第一章
0
イタリアへはなまえが中学に上がる前に両親の都合で移住した。
友達と別れるのは辛かったが、それでもイタリア人であった父の「美しい国だよ」という言葉をいつも聞いていたなまえは未知の国に心を躍らせていたし、イタリア語も父のおかげである程度話せていたのもあり、移住はスムーズだった。
なまえは特別明るい子では無かったが、それでも周りの子たちから孤立する事もなく、新しい学校でも楽しくやっていた。
時折、日本人だというだけで揶揄われる事もあったが、なまえはあまり気にしなかった。
過度に反応しなければ相手もすぐに飽きるという事を幼いながらに感じていて、それを実行していたからだった。
なまえには良い意味で強かさがあった。
そんな学生時代もあっという間に過ぎ、イタリアでの義務教育期間も終わってから、なまえはミラノのトラッテリアで働いていた。
この頃から両親は揃って日本へ帰る事が決まっていたが、なまえはイタリアへ残る意思を示しており、その為に働く事を選んだ。
学校での生活と同じように、職場でもしがらみもなく馴染み楽しそうにしている様子を見て、両親は少々の心配を滲ませつつもなまえを一人イタリアへ残し日本へ帰っていった。
なまえが十八歳になり、成人した頃だった。
それから数年経ち、なまえが二十三になったある日。もうすぐ冬が来るぞと知らせるような、薄ら寒い風が吹いている夜、仕事終わりに職場の従業員たち数人とバールへ寄った日の事だった。
美味しいお酒を飲んで、気分良くタクシーを使って自宅であるアパートまで帰ったなまえは、二階にある部屋までの外階段を登ろとした。
「え……」
なまえは思わず声をもらす。
外はもう暗く、階段も、近くの道路にある街灯の光が薄っすらと照らしている程度で薄暗い。そんな中、階段の真ん中あたりに座りこんでいる人間と遭遇したからだった。
階段に身を預けて、座っているというよりは仰向けに寝ているような体勢を取っているその人は、暗い中でも光を失わないような金色の髪の毛をしていた。
目を閉じて、どことなく荒い息を抑えるように深く息をしているようで、なまえは内心びくびくしながらもその人に近づいた。というか、その人が寝ている階段を登らないと自分の部屋に辿り着けないというのもあったが、近づけば近づくほどその人の呼吸が荒い事が明確に分かって、なまえは立ち止まった。
声をかけるべきなのか、放っておくべきなのか。薄暗いのと片方の腕が目元に乗せられている為、顔色の良し悪しは分からないが、呼吸は明らかに悪い方のものだった。
もう少しだけ静かに近づいて見てみればその人はどうやら男性のようで、細くもしっかりとした体はゆったりと、それでいて深い呼吸に合わせて胸元を中心に上下していた。
暫しの間男性の様子を見たあと、なまえはようやく声を掛ける事に決めた。
大丈夫なのかを確認して、その後は様子を見てどういう対応をするか考えようと、そろりと口を開こうとした。
その時だった。
「……見せものじゃあ……ないんですが」
深い呼吸の間から声がして、隠されていたエメラルドの瞳がなまえを見た。
1
イタリアで最大のギャング組織、パッショーネのボスにジョルノ・ジョバァーナが就いてから、二年余りが過ぎた頃。
この日、ジョルノがミラノへ足を運んだのは、翌日にイタリア北部、ミラノに拠点を構えているとあるギャング組織のボスと会い"話し合い"をする事になっていたからだった。
目的はパッショーネの傘下に下ってもらう事である。
ジョルノ達の元に戻り新生パッショーネに忠誠を誓ったパンナコッタ・フーゴには、話し合いなど面倒な事をしなくともパッショーネの力を示威すれば簡単に下るだろうと言われていたが、ジョルノは自身の組織は勿論のこと、他所の組織の事も力で服従させるような事はしないと考えていた。なるべく、ではあったが。
特にミラノの組織は、義賊にも近い体制を取っていると聞いていた。
