軽いパスから入って対人、徐々に厳しいボールが増えて、気が付くとワンマン。時間制限も本数制限もなし。強いて言うなら動けなくなるまで。及川は容赦ない。
もう数えきれないほど床に体を滑らせて、とうとう立ち上がることができずに突っ伏すわたしを見て、及川も大きく息をつくとその場にどさりと腰を下ろした。
「なまえちゃんてほんっと体力バカだよねー」
「......それ褒めてるの?」
「めちゃくちゃ褒めてるじゃん!」
掠れた声で訊ねれば、心外だとでも言うように肩で息をしながら声を荒げた。
まぁいいかと納得させ体力回復に励む。
「ほらほら、休憩しよ」
すぐさま息を整えた及川は体育館の扉を開けて風を取り込んだ。
這うようにして及川のいる踊り場に出ると、はい、と水を渡してくれた。渇いた喉に水を流し込む。及川がこちらを見ている。わたしは居心地が悪くて目を伏せた。
何を言うのか、もう分かっていた。
大会で負ける度に、ひとり体育館に戻って無茶苦茶に練習をした。ひとりでできることなんてたかが知れているけど、それでも何かせずにはいられず、ボロボロになるまでひたすら体を動かしていた。
中二の冬だった。そこに及川が現れたのは。
言葉が出なかった。疲れていたからではなく、彼こそわたしが必死になって練習をする理由の張本人だったからだ。
一目見たそのときから心は惹き付けられ、気が付けばつい目で追ってしまう。
輝いていた。光る指先から放たれたトスは綺麗な軌跡を描いてアタッカーの下へ。
あれは、いったいどんなだろう。あのトスを打つことができたら、どんなに幸せだろう。
憧れはいつしか願望へ。あのトスを打ちたい。この手で。見ているだけではもう満足できなくなっていた。
それにはまずあのレベルに追い付かなくてはいけない。
そう思ったから、誰よりも練習してきたつもりだった。決して楽はせず、自分に厳しくしてきた。
だけどもっともっと努力している人がいた。
及川だ。
彼に追い付くことなんてできるのか。彼のトスを打てる日は本当に来るのだろうか。
苦痛にも似た憧憬に、胸が押し潰されそうだった。
だから、笑顔の及川が「トスあげようか」とボールを掲げるのを見たとき、大袈裟なんかじゃなく涙が溢れそうだった。
それからいままで、及川は毎回わたしのこのバカみたいな行動に付き合ってくれている。
「なまえちゃんはむかしから頑張りやさんだよね」
「及川ほどじゃないよ」
そしてお馴染みのやり取りと化した会話。わたしはいつも、及川から顔を背けてしまう。
わたしが頑張るのは、勝ちたいとか、上手くなりたいとか、ましてやバレーが好きだからとか、そんな純粋な理由じゃないから。
それを知ったとき、それでも及川は、こうして付き合ってくれるのかな。
「及川は花が似合うね」
話題を逸らすために、目についたたんぽぽを摘んで及川の顔と並べた。
「及川さん美少年だからねー」
得意そうに笑ってわたしの手からたんぽぽを奪うと顔の前でくるくると回す。
そうだね、と答えれば「なまえちゃん分かってるぅ〜」となお上機嫌だ。
「花」に隠された本当の意味に、及川は気付くだろうか。
たんぽぽを眺めながら上機嫌に鼻歌を歌う及川。
わたしの視線に気付くとなんの躊躇もなくたんぽぽを放り腰をあげた。
「そろそろ打ちたいでしょ」
にんまりと笑い手を差し伸べる。
「うん」
頷き、素直にその手を取ることができるのは、今こうして一緒にバレーをしているから。もしここが体育館ではなくて、着ているものが制服だったりしたら、及川が同じように手を差し伸べてくれたとしても、わたしはその手を取ることはできないだろう。
こんなとき、バレーをしていてよかったと思う反面、及川とわたしを繋いでいるのはやはりバレーだけなのだと思い知らされる。
それでも、
「俺もそろそろなまえちゃんにトス上げたかったんだよね」
くるくるとボールを回しながらネット際へ向かう及川。その場所に立つ及川が一番好きだ。
及川に相応しい場所はそこで、その場所に相応しいのは及川しかいないと、そう思う。
目を細めアンテナとの距離を測る及川。恐らくわたしたちのチームで使っている特有のトスの確認。
「うん、よし」ひとつ頷く。
「最初は?」
「平行」
「おっけー。いくよ」
そう言って放たれたトスはBをそのまま伸ばしたような低くて速いトス。わたしが一番好きなトス。
ピッタリだ。思い切り腕を振りきる。ボールは気持ちの良い音をたててコートに突き刺さった。
「ナイスキー」
「ナイストス。ピッタリ」
「ふふん、そうでしょー。俺なまえちゃんにあげるこの平行好きだからねー」
こっそり練習したんだよ。得意気に笑う及川。
きっと及川にとってはなんでもない一言なんだろう。だけどわたしにとってそれは何よりも嬉しい言葉だった。
及川のなかに、わたしの記憶がある。きっと及川はこのトスをずっと覚えていてくれる。例えばお互い違う大学に進学して、一緒にバレーができなくなったとしても。久しぶりに会ったとき、及川はきっと、またこのトスをあげてくれる。だって及川は、そういうセッターだから。
及川は、
「はーい、どんどんいくよ」
「うん」
及川は、わたしがこんなに必死で練習をする本当の理由を知らない。知らなくていい。
だってそれは、及川や岩泉のように純粋でキレイなものじゃないから。
テーピングでガサガサの手は、お世辞にも綺麗だなんて言えないけど、でも、トスを放つその瞬間、輝きを纏うその手は、他の何よりもキレイで美しい。
ねぇ、及川。
花はね、つまり女の子なんだよ。
及川はいつも花のように可愛くて綺麗な子たちと付き合うけれど、長続きした試しはない。大抵女の子が及川のバレーバカっぷりに呆れて離れていくのだ。
来るもの拒まず去るもの追わず。彼女を作る気はない。ただ断るのが面倒くさいだけ。及川自身がそう言っていた。
「女の子はかわいいし好きだよ。手なんか柔らかくて気持ちいいしさ。けど、なじむのはやっぱバレーボールなんだよね」
そう言って、手にしていたボールをトスした。高く、高く。
落ちてきたボールをもう一度その手に収めると「なまえちゃんもでしょ」といたずらっぽく笑った。
綺麗なだけでは及川の隣に並べないと知ったから。
だから、わたしは。
そんなことでと笑うだろうか。怒るだろうか。それとも、呆れるだろうか。
わたしが頑張るのはね、いつまでも及川と同じレベルでいたいから。だから、いつも男子よりひとつ下の成績で終わってしまうことが許せなくて、情けなくて、じっとしてはいられなくなる。
ーーこのままじゃ及川に置いていかれる。
絶望にも似た焦りが身体を取り巻いて、それを振り払うように、ただひたすらに、ボールを追いかけ、打ち付けた。
「なまえちゃんにトスあげるの楽しい」
中学生のあの日、及川にそう言ってもらえたのが嬉しくて。パチンと手を合わせたときに感じた熱を忘れられなくて。一所懸命な及川に置いていかれたくなくて。隣に並んでいたくて。
がむしゃらに追いかけてきた。いまも、ずっと。
だってそうすれば、こうして一緒にバレーができるでしょう。気取らずに笑いあえるでしょう。その手に触れることができるでしょう。
わたしは、あなたの手になじむ一輪で在りたいのだ。
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