好敵手
「レビン!こら、待ちなさいレビン!」
聞こえた声で頭を過ったものは、何かと世話になっている埼玉の渉や親友イツキの兄弟車。反射的にまわりを見ても、らしきものはいなかった。それに無機物に対して『待て』とは、まるでクルマに意志があるようなその言い方に何やら様子がおかしいと思った。商店街を歩く拓海は、背からの声に振り向いた。
「きゅん、きゅん」
「…子犬…?」
目線を遠くに遣っていたのに、足元に感じた違和感に瞬間、たじろいだ。地面を見れば、拓海の足首あたりに擦り寄る黒色の子犬。ビロードのような艶毛が美しかった。
「レビン、ああ、すみません!そのダックス、ウチの子なんです!」
子犬に合わせ地面に膝をついて相手をしていた拓海に、息を切らして駆け寄る女性。親に気付き、子犬はその場で駆け回るように喜んだ。
(…あれ?)
「ありがとうございます。散歩中に、首輪が外れてしまって…まだこの子小さいから、サイズが合っていなかったみたい。ご迷惑おかけして、すみません」
「…ちはる、ねーちゃん?」
もしそうなら、実に何年振りになるのだろう。駆けてきた女性に、拓海は面影を感じた。
「オレ、拓海。豆腐屋の」
「たく…え、うそ、拓海ちゃん!?」
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拓海が渋川を出て、2年ほど経っていた。ラリーの世界に没頭して世界中を飛んでまわる中、丁度、夏季休暇をもらって地元へ帰ってきていた。池谷らに顔を見せひと騒ぎされた帰り、ふらりと歩いていた商店街。普段感じる秒速の世界とは真逆の、穏やかな空気。たった2年なのに、何だかもうずっと離れていたようなこの安心感に拓海はほうっと息をついた。そのときだった。
「びっくりだよー、もう何年会ってなかったのか忘れちゃったな」
「たぶん、オレが高校入学くらいじゃない、会ったの」
彼女の膝の上でころころと愛犬が甘えている。伊香保温泉の石階段に、ふたり並んで座っていた。
「ちはるねーちゃん、何してたの?」
「東京の製菓学校に行ってたのよ、3年間。だからきっと、拓海ちゃんと入れ違いね」
商店街の菓子店では最も老舗の彼女、ちはるの実家。将来名前を受け継ぐため、製菓免許を取るべく上京したのだという。拓海より歳上のちはるは、拓海が高校を卒業した頃に渋川に戻ってきてはいたが、今度は拓海の方が忙しく、仕事やら遠征やらで時間のない毎日だった。ふたりが顔を合わせた日が、まるでない。
「オレ、いま、クルマでレースやってるんだ。だから、もっと会えなかったんだね」
「知ってる。お母さんから聞いたの。『拓海ちゃん、いつかCMに出るんじゃない?』ってはしゃいでたよ」
「うわ、あんまり目立ちたくないからそれはパス」
最後にお互いが会って、もう6、7年の時間が流れた。可愛らしかった拓海はすっかり精悍な男らしい姿になっている。久し振りに会った弟分が大人になっていて、どぎまぎしないことがあろうか。ちはるは、膝に丸まるレビンを撫でて気持ちを誤魔化していた。
「レビン、寝ちゃった」
「…ねえ、なんで、その名前なの?」
小さな顔を埋めてすうすう眠る姿が愛らしい、黒色のダックスフント。ちはるは背中をぽんぽんとやさしく叩き、拓海はそうっと頭を撫でている。自分の掌よりも小さな頭が、壊れそうな気がして少しだけ怖かった。
「ふふっ、この子、雷が怖いの。ゴロゴロって音も、光も」
「それが、キッカケ?レビンて、英語で」
「うん、雷。でも、好奇心旺盛のクセにね、寂しがり屋なの」
あちこち行きたがって、でも怖くなってすぐ鼻を鳴らすのよ、と苦笑いするちはるはそれでも、愛しくてたまらない目でレビンを見つめる。
「雷に負けないくらい、強い男の子になってほしいなって。家族一致で名付けたんだよ」
「ふーん…お前、雷怖いのか。情けねーやつ」