かつてネアポリスの住人達がブチャラティを慕い親しみをもっていたように、その組織の支配圏にあるミラノの街の住人達は何か問題があれば組織を頼る事の方が多いのだという事は先の調査で分かっていた。
そういう組織だと分かっていたから、ジョルノはハナから力でもって支配するのではなく、一度話し合いの場を設けてみても良いのではないかと考えた。そうしてボスであるジョルノ自ら出向いたのだった。
しかし、ジョルノはほとほと疲れていた。
ボスの椅子に座ってからの約二年、駆け足どころか全ての物事に全力疾走で、精神的なところからくる体の不調をミラノに降り立つ数日前から感じていたのは確かだった。
体の節々が痛み、四六時中頭痛がする。空気が冷えつつある季節なのも重なっているのか、背骨が凍っているように寒気も酷く、それなのに熱さも感じるといった、ちぐはぐな感覚がジョルノの体を襲っていた。
「ハァ……」
上着のポケットに手を入れながらミラノの街を歩くジョルノは思わずため息を吐いた。
陽もとうに暮れた頃、ミラノのリナーテ空港へ到着していたジョルノは、手配していたホテルまでの道のりを鬱々と気分で歩いていた。
タクシーを使えば良かったのだが、リナーテ空港のタクシー乗り場は地元ネアポリス空港を彷彿とさせるように混雑しており、ジョルノはホテルの方面へ向かいつつ、国道沿いで適当にタクシーを拾う選択をした。
しかしなかなかタクシーが通らず、ゆうに三十分は歩き続けている。頬を掠める冷たい風は心地良いが、コートを着ているにも関わらず背中には寒気が常に走っていた。
これはいよいよかと、ジョルノは思う。
ここまで来て明日の会合を欠席するなどという事は微塵も考えてはいないが、ミスタにだけでも不調を伝えておいた方がいいのではないかと考えた。今からでも、伝えておくだけでも。しかし、ジョルノは瞬時に首を振った。
伝えたところで何になるというのだろう。ミスタは医者ではないし、親でもない。ジョルノのよりも歳上で気の良い兄貴のような男ではあるものの、彼はジョルノの部下である。部下にこのような、失態にも似た現状を吐露するのはジョルノの意に反していた。
それに、リナーテ空港まで同行していたミスタには、明日に例の組織と会う予定となっているリストランテを事前に調べるよう指示しており、そしてその後ミスタは、リストランテ周辺を見回ってからミラノの洒落ついたバールにでも行くと言っていた。
その言葉にジョルノは「飲み過ぎないでくださいよ」と釘を刺していた。飲み過ぎのせいで、会合へ不調のまま出席されては困るからだ。
そんな事を言った自分が、今さら不調で倒れそうだなんて言える筈がなかったし、今頃ミスタはジョルノの為にリストランテを調査しているか、それを既に終えて良さそうなバールを見つけているか、どちらにしても一人の悠々とした時間を過ごしている事は間違いないだろう。ミスタだってジョルノと同じように殆ど休む事なく働いていたのだ。仕事ついでだとは言っても、嬉々として空港から夜の街に消えて行った彼の背中を思い出すと、ジョルノは水を差すような真似をしたくなかった。
しかしながら、ジョルノは限界を感じていた。
ホテルがある市街地まではまだ距離があるのに、タクシーはいまだに捕まらなかった。
眩暈と、呼吸が深く荒くなっていくのを感じて、とうとうジョルノは大通りから少し逸れた場所に入り、薄明かりの中に見つけた階段へ座り込んだ。
2
なまえは困惑していた。
自宅のアパートへ帰ってきたところに、明らかに体の調子の悪そうな男が座り込んでいて、様子を伺ってみれば「見せものじゃあない」と言われたからだった。
なんと返せばいいのかなまえがまごついていると、男はチラリと見せたエメラルド色の瞳をまた閉じて、自分の体を抱きしめるようにしてからそっぽを向いた。
放っておいてくれという意思表示をされている事は理解できたが、それでもなまえは男が気になった。男の様子を見る限り風邪を引いているんだろう事は明らかだったからだ。
