ハニー・カム


「あれ、あきらちゃん。今日からお休みじゃなかったっけ?」

「う、うん!そうなんだけど」


御殿場駅でいいじゃないと提案したのだが、ロータリーの段差が厄介だの駅前の混雑がイヤだの言われてしまったので、都合の良い場所…チームの研究所で待ち合わせとなった。


(群馬まで来てもらうのも、悪いし)


10月初旬、スーパーGT第7戦。舞台のタイから帰国してしばらく経ったある日。次戦は11月だと恋人に告げれば、『10月の後半、どっか空けておけ』と漠然としたご命令が下された。詳しく聞こうとすれば、まだ教えられないともったいぶられ、またしばらく経ったある日のデートで、こう、告げられた。


『温泉、行くか』


(考えてみれば、旅行、初めてなんだよね…)


お互いが忙しくて休みのスケジュールがなかなか揃わず、連休など合わせて取ることは今までになかった。毎月、もしくは月2回開催されるGT戦も、そろそろオフシーズン。目線は既に来季へ向かっているけれど、幾分かゆっくり出来るそんな10月に、豪はあきらを誘ったのだった。行先はまったく知らされていない。任せとけと、言われたきりだ。


「オシャレしちゃって。なに、デート?」

「あー、うん、まあ」


いつも通り通勤するように、群馬より早朝から飛ばしてきたランエボを自分の定位置に停めて豪を待つ。ロビーで座ってスマートフォンを開けば、御殿場市に入ったと彼からのLINE。休み希望を出していた我がメカニックが可愛らしいスタイルでかつデートにしては大きなバッグを持っているので、チームリーダーのハヤトはにやと予測を立てた。


「帰りは明日?」

「うん。……え?あ…っ!」

「そわそわしちゃってカワイイんだから。さっきから何回スマホ見てるの?」

「〜〜〜っからかわないでよハヤト!」


レース前でも、こんなに、どきどきすることなんてなかった。今、どこを走っているかなとか、今、何を考えているかなとか、相手を想って待っている時間も楽しくて、幸せな気分になるんだってこと、全部、豪が教えてくれた。何度も鏡を見ては、マスカラがダマになっていないかとか、チークが濃くないかとか、グロスがはみ出ていないかなど余計な心配をして、そわそわと落ち着きがない。そんな恋する女の子を見遣るハヤトは、これからあきらを攫いにくる輩を恨めしく思う。


「あーあ、暴れん坊王子が来ちゃったよ」


VTECの音がした。あきらの耳がぴんっ、と立った。スカートの裾を翻し研究所の玄関口へ飛び出すと、ハヤトは苦笑いを零す。


「すまん、待たせた。国道、めっちゃ混んでてさ」

「ううん、平気だよ。荷物、出来るだけ小さくしたけど、トランク大丈夫?」

「意外に入るんだぜコイツ。心配すんなって」


今日の神奈川はなんとも澄み切った青空だ。豪の赤いNSXが、ぴかぴかと映えて光っていた。


「洗車でもした?気合入ってるねーNSX」

「ちっすハヤトさん。チーフお借りしますんで」

「僕らの大事なチーフだ。キズ、つけんじゃないよ」

「いやー、それは保証しかねますね」

「ちょっとなに言ってんのバカ!」


ハヤトの小言を受け流し、豪はあきらのバッグをトランクルームに詰める。フードを閉じ助手席のドアを開け、エスコート。


「行こうか。楽しい時間の始まりだ」

「あっ!ちょっと待って豪。ハヤト、あのね…」


ふたりの出発を見送ろうとそばにいたハヤトに、あきらは何やら言付ける。耳打ちで話す声は豪には聞こえなかった。ハヤトは『まったくこの子は』と呆れながら彼女にデコピンを送る。


「気を付けて」

「何かあったら連絡ちょうだい」

「緊急以外は連絡しないよ。邪魔しちゃ王子様に怒られちゃうからね」


手を振り、助手席に収まる。目的地は、豪しか知らない。山の稜線へ向かって、NSXは駆けだした。



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「お待ちしておりました。北条様でございますね」

「……御用達?」

「違うって」


観光名所より少し外れた、閑静な箱根の温泉郷。有名すぎる湯本ではない秘めた名湯らしく、とある仏僧が教えてくれたと豪は言う。さすが、地元のクチコミというところか。ざわついた賑わいのないひっそりと佇む温泉郷は、しかしどこか懐かしく落ち着いた空気で、肩の力がほっと抜けるやさしい雰囲気を作ってくれている。到着するや仲居に名前を呼ばれ、まさか北条家の、と委縮したが、どうやら予約の電話で移動手段の情報を伝えていただけらしい。


