である億泰の家の近所に住んでいるという女——みょうじなまえが、一人の男とどこか親しげな雰囲気を携えて歩いている光景だった。

「……どういうこった?」
 
 仗助は訝しげに顔を歪めながら、向かいから歩いてくる二人に思わずサッと建物の間へ移動した。
 身を隠すようにしてしまったのは、女の方も、そして男の方も知っている顔だったからだった。
 
 男は空条承太郎という、仗助にとっては身内であり、少し前には一緒になって吉良吉影を倒すために戦った男だった。
 承太郎は仗助も認めるほど男前であるし強い人なのだが、無口で会話も全く続かないし、黄色い声をキャーキャーと上げる女に容赦なく厳しい言葉を放つような、端的に言えば体格の大きさも相まって非常に近寄り難く何を考えているか分からない男であった。
 そんな承太郎が、男の自分から見てもドキッとしてしまうような穏やかな表情でなまえと歩いている。なまえの方にいたっては仗助や億泰と遭遇した時のような無愛想さなんて全く無く、口元に笑みまでをも浮かべながら承太郎へ何かを話しかけていた。
 
 仗助は何がなんだか訳が分からず、その場へしゃがみ込んだ。
 奇妙だ、と顎に手をやり唸るが、同時に仗助は何故か胸の内がもやもやとしたものに覆われていくのを感じて、その事に眉を顰めてまた唸った。
 そうしていると、低い声が仗助の頭上で響いた。「何をやってんだ」と、そう言ったのは先程まで仗助が建物の陰からこっそり伺っていた承太郎だった。

「うわああ! じ、承太郎さん! なん、いや、き、奇遇ッスねェ!」
「……奇遇なのか。さっきからそこでこそこそ見てたじゃあねェか」
「な、いやいやいや! 声掛けようと思ったんですって! だけどよォ、承太郎さんがその……女の子といるもんだからよォ」

 仗助は突然現れた承太郎に慌てふためきながら、言い訳を並べていくが、承太郎は仗助が建物に素早く隠れる前から存在に気付いていたし、こちらを見ている事にも気付いていた。しかしただ伺っているだけで声も掛けて来ない仗助に、何か妙な事を考えているのでは無いかと思い通り過ぎた道を戻ってきたのだと、そう言った。
 承太郎の後ろには口元を真一文字に閉じたなまえも立っていた。
 仗助はそんななまえをちらちらと見る。するとなまえが突然「私、帰ります」と承太郎へ告げた。
 仗助がいつも見る、前髪に目元を隠した表情の分からないなまえだった。
 
「そうか」
「……はい。また会った時はお話聞かせてください」
「ああ」
 
 二人のやりとりは短いものだった。
 そうしてなまえがこの場を去って行こうと背を向けた瞬間、仗助は「あっ」と声をあげた。
 なまえはそれに少しだけ肩を跳ね上げたが、そのまま足早に去っていく。承太郎と二人きりになったところでしゃがみ込んでいた仗助は漸く立ち上がった。

「承太郎さん、あの人、あー……なまえさんっスよね」
「なんだ仗助、彼女を知ってたのか」
「まあ」
 
 前回なまえと会った時よりは短くなっていたが、目元が隠れる程に長い前髪をしている女を、仗助は一人しか知らなかった。
 承太郎に確認してみると、やはりあれはなまえだった。
 そして、あからさまに逃げて行ったなまえを引き留める事ができなかったと仗助は内心で項垂れる。同時に、目の前に立っている承太郎へは明らかに心を開いている様子だったのを思い返すと、不満が募った。

「……」
 
 仗助は顔を顰めた。何故不満に思う事があるのか、それが自分でも分からなかった。
 まるで他の人間だけが知っている秘密を、自分だけ知らず除け者にされているような感覚が湧いて、それでいてその秘密の中心にいるなまえに対して"おもしろくない"という気持ちさえ湧いた。
 ハッとして、いやいやと首を振る。

「どうした、仗助」
「……いや、別に。なんでもねェっス」

 まるで駄々を捏ねる子供のような感情だった。
 億泰には顔を見せていて、承太郎には親しく話すほど心を開いているなまえに、どうして自分だけにはいつも逃げ出すのか分からず、寂しいような、腹立たしいような、そんなふうに仗助は思った。
 実際には、なまえは承太郎にこそ"普通"に接しているが、億泰にはゴミ捨て場で遭遇した時も、それ以外の場所でも無愛想に接していたし、逃げ出す素振りも見せていた。
 それに"仗助にだけ"ではなかった。
 なまえは仗助以外の他人と会った時も同じように、逃げ出す事もままあったのだが、仗助はそれを知らなかった。
 今の仗助の中では、なまえという人間は億泰と承太郎、そして仗助の、たった三人という狭い世界の中でしか比べようのない人間だった。
 苛立ちにも似た感情を仗助はどうすればいいのか分からず、唇を尖らせた。
 承太郎と別れ、家に帰っても思い出すのは少し上がったなまえの口元で、それを考えないようにベッドの中で頭を抱えて叫んだ。
 仗助の母が「うるさい!」とリビングから言った声が聞こえた。