季節はもうすぐ冬を迎えるといったところであるし、このままここに放っておいて朝にはもっと酷くなっていたとか、最悪の場合死んでましただとか、そんな事になってしまえば後味が悪い。
「……ちょっと、失礼しますよ」
なまえは徐に手を伸ばし、先ほどまでは彼の腕が乗っていた額へ手のひらを乗せる。男の肩がピクリと少しだけ跳ねたような気がしたが、既にとやかく言う気力も無いのか、額と、頬と、それから少しだけ見えている首筋に手のひらを滑らせ体温を測るなまえに男はされるがままだった。
「あ、あなた、熱があると思うんですけど……ものすっごい熱いんですけど」
「……はあ。まあ、だから少し……休んでいるんですが」
「いや、休むとかそういう次元じゃない気がします……とにかく今からでも病院に行く……のは無理そう……あ、救急車呼びますから!」
あまりの熱さにパッと手を離したなまえは、顔色の悪さに比例して弱々しく言い返してくる男に呆れつつも、動けなさそうな事を察して救急車を呼ぼうとした。
しかし、携帯電話を取り出そうとしたところで「やめてくれ」と男がなまえの手を掴んだ。
「これは"お願い"じゃあないんだ。……もういいから、ボクに……構わないでくれ」
なまえは無意識に自分の眉間に力が入るのを感じた。
何か事情があるのか知らないが、どう見てもこんな野晒しの場所で座り込んでいて良い状態ではない筈なのに、男は威圧感さえ含んだ物言いでなまえを圧倒した。
しかしなまえの手を掴んだ男の手は異常に熱く、やはりこのまま引き下がる訳にもいかないんじゃないかと、なまえはどうするべきかを考えた。
男はきっと、なまえが何を言ってもこの場を動こうとはしないだろうし、何がなんでも病院にはかかりたくないように感じた。
それなら多少強引ではあるがこっそり救急車を呼んでしまうかとも考えるが、そうなれば男は救急車が来た途端どこかに逃げ出してしまいそうだ。そういう雰囲気が男にはあった。
それはそれで、今いる階段から退けてくれるのならばなまえにはもう関係のない事として話は済むのだが、それが他人だったとしても死にそうな顔をしている人間に対してなまえはそこまで非情になれなかった。
「……それじゃあ、薬飲んでください。解熱剤しかなかったと思うけど……持ってきますから」
それだけ言うと、なまえは男が転がっているできるだけ端っこを跨いで階段を上がる。構うなと言ったばかりにも関わらず薬を持ってくると言ったなまえに対して男がどんな顔をしているかはどうでもよく、なまえは返事も聞かずにそのまま自分の部屋へ入った。
数分して、なまえは解熱剤と温めた水を男の元へ運んだのだが、結局、その場でそれらを飲ませる事は叶わなかった。
男が先程よりも呼吸を荒くして、額に汗を滲ませながら苦しそうに唸っていたからだ。
「えっ、ちょっと、大丈夫ですか!?」
「っ、う……は、っ寒い……」
「あーもう! だから言ったじゃないですか! やっぱり救急車呼びますから!」
男の様子を見て、絶対に病院へ行くべきと判断したなまえは、つい先程と同じように携帯を取り出す。流石の男も今の自分の状況であれば大人しく言う事を聞くだろうと思ったのだが、またしても、男は拒否の言葉を呟いた。
やめろと言う声は荒い呼吸の中に今にも覆われてしまいそうな程小さく、なまえを見る瞳はどことなく潤んでいるように見えて、先程まで男から感じていた威圧感のようなものは形を潜めていた。
仕方がない。なまえはそう思い、男の腕を掴んだ。
「立てますか。というか立ってください。肩貸しますから。私の部屋に行きましょう。暖かくしないと。風邪なめてたら死にますよ」
「う、はあ……っ」
「ほら、すぐそこの部屋ですから」
片腕を肩に回し、なまえは力を振り絞って男を立たせる。触れた手の温度は高く、そのふらついている体をなんとか支えながら階段を登った。
男は抵抗する気配も無く、なまえにされるがままだった。