「お手荷物は私どもへ。お車はこちらへお停め下さいませ」

「オレ、動かしてくるから、先にロビー行ってて、あきら」

「うん」


案内されて入れば、目の前には大きな囲炉裏。旅先で何度か見たことはあっても、ここまで大きな造りは見たことがなかった。わあ、と自然に声が出る。


「どうぞ、囲炉裏へお上がり下さい。炭を焚いておりますので、あたたかいですよ」

「すごい、大きな囲炉裏ですね!こんなに立派なの、初めて見ました」

「写真でも撮っとく?記念だし」


戻ってきた豪が仲居にスマートフォンを手渡し、囲炉裏をふたりで囲んで到着記念の一枚を撮る。感激したままの笑顔が残された。


「こちらのチェックインシートにご記入下さいませ。そのあと、お部屋へご案内致しますね」


ご一緒にお茶をどうぞと、仲居が盆を運んできた。


「ち、ちょっと!」

「ん?」

「なに、勝手に!」

「いいじゃん、予行練習?」

「もー…ばか」


囲炉裏を囲んだまま、代表して豪がシートに記入していく。あたたかい昆布茶にほっこり息をつき、ちらと豪の手元を見る。この男は、なんと恥ずかしいことを…。


「オレは、さ」

「ん…?」

「…いや、なんでもない。忘れて」

「なにそれ」


言い逃れをするように、豪がシートを渡しに場を離れる。彼が書いた名前に恥ずかしくなり、あきらは昆布茶を飲みながら、照れた顔を誤魔化した。


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「当館には、湯が数個ございます。内湯の他に、貸切風呂と混浴風呂、どれもに露天がついてございますよ」

「へー、今日は天気もいいし、星、きれいかもな」

「敷地内の木々も色付いておりますので、どうぞ露天の景色もお楽しみ下さい。本日はご利用のお客様も少数ですし、ご夫婦でゆっくりと貸切風呂や混浴風呂などいかがでしょう」

「ごっご夫婦!?」

「そうですね、最近、妻の仕事が忙しくて疲れが溜まっているでしょうから、ふたりであったまることにします」


案内された和室。窓から見える紅葉に惚れ惚れしていたら、仲居が湯の説明をしてくれた。風呂の内装写真を話を聞きながら見ていたら、聞き流してはいけない言葉を拾う。豪も豪で、それに乗ってあたかも自然に応えていた。ご用命あればお呼び下さいと退室した仲居に会釈をした直後、あきらは豪に詰め寄る。


「だ・れ・が・妻よ!さっきも勝手に名前書いてたでしょう!」

「あーもー怒るなって。いいじゃん、いつかはそうなるかもしれないんだし」

「よくないわよー!ああもう、恥ずかしいよう…」

「…なあ、あきら」

「…なに」

「そんなに嫌がられると、ちょっと、傷付く」


恥ずかしくて両手で顔を覆ってあたふたしていたら、トーンダウンした豪の声。呟くような、弱々しい、静かな声色だった。はっ、として目線を上げれば、豪はテーブルに肩肘をついて横を向いていた。機嫌を損ね、ふてくされて。


「…ごめんなさい」

「…こっち、おいで」


和室のテーブルを挟んで向かい側へ手招きされた。おずおずと近付けば、頭にぽん、と掌が。


「緊張、してた?」

「……ぅん」

「だろうと思った。クルマん中でも、そわそわしてたし」

「……ごめん」

「あきらが緊張してっと、オレにもうつっちゃうから。な?」


初めて、ふたりだけでやってきた旅行。デートの延長だと思えばいいやと考えるようにしていたけれど、どうやら無理だった。緊張から、いつもより口数が多く、車内でもずいぶん、はしゃいでいた。チェックインシートに書かれたあきらの名前…勝手に書かれた『北条』の姓。それを見れば誰だって夫婦で旅行に来たと思うだろうが、あきらの緊張を解そうと豪が考えた、笑い話のネタにするつもりだったのかもしれない。まさかそんなに照れて嫌がられるとは思ってなかった豪は、少しだけ、ショックだった。


「ごう、」

「ん?」

「素敵なところに、連れてきてくれて、ありがとう」

「礼をもらうのは、まだ早いかな。でも、ま、」

「…んっ…」

「…傷付いた分の詫びは、頂くぜ」


頭の掌を滑らせ、あきらの頬を包む。片方の腕で肩を抱き寄せれば、見上げるあきらの丸い瞳とぶつかった。豪はそのまま、小さな口唇にキスを落とす。


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『もらい湯』という、他の宿の湯を試すことが出来るサービスがあるこの温泉郷。車の往来も少なく、散歩するにはちょうどいいメイン道路の左右に、立派な宿がいくつも並ぶ。そのひとつを選んで、豪とあきらは夕飯までの時間を楽しむことにした。


