別れる男にひとつ花の名を教えておけと言ったのは一体どこの誰だっただろうか、なんて思い出していた。花は毎年咲くから、男はその花が咲く度に思い出さざるを得ないだろうという意味らしい。
きっとそれは効果てきめんなんだと思う。現に今、私がそうだ。ぞうさんジョウロが発芽した朝顔目掛けて鼻から水を出す度に思い出す男がいる。
小学生の頃、授業で朝顔を育てたことがある。学校の花壇の手前に一学年全員の分だけ置かれた鉢は名前をマジックペンで書かれていて、誰の鉢かは一目でわかるようになっていた。
あれは確か夏休みになる一週間前くらいのことだったと思う。夏休みになったら鉢を家に持って帰って成長の記録を毎日つけろという宿題が出たから、花壇の前に残っている鉢はずいぶんと少なくなっていた。私はその日の朝、いつもより遅く学校に着いて花壇の前に残っている自分の鉢に慌てて水をやりに行った。だけどそのとき、私の朝顔の鉢に水をやっていた男の子がいたのだ。それが同じクラスの堅治だった。堅治は運動神経がよくてかわいい顔立ちをしていたけれど、ちょっぴり意地悪だったから女の子をよく泣かせる男子だったし私もよく泣かされたものだから結構苦手な部類の男子だった。だから私は、その光景を見たときにものすごい衝撃を受けたのを覚えている。
「堅治おはよう!水ありがとう!」
いつも意地の悪い堅治がとても親切なことをしてくれたのが嬉しくて、元気よく挨拶をすると私に気づいた堅治はびくりと肩を揺らした。そしてばつが悪そうな顔をして私に、こう言った。
「水やりすぎると根っこ腐るって聞いたからやっただけだし!勘違いすんなぶす!」
そして私に水の入ったぞうさんジョウロを押し付けて、堅治はさっさと去っていった。あのときの私は、自分が今なにを言われたのか咄嗟に理解することができなかった。何度も頭の中で堅治の言葉を反芻して自分の鉢を見下ろした。しっとりと濡れた土からつるが伸びて、花が綻ぶのを今か今かと待っている。それなのに堅治は、私が大事に育てていた朝顔の根っこを腐らせるために水をやっていたと言った。あのときの私にとってブスと言われたことなんてどうでもよくて、堅治の行動を親切だと一瞬でも勘違いしたことがただただ悔しくて、堅治がどうしてそんなことをしたのかもわからなかった。ただひとつだけわかるのは、私は自分が思っている以上に堅治に嫌われているのだということだった。その日の放課後、このまま学校に鉢を置いていては私のかわいい朝顔が堅治の水責めによって腐ってしまうかもしれないと怖くなって、泣きながら鉢を持って帰ったのをよく覚えている。夏休みが明けて学校に鉢を持っていくと、私の世話の甲斐もあってか朝顔は誇らしげに咲いて先生に誉められたけれど、堅治がそのときどんな顔をしていたのかは怖くて見ることができずにいた。
あれから小学校も卒業して、中学を経て高校生になった。朝顔を魔の手から救った功績が地味に効いて、自分は花を育てることが得意なのかもしれないと錯覚した結果緑化委員にも進んで参加して、就活の始まる三年生から委員長を引き継いだ私は学校で朝顔を育てることを許された。私の手によって咲き誇った朝顔を見てほしい男がいたからだ。そいつが花を観賞するかどうかはさだかではないけれど。朝練って何時から始まるんだろう、よりにもよって体育館の真ん前に種を植えた朝顔は、あの悔しさを忘れてはならぬという意地から何年も朝顔を育て続けた熟練の技によって今年も無事に発芽した。
「うおっ、びびった。お前かよ」
声のした方に顔を向けると、声変わりもしてずいぶんと成長した堅治がいた。記憶の中の堅治はもっと小さくて細くて、あどけない顔をしていたから小学生のときぶりにまともに顔を合わせた堅治がやけに大人に見えた。
「おはよう、これから朝練?」
「うん。お前は?」
「緑化委員、水やってんの」
「へえー」
あの朝顔水責め未遂事件から今日まで、中学も高校も同じ学校に進学していながらろくに会話をすることはなかった。私は堅治に嫌われているのだとばかり思っていたから意識的に避けていたのもある。クラスの女子が「A組の二口くんかっこいいよね」なんて言っていても、あいつは人の朝顔を腐らせようとする男だよ、と言いたい気持ちでいっぱいだった。だけど今だからこそわかることもある。あの意地悪堅治があんな回りくどい嫌がらせをするはずがなくて、あの行動の真意は他にあるのだと、そしてその理由も、今の私にはなんとなくわかる。
「これ?なに育ててんの?」
私の隣にしゃがみこんだ堅治は発芽した朝顔を指差した。
「朝顔」
「うわ、懐かし。ガキのとき育てさせられたよな」
「あのとき堅治さ、私の朝顔腐らせようとしてたよね。水やってくれてるなんて優しいなと思ったのに地味にショックだったなー。給食のココアババロア残したくらいショックだったな」
「……覚えてねえよそんなもん。つーか何年経ってると思ってんだよいい加減忘れろよ」
堅治はたぶん、本当は忘れてない。微妙な間と、微妙な顔。堅治は昔から意地悪で嫌なやつだったけど、嘘が上手な子供ではなかった。素直じゃなくて口が減らない子供ではあったけれど、感情がすぐに顔に出るやつだった。昔から、本当はとってもわかりやすいやつだったのだ。
「朝顔の花言葉って知ってる?」
「知らねー。てか緑化委員長様と違って俺にそんな趣味あると思ってる?」
「だろうなと思った」
なんとなく調べたその花言葉は、あの頃のことを思い返すとなんとも皮肉だった。堅治にとってはきっと思い出したくもないんだろう。そう思うとつい笑いが込み上げる。
「なに笑ってんだよ意味わかんねー。で?一応聞くけどなんだよ」
「知りたい?」
「別に興味ねえけどなんか気になるだろ」
「『儚い恋』だってさ」
あの頃の堅治にぴったりだね、なんてさすがに言えやしないけれど。私の言葉を聞いた堅治は面食らったように大きな目をぱちくりとさせている。
「あのときの朝顔もちゃんと咲いたんだよ。腐んなかったし枯れなかった」
「そーですかよかったな」
「そうだねよかったね」
「なんで俺に言うんだよ」
不貞腐れたように朝顔の芽を睨み付ける堅治は、あの頃よりも大人にはなっているけれどなんにも変わっていないようにも見えた。今やっと言えた。堅治が腐らせようとしていた朝顔がちゃんと咲いたこと。でもあの頃の堅治は本気で腐らせようとなんてしていなかったこともわかってる、とは言わないでおこう。咄嗟の照れ隠しであんなことを言ってしまう、素直じゃない子供だったんだから今だってきっとそうなんだろう。
「……それ、咲くといいな」
そろそろ行くわ、と立ち上がった堅治は、照れたようにそっぽを向きながら呟いた。お世辞にもとれるくらい素っ気ない一言だけれど、昔からこいつを知っている私だからこそちゃんと意味のある一言だということはわかっている。
「大丈夫、ちゃんと咲かせるよ」
咲いたら堅治に、朝顔にはもうひとつ花言葉があるということを教えてあげたい。興味ない、と一蹴されてしまうかもしれないけれど『固い絆』っていう意味もあるということを知っていてほしいと思った。
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