ぼんやりとしている男に玄関で靴を脱ぐように指示すれば、おぼつかない動作でそれを脱ぎ捨てる。なまえも勿論同じように靴を脱いでから、自分よりも背が高く、体つきもしっかりしている男の重たい体をなんとか寝室まで連れて行った。
男をベッドへ転がし、なまえはハア、とひとつ息を漏らした。
風邪を引いている人間の看病はどうすればいいのかを考え、ひとまず男が着たままのコートを脱がせる。コートの下から出てきた高そうなブラックのスーツジャケットと、シャツも脱がせてから、汗で濡れていた体を拭くようにとタオルを差し出す。それと適当に長袖のTシャツを渡しておいた。押し付けたと言った方が正しいかもしれない。
サイズが少し小さいかもしれないが、まあいいだろうと思いながら、なまえは外階段へ置きっぱなしにしていた水の入ったマグカップを取りに行った。
そうして、なまえは寝室へ戻り、既に着替え終わった男へ新しく用意した解熱剤を飲ませた。
相当に辛いからなのかは分からないが、抵抗もされず大人しく言うことを聞いてくれて良かったとなまえは内心ホッと息をついた。
「薬も飲んだし、暖かくして寝ていれば多少は良くなると思います。今は熱いだとか寒いだとか、あります?」
「……いえ」
「本当に?」
「少し……寒い、です」
「最初からそういえばそう言えば良いのに。あなた、なかなか頑固ですね」
布団に入った"頑固"な男へ、なまえはクローゼットから出した毛布を追加で掛けてやった。
これだけ布団に包まれていれば寒さも和らぐだろうと思いつつ、なまえは男のコートやらスーツやらをハンガーにかけつつ、男が眠るベッドを振り返った。
「じゃあ、コートはここに掛けてるし、汗かいて着替えたくなったら替えのTシャツもそっちにあるので、それ使ってください。大人しく寝て、良くなったら適当に帰ってくれればいいので」
それだけ言って、男が小さく頷いたのを見てからなまえは寝室を出て行った。
知らない男を家にあげるなんてとんでもない事だが、なまえはこれまでの人生で犯罪に巻き込まれた事が無かったため、警戒心の足りない行いをやってしまってもあまり心配もしなかった。
男は弱っているし、まあ大丈夫だろうとなまえは呑気に考え、そうして自分もシャワーを浴び、この日はテレビなんかも見ずに早々にソファで寝入ったのだ。
それから深夜、なまえは少々の肌寒さを感じて目を覚ました。
自分がソファで眠っている事をぼんやりした頭で改めて考えてみれば、高熱に魘された男を連れ込んだのだと思い出した。
時計を見れば午前四時を差していた。
昨夜仕事終わりにバールへ寄ってから帰宅した事や、男とすったもんだあって、結局寝入ったのは日付けを跨いだ頃だった事を鑑みれば、眠っていたのはせいぜい二、三時間程だと、まだまだ上手く上がらない瞼を擦った。
キッチンへ行き、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出してグラスへそそぐ。それを飲みつつリビングの端にある寝室への扉を見て、なまえは男の様子を見ておこうと空になったグラスをシンクへ置いた。
先に玄関を見てみれば、男の靴が置いてあった。
流石にまだ出て行ってはいないようで、なまえはその足で寝室の前まで行き、大きな音を立てないようにそっと扉を開けようとした。
その時、寝室の中から微かに布ずれの音と、呻き声のようなものが聞こえてきて、なまえは無意識に眉を顰めながら扉を開け中を覗いた。
「だ、大丈夫ですか……」
聞こえてきた音と声の正体は、言わずもがな連れ込んだ男のもので、どうやら眠っていながら魘されているようだった。
なまえは人が魘されている様子を見るのは初めてで、恐る恐るベッドへ近づけば、男は瞳を閉じたまま半分程布団を剥いで苦しそうに唸っていた。
「う、う……うあ、ハァ」
「お、落ち着いて、って寝てるのか……どうしよう」
夢見が悪いのか、それとも高熱のせいなのか、そのどちらともなのか。
分からないが、剥がされた布団から出ている男の体を見てみれば汗でびっしょり濡れているようで、額や首の辺りも、ベッド横にある窓の、少しだけ開いたカーテンの隙間から射す月明かりに照らされて反射していた。
