「蛍、数学の課題終わった?」
僕の部屋にやってきたなまえは唐突にそう切り出してきた。僕の部屋になまえがやってくるのは珍しいことじゃない。幼馴染である僕たちは昔からよく互いの部屋を行き来していた。今ではさすがに、僕がなまえの部屋を訪ねることは少なくなったけれど、なまえが僕の部屋を訪ねてくる頻度は昔と変わらない。いや、むしろ昔より多いかもしれない。中学校時代のジャージというかわいげのない格好をしたなまえは、机に向かう僕の背中にひっついてくる。
「…課題って、月曜日に出されたやつだよね。さすがに終わってるよ。今日何曜日だと思ってるの。木曜日だよ」
付け加えるなら、提出は明日まで、だ。僕は火曜日には終わらせて、提出も済んでいるけれど。ページ数は多かったけれど、それほど難しい問題じゃなかった。課題をいつまでもためておくのは好きじゃない。部活もあるし、終わらせられるときにさっさと終わらせておくほうが効率もいい。僕の背中にひっついたなまえは、僕の耳元で「裏切り者ー」と悲痛な声で叫ぶ。僕がうるさいと感じるか感じないかという微妙な声加減で。
「なにそれ」
「私は蛍と一緒にやろうと思ってたのに、先にさっさと片づけちゃうなんて裏切り以外のなにものでもないよ」
「は?ちょっとなに言ってるかよくわからないんだけど。っていうか離れてくれない?僕今現代文の課題やってるんだけど」
僕だって一緒に課題をやろうかなと思わなかったわけじゃないけど、なまえと課題をやってもはかどらないことは分かり切っている。だから声はかけなかった。僕の首に腕を回したなまえは、不機嫌そうに僕の耳元で声を上げる。
「蛍は冷たいなあ。かわいいカノジョが遊びに来てるのに課題を優先させるの?」
「可愛い?誰が?」
僕の言葉を聞いてか、僕の首に回された腕に力がちょっとだけ込められた。全然苦しくなんてなかったけど、「ちょっと、苦しいんだけど」と言ってみれば腕の力がすっと抜けた。振り返れば肩越しに、申し訳なさそうな顔をしたなまえと目が合う。そういう顔、すごく可愛いと思う。なんて、言ったら悪趣味だと言われるだろうから言わないけど。なまえから顔を背け、A3サイズの現代文の課題プリントを折りたためば、なまえが「あっ」と嬉しそうな声を上げた。表情は見えないけれど、さっきとはまるで違うきらきらとした笑顔になっているに違いない。別になまえのためじゃない。なまえと一緒だと課題がはかどらないから。ただそれだけが理由なんだけど。
なまえは僕の幼馴染で、恋人だった。恋人という関係になったのは高校に上がってすぐの頃。ちょうど桜が散り始めた頃。「付き合おうか」と言ったのは僕だったけれど、たぶん、僕が言わなくても、そのうちになまえのほうから言っていたと思う。幼馴染だった僕たちの関係は、それほど近しいものだった。僕はなまえが好きだったし、なまえだって僕のことが好きだった。言葉に出して確認したことはなかったけれど、そうだろうなと思っていた。いつから好きだったのか、なんて聞かれても僕はたぶん答えられない。無理やり答えるとするのなら、物心ついた頃から、としか言いようがない。たぶん、恋とか、そういうのをすっ飛ばしてる。僕にとってなまえという女の子は、物心ついた頃からずっと特別で、大切で、いとおしい存在だった。なまえも同じだと思う。彼女もきっと答えられない。無理やり答えるとするのなら、僕と同じように答えるだろう。
「課題より私を優先してくれるの、蛍」
「優先とかそういうんじゃないけど」
「でも、プリント折りたたんでくれたっていうのは私のほうを優先してくれるってことでしょ?」
「残念だけど、なまえと一緒だと課題がはかどらないから。それだけだよ。ほら、いつまで引っ付いてるの。その辺座ってなよ。今飲み物持ってきてあげるから」
放っておいても家族の誰かが持ってくるだろうけど、さすがになまえと二人きりのところに家族が入ってくるのは気恥ずかしい。別に何をするわけでもないけど。僕の家族もなまえの家族も、僕たちの関係を知っている。ただの幼馴染だった僕たちが、恋人という関係になったことを。からかったりはしないけれど、みんな嬉しそうに微笑ましそうに僕たちを見るものだから、余計に気恥ずかしいのかもしれない。そういえば冷蔵庫の中に貰い物のプリンがあった。あれを出してあげるのもいいかもしれない、と考えながら椅子から立ち上がろうとするけれど、なまえの腕は僕の首から離れる気配がない。なまえがちょっと動くたびに首筋になまえの髪があたってくすぐったい。「なまえ?」と名前を呼びながら首だけ後ろに向ける。僕を見つめる瞳がすぐそこにあって、どきりとする。なまえは少しだけ頬を染めて、えへへ、とだらしのない笑い方をした。
「飲み物はいいから、もうちょっと蛍とこうしてたいなあ、なんて」
「、は、はぁ?ちょっと、気持ち悪いからやめてくれない」
「だって、蛍が課題より私を優先してくれたのが嬉しくて」
「ねえ君頭悪いの。僕さっき言ったよね。なまえと一緒だと課題がはかどらないから課題をするのをやめただけで、別に、なまえを優先したわけじゃないんだけど」
「うん、そうだね。そうだったね」
僕のとげとげしい言葉に気を悪くしたようなそぶりもない。なまえは気付いているからだ。少し上ずった僕の声に。少し上昇した僕の体温に。少しずつ早くなる僕の鼓動に。ずっと一緒にいたなまえだから、気付いている。もしかして、僕の、なまえと一緒だと課題がはかどらない、という言葉に隠した本音にも気付いているのかもしれない。気付いていないことを願うけど。だって、なまえと一緒にいると緊張してそわそわして課題なんてどうしたって手につかないしはかどらない、なんて、そんなのかっこ悪いし情けないし絶対に知られたくない。
「蛍、肩に力入ってるよ」
「…誰のせいだと思ってるの」
「私のせいで緊張してる?」
「は?なまえが重くて肩が凝り始めてるんだけど」
「あ、そういうこと言う?言っちゃうの?そんな蛍には…こうだ!」
「な、っ、ちょっと!」
楽し気な声の後に、首筋に強く押し付けられた柔らかなもの。それが唇だということに気付かないほど、僕は子供じゃない。なめるでもなく、かみつくでもなく、ただ押し当てられただけだというのに、そこはひどく熱くなる。唇が離れた後、慌ててそこを押さえる。ちりちりと、焼けるようだ。するり、と僕の首に巻き付いていた腕も離れていく。今度は体ごと振り返って、なまえを見る。さっきよりももう少しだけ頬を赤く染めた彼女は、えへへ、と締まりのない笑顔を僕に向けていた。指先でさっき僕に触れて行った唇をなぞりながら。
「蛍、顔真っ赤だよ」
「…君もね」
うるさい鼓動は、鳴り止みそうにない。
back