幼い頃からちはるに憧れの念を持っていた拓海。目を細めて笑う先には、自分ではなくて愛らしい子犬。数年振りに会った『近所のお姉さん』がますます綺麗な女性になっていて、どぎまぎしないことがあろうか。拓海は恐らく、昔ほど口下手ではなくなっているだろう自分のボキャブラリーから、なんとか、ちはるの視線を自分へ向けてくれないか必死になって言葉を探した。
「…あのさ、ちはるねーちゃん」
「んー?」
「オレんちの、ぼっろいクルマ、覚えてる?」
「うん、あれでしょ、とうふ店の名前が書いてある白いの」
「あれさ、この、レビンと一緒なんだぜ」
「なにが?」
「名前」
あれは確か、高校3年の夏の終わり。もうすぐ秋かなって季節に、コイツは自分にとって唯一無二の相棒なんだと気付いたとき。気になって調べてみた。
「"雷鳴"、スペイン語で、トレノ。うちのクルマ、トレノっていうんだ」
「トレノ?なんだか、かわいい響きの名前だね」
「かわいいのは名前だけで、すっげー速いし、タフなんだ。ちっこいのに、よく動くし。燃費は、あんまよくねーけど」
レースではチームのチューンドカーに乗っているけれど、今でも自分の相棒は変わらず、自分と一緒に走ってくれている。どこへ行くのも、ずっと一緒だ。
「レビンてクルマも、あるんだよ。トレノと兄弟で、オレの知り合いも乗ってる。勝負したらめちゃくちゃ速いし、負けるかと思った」
「へー!この子と同じ名前なのね、初めて知ったよ!あ、ってことは拓海ちゃんが勝ったんだ?」
「うん。もうヒヤヒヤした。だからさ、」
拓海は、レビンの背を撫でるちはるに自分の手を重ねた。一緒に遊んで何度も繋いだことのあるちはるの手は、確か拓海より大きかったはずだ。細い指に、薄い掌。でも、拓海より、あたたかかった。
「こいつも、レビンもきっと、強い男になるよ。大事に、ずっとそばで見ててあげれば、ねーちゃんの気持ちが伝わって。メシもいっぱい食べて、いっぱい走って遊んで、雷なんかふっ飛ぶくらい、強くなるよ」
「…拓海ちゃんたら、いつからそんな、上手なこと言えるようになったの?」
となりを見れば、慣れない科白を喋ったからか真っ赤になった拓海がこちらを向いていた。それが伝染して照れつつも、ちはるは重ねた手の指と指を絡めるように拓海と繋ぎ合わせる。昔と違って、自分より大きい手。逞しさに、少し、悲しくなった。
「この子は脚が短いから、早く走ることは無理だけど。長生きしてくれなきゃ困るから、愛情込めて、うんといい男に育ててみせるよ」
「…車高短でホイールベースが長いから安定性は凄そうだなコイツ…」
「ホイール?」
「あ、えと、なんでもない!」
拓海の声が聞こえ、眠っていたレビンの丸い瞳が開かれる。首を、傾げて頭にハテナを飛ばしたような目線をちはるに向けて、甘えた仕草で擦り寄ってきた。
「…ったく、羨ましい」
拓海の呟きはちはるには届かなかった。ほんの少し、耳を動かした彼だけが知っている。
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イチャチャ甘いのよりもほのぼのが拓海には合ってるのかな?と思いながら、懐かしいお姉さんに出会ったお話を。
レビンちゃん、同じ町内に住む友達の愛犬です。つやつやの黒いダックスフント。友達のお兄ちゃんが黒のAE101レビンに乗っているので、友達一家はクルマから命名したそうですよ。短い脚を一所懸命動かして走る姿が愛らしくてたまりませんね!
改めまして50000hit本当にありがとうございます!まだまだ突っ走りますので、どうぞお付き合いくださいませ!
2014,7月りょうこ
おまけ
「ねーちゃん、また、会える?」
「私はもうずっと実家にいるから。いつでも帰っておいでよ拓海ちゃん」
「ん…温泉まんじゅう…」
「うん、いっぱい作って、レビンと一緒に待ってるね」
「…(レビンは留守番でいいよ)」
おしまい