それを見て、なまえはバスルームに行き濡らして固く絞ったタオルを用意してから、男の汗で濡れた箇所を拭いていく。本当は起こしてTシャツだって着替えてもらったほうが良いのかもしれないが、それはやめておいた。
魘されていたとしてもこんな朝方に起こしてしまうのはどうなんだろうと考えた結果だった。
ひんやりとしたタオルで拭っていくと、いつの間にか苦しそうに唸っていた男が大人しくなった。
額に手をやってみればまだ少し熱いような気もするが、それでも随分とマシになっていた。
なまえはもう一度バスルームへ行き、濡らしたタオルを持って寝室へ戻る。それを使って男の首筋を再度拭ってから、小さく折りたたんで独特なカールをしている男の前髪を避けた額へ置いた。
「……い、かない……でくれ」
「ん?」
ふと、男が呟いて、なまえは彼が目を覚ましたのかと顔を見たが、そうではなく、どうやら寝言を呟いたようだった。
なまえの耳には「いかないでくれ」と聞こえたが、当然、男はなまえにそう言った訳ではない。なまえ自身もそれは分かっていて、夢の中にいる人物に言っているんだろうとは思うものの、なまえは男の眠るベッドサイドに座り込み、そのまま暫く様子を見る事にした。
単純に、どうにも辛そうな顔を見ていると離れる事ができなかったからだった。
布団を掛け直して、一度額に乗せたタオルを取り払う。男のこめかみに汗でくっついている金色の髪の毛を避けてから、タオルを違う面に折り直してまた乗せた。
「う、……ん」
「熱下がってきてますよ、大丈夫大丈夫」
男から漏れた声に、なまえは声を落としつつ独り言のような返事を返す。
なまえは自分が小さい頃、風邪を引いた時に母が寝ているなまえに寄り添い、「大丈夫大丈夫」と言って胸の辺りをとんとんと叩いてくれていたのを覚えていた。
魘されている中でもその声は聞こえていて、それだけでとても安心した経験があったからこそ、無意識に自分も母と同じような行動に出ていた。
相手は子供ではないのだが、それでもなまえは、子供を寝かしつける時のように男の肩辺りを音が立たない程の強さでぽんぽんと叩きながら「朝には良くなってますよ」「大丈夫ですよ」などと呟いていた。
だんだんと、自分が刻む手のひらのリズムに眠気が襲ってきたなまえは、手の動きをそのままに、ベッドの側に座り込んだまま、頭だけをベッドに突っ伏する形に落ち着かせて瞼を閉じた。
こんな寝方をしてしまっては体が痛くなるだろうが、なまえはもう動けそうになかった。
苦しそうな声が漏れていた男からは、いつの間にかすうすうと穏やかな寝息が聞こえるようになっていて、なまえはそれを聴きながら、そのまま眠ってしまった。
3
少し早めの夕食時。茜色の空がすっかり藍色に変化した頃。
ミラノの街の一角にあるリストランテ。その店内にあるひとつの個室の中で、数人の取り巻きに囲まれたミラノギャングのボスは、ドン・パッショーネの手を取り、忠誠を誓うためその甲にキスをした。
例の"話し合い"は上手く行った。
これでミラノを中心にイタリア北部を牛耳っていたギャングもパッショーネの傘下に入る事となり、ここ最近では一番大きな仕事だと言っても過言ではなかったこの会合が上手く行った事でジョルノは内心胸を撫で下ろした。
「話の分かる奴らで良かったよなァ」
会合場所であったリストランテからホテルまでの移動中、タクシーの中でミスタが口を開いた。
タクシーとはいっても運転手の裏の顔はパッショーネの構成員で、ミスタはこの人物の事もよく知っていた。そういう訳もあってか、ミスタ、ジョルノ共に声を潜める事もなく話を続ける。
「……ええ。無駄な争いにもならずに済みましたしね。思っていたよりすんなりと事が運びました」
「……けどまあ、暫くは様子見……か?」
「そのつもりです。フーゴに連絡して北部に散らばっているパッショーネの構成員たちに指示を出してもらってください。謀反の動きが無いか、暫くの間見張っているように」
「はいよ、ボス」
上手く事が運んだからと言ってハナから信用する気は無かったジョルノは、ミスタに指示を出しながら、それでもあのギャングたちは問題無いだろうと思っていた。
ギャングだというのに変な話だが、彼らは街に寄り添っているように感じたからだ。
ジョルノ率いるパッショーネが目指したいと思っている"街を守るギャング"という意向と彼らのソレは重なっていた。
しかしボスの思想はそうであったとしても、末端の構成員たちはそうは思っていない輩もいるかもしれない。ジョルノはそういう奴らが出てこないかを懸念して、念の為見張る指示をだしたのだ。
「そういやあ、なんでホテル戻るんだよ。直帰っつー予定じゃあなかったか? チェックアウトはもう済んだはずだろ?」
「フロントに頼んでおいた物があるので——ミスタ、ここまで同行してもらって悪いんですが、あなたは先にネアポリスへ帰っていてください。ボクは少々用事があるので」
「は? ——って、おい! ジョルノ!」
ホテルに到着し、ジョルノは一人だけでタクシーを降りた。
運転手にミスタを空港まで送るように指示し、見送った後にホテルへ戻ったジョルノはフロントから荷物を受け取る。昨夜、"助けてくれた"女性から借りたままのTシャツを、ホテルに洗ってもらうよう頼んでいたものだった。
「ジョバァーナさん、こちらお預かりしていたものです」
「すみません、無理を言って。借り物だったので助かりました」
「とんでもないです。またミラノへいらした時には当ホテルをご贔屓に」
「ふふ。グラッツェ。そうさせてもらいます」
フロントで受け取った何の変哲もないTシャツは新品のように折り畳まれ、丁度良い大きさの紙袋に入れられている。流石の仕事ぶりであるそれを持ち、ジョルノはホテルを出て行った。
これからジョルノが向かうのは、Tシャツの持ち主である女性の家だった。
ジョルノなら自身のスタンドであるゴールド・エクスペリエンスの能力でTシャツを生物に変え、持ち主のところへ帰るようにできるのだが、それはしたくなかった。
きちんと自分自身で直接お礼を言いたいと思ったし、するべきだとジョルノは考えていた。
それに、体の調子が良くなったら勝手に出て行ってくれたらいいと言われてはいたものの、やはり何も告げずに出て行ってしまった事にはどこか腑に落ちないような気持ちであったし、結局貸して貰っていたTシャツをそのまま着て出てきた事も、きちんと返して謝りたかった。
何より、ジョルノは単純にもう一度会いたいと思ったのだ。
あの女性の家の場所は覚えていた。
存外ホテルから近く、ジョルノはすっかり暗くなった夜道を歩いて移動する。途中、手ぶらではいけないと箱入りのトリュフチョコレートを買って、昨夜自分が座り込んでいたあの階段までやってきた。
薄明かりしかない外階段を二階まで登り、覚えている部屋のインターホンを鳴らしたのだが、待てど暮らせど反応は無かった。
「……まあ、そうか。いない事もあるか」
確か昨夜もあの女性がここへ帰ってきたのはかなり遅い時間だったように思う。
仕事帰りだったのか、少し出て行って帰ってきたタイミングだったのかは分からないが、女性の様子を思い出せば仕事が終わって帰宅したという方が腑に落ちた。
という事は、今も仕事をしているんじゃないだろうか。いつも昨夜と同じくらい遅いのだろうか。分からないが、留守ならば待つつもりでいたジョルノは、昨夜と同じように階段に座って携帯を取り出した。
ここへ来るまでに何度かコートのポケットの中で鳴っていたのを無視していたからだ。
着信履歴を見れば案の定何件か電話がかかってきている。発信者は一度だけミスタと、あとは全てフーゴだった。
怒っているだろうか。そう思いながらジョルノは電話を折り返す。
「フーゴ」
「……ジョジョ。一体何がどうなっているんですか。今はどこにいるんです」
「まあそう怒らないでくださいよ」
ミスタからことの顛末を聞いていたんだろうフーゴは、電話に出るなりジョルノの居所を聞く。本来なら今頃はネアポリスへ向かうフライト中である筈だった。
それなのに、予定していた飛行機にはミスタのみが乗ると、フーゴはそう連絡を貰ったらしい。
一体何をしているんだとフーゴが怒りを抑えるように言った。
「実は、昨夜助けていただいたんです。ミラノに住むある女性に。彼女にお礼を言いたくて」
「……は? 何を言ってるのか分からないんですが。助けてもらったって、なにがあったんだ」
「話すと長くなるので、戻ったら説明させてください。とにかく明日には戻りますから。勝手を言ってすみません」
素直に謝れば、フーゴは電話越しに長いため息を吐き、それから数秒の沈黙のあと、一度だけジョルノの名前を呼んだ。何かを言いたげな雰囲気だったが、フーゴは結局「なんでもありません。ボスが無事ならそれで良い」とだけ言い、切り替えたように仕事の話を少しだけしてから電話を切った。
そんな時だった。
待っていた人物が、階段の下からジョルノを見上げていた。
4
仕事が終わり、昨日とは違ってバールへは寄らず一人で真っ直ぐ家に帰ったなまえは、自宅アパートの外階段を見上げた瞬間、脳みそが過去に戻ったように錯覚した。
「——え」
今朝の事だ。
なまえは誰もいないベッドに突っ伏したままで目を覚ました。
夜に自宅へ上げベッドへ寝かせた男はいつの間にかいなくなっており、なまえの体には毛布がかけられていた。
彼は調子を取り戻し、出て行ったんだろう。なまえはそう思いながら欠伸を噛み締めリビングへ行くと、テーブルの上に小さい紙を見つけた。
そこには"グラッツェ"という短い感謝の言葉が書いてあった。
「——ジョルノ・ジョバァーナ、さん?」
そしてその紙には男のものだろうサインが書いてあり、その彼が今、昨夜と同じように階段に座っていた。
「ボナセーラ、シニョーラ。メモ、読んでくれたんですね」
なまえが瞬いていると、ジョルノは昨夜とは違って自ら立ち上がり、ゆったりとした動作で階段を降りてきた。
薄明かりに彼の金色の髪が照らされるたび、きらきらと光を散らばせている。それに視線を取られていると、ふとジョルノに手を取られた。
あ、と思った時には二つの紙袋を握らされていて、なまえは首を傾げた。
「昨夜はどうもありがとうございました。本当に。あなたのおかげで仕事も上手くいきました。それから、すみません、あなたに貸してもらったTシャツをそのまま着て出て行ってしまったので、お返しします。そっちの袋はボクからのお詫びとお礼ですので、受け取ってください」
「え、——え!? これ、結構良い値段するチョコレート……ですよね? いや、ええー……」
手で示され、それがまるで「見てみて」と言っているように感じたなまえは、お礼とお詫びの品だと表された少し小さめの紙袋を薄明かりに照らしてみた。
そこにあったのは、自分ではよっぽどの事がなければ買わないような、というか買った事のないものだったが、なまえでも知っているブランドの物だった。
昨夜にただ薬を飲ませただけの人が、まさかこうして翌日にお礼をしにくるなんて思ってもみなかったなまえは「大した事してないのに」と呟く。しかし返すのも忍びないし、チョコレートは好きなので有り難く受け取りはするのだが。
次にTシャツが入っているという紙袋の中をチラリと覗いてみれば、ただの部屋着だったソレが新品の様に折り畳まれ、まるでディスプレイされたままの状態でそこに入っているようだった。
「Tシャツもそのまま処分でも良かったのに、なんかすみません……気を使わせてしまって」
なまえがジョルノを家に上げたのは突発的にやった事だった。
見返りを求めるだとか求めないだとかすら考えていなかった分、ここまで律儀にお礼をされるとなまえはなんだか気まずいと思ってしまう。すると男が何故か「ふふ」と笑った。
なまえは訝しげに男を見る。
「いえ、すみません。あなたが謝る事なんてないのに。でも、なんとなくですがそんな風に言うんだろうなって思っていたので、おかしくって」
本当に、昨夜会った人間と同一人物かと疑うほど、ジョルノは丁寧で柔らかい雰囲気にさま変わりしている。
「はあ、そう、なんですか。——いやでも、ありがとうございます。それよりもう体調は大丈夫なんですか?」
なまえにとって、一番気になったのはそこだった。
この男は昨夜、あれだけ魘されていたのだ。本来なら今この時でさえ大人しく寝ていた方がいいのではないかと思うほどだった。
それにも関わらず、ジョルノはなまえの家まで来た。お礼だとかTシャツを持って。
見た目は元気そうではあるが、もしかしたら本調子ではないのにわざわざ来たんだろうかと思うと、申し訳なくさえ思えてきた。
なまえの問いに対して、ジョルノは少しだけ目を伏せる素ぶりをした。
そうしてほんのちょっとの間を置いてからなまえを見たその目はどこか鋭く光っているようなものに見えたが、なまえは瞬きの間に消えたその光に少しの疑問を持ちつつ、ジョルノの返事を待った。
「実は、まだ少しふらつく感じがあるんです。あなたをここで待ってた時から。ぶり返したかも——」
「え、」
「——そう言ったら、どうしてくれます?」
何を言っているのか、なまえは瞬時に理解できず、瞬く事しかできなかった。
頭の中で疑問符を浮かべながら、言われた言葉をもう一度反復してみる。どうしてくれるか、とジョルノは言ったが、調子が悪いのなら病院へ連れて行けばいいのだろうかと、そんな事しか思い浮かばなかった。
しかし、それと同時に、何故自分がそんな事をしなければならないのかとも思うし、そもそも今、彼が本当に不調なのかも甚だ疑問だった。
だって元気そうなのだ。目の前の彼は。隠すのが上手いだけなのかもしれないが、本当に調子が悪いならわざわざTシャツを綺麗にして、チョコレートまで買ってまでして、こんなところへは来ないだろう。お礼はテーブルに置いてあったメモだけで充分と考えて病院へ行くなり自宅で休むなりすればいいのだ。それに少しふらつくだとか、ぶり返したかもしれないだとか、例えばそれが本当だとしても、ここまで来られるのならきっと大丈夫なのだろう。自分で帰る事だってできるんじゃないのかとなまえは思った。
考えれば考えるほど、もはやジョルノが何をしたいのかが分からなかった。
なまえはどう答えればいいのかを悩むが、「タクシー呼びましょうか」とか、「病院に連れて行きましょうか」とか、やっぱりそんな返ししか思い浮かばない。しかし、ふと思い至る。
この人は不調を装って、その実、ただナンパをしているんじゃないか。そう思ったが、それだと何故自分なのかと更に疑問が募る。それにナンパにしては回りくどいような気もした。
道端で男性に声を掛けられた経験はあるが、こんなに分かりづらい人は初めてだった。
なまえは更に目の前でうっすらと笑みを浮かべている男の事が分からなくなった。
何も言わないなまえにジョルノは痺れを切らしたのか、答えを待たずして口を開く。
「随分と考えますね」
「いや、だってあなた、元気そうだし。調子が悪いならこんなところになんて来ずに病院にでも行けばいいのにって思って。私が医者か何かにでも見えたのなら違うので……それにもし、いや、違ったらアレなんですけど、もし回りくどいナンパだとかそういうのなら、違う人をあたってもらえますか」
「ふふ、そうですね。すみません、ぶり返したのは嘘でした。それにあなたの言うナンパだというのは……その言葉はあまり好ましくありませんが、あながち間違っていないかもしれません。ただ——」
ジョルノが一歩前に出て、なまえに近づく。もともと人ひとり分ほどの間しか空いていなかったため、なまえは更に近くなったその距離に体をのけ反らせようとした。
しかしジョルノがなまえの腕を掴み、それを制す。なまえはぐっと腕を引っ張られ、エメラルドの瞳が近づいた。
「——ボクはあなたが逃げようとしても、引き下がる気はありませんが」