「浴衣、子供用のでいいんじゃね?」

「うるさいよ」


実際、大人の女性用でも丈が長すぎたので、あきらはお端折りを作ってなんとか凌いだ。豪は藍色、あきらは緋色の浴衣に着替え、半纏を羽織って下駄を鳴らす。


「坂道、気を付けて」

「ん…」


からん、からん。耳にやさしい、下駄の音。あきらの右手を預かった豪は、小さな歩幅に合わせて、温泉郷の坂道をゆっくりと歩く。道で擦れ違った同じ浴衣を着る老夫婦に、『あら可愛らしいカップルね』と朗らかに笑われ、照れながら会釈した。きゅ、と豪の手を握り返す。


「…あのさ、あきら」

「なに?」

「いいよな、いくつになっても、仲良しでいるって」

「さっきの、おばあちゃんたちみたいに?」

「うん」


しばらくの沈黙。下駄の音だけが響く。もらい湯の宿についてしまった。


「…じゃあ、またあとでね」

「のぼせんなよ」

「のぞかないでよ」


豪の言いたいこと、伝えたいことは、なんとなくわかる。でも、それをこちらから聞き出すことは、野暮だと思った。モヤモヤするけれど、豪のタイミングを待とう。


「ばか豪」


まるで森に囲まれたような岩造りの露天風呂。かけ流しの湯は白く濁り、肌当たりが柔らかい。まわりの木々は紅や黄に染まり、景色も見事。となりの男湯の豪も、同じ景色なのかな…そう思いながら、あきらは口元まで浸かり、ぷくぷくと湯を泡立てた。


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宿に戻れば、もう間もなく日没の時間。部屋の窓から黄昏時に染まるモミジを眺める。そ、と豪が指の背で頬に触れた。


「なァに、浸ってんだよ」

「女心と秋の空、よ」

「そんなに繊細だっけか」

「ひとこと多い」


火照った肌を撫でる指が、するりと降りて顎にかかる。く、と上げて、豪はあきらを抱き寄せた。


「…かわいいやつ」

「…うるさい」


掠れたように囁く声。もらい湯で少しだけ濡れた豪の髪が、あきらに触れる。だが扉のノックの音と運ばれた部屋出しの夕食の良い香りで、触れた髪はあきらから少し、遠のいた。


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宿の手作りだというグミの実を使った食前酒の口当たりが良く、箸もグラスも進んでいく。平らげた頃には、あきらの目はとろんと崩れ、豪を見てはにこにこと笑う。


「おい、飲みすぎじゃねーの」

「ん〜…だいじょぶ…」


夕食が終わってしばらく休んで、一緒にゆっくりと貸切風呂に…と考えていた。これからだってのにまったくコイツは、と豪はあきらの頬をぺちぺち叩く。


「外、出るか。風呂に入る前に、少し風に当たろうぜ」

「…ごう、だっこー…」

「はいはい、お姫さま」


たらふく食べても、小さな体躯のあきらは軽い。横抱きにした豪は、部屋のバルコニーに連れていく。すっきりと晴れ、星と月が光っていた。


「おほしさまだ…」

「ああ、きれいだな」


今、言うべきではないと、豪は思った。ふわふわした頭に伝えても、明日には記憶がない。そうなってもらったら、困るから。


「ごう、まえがみ、くすぐったあい」

「ん?ああ、風でか。ごめ…、っ」


突然の、キス。

いつも耳に掛けている豪の髪が風に煽られ、あきらを擽る。それを直そうと手を伸ばしたあきらがそのまま、豪の顔を引き寄せた。


「えへへ、さっきの、つづき?」

「…ばかやろ…っ」


かわいい。

本当に、コイツは。


「…とっとと酔い、覚ませ」


本当は、自分が彼女をとろとろにしてやろうと思っていたのに。ふにゃりと笑う彼女に自分がほだされ、顔がとけてしまうなんて不本意だ。豪は自分の失態を誤魔化そうと、あきらの甘いアルコール分をすべて奪うように、深い、深いキスをした。



____________



夜風に当たりあんなキスをされればさすがに目も冴えてくる。横抱きを下ろしたら、足元がよろけた。咄嗟に豪の袖を握ると、腰を支えてくれた。


「っと、あぶね。大丈夫か?」

「っ!」

(豪って、こんなに…)


出会った頃は、相手を鼻で笑うような人だった。同じ弟でも、啓介はやんちゃで、豪はワガママ。子供っぽいんだから…と、何度も思った。でも、富士で友達になって、峠でも走って、お互いを知って、好きになった。相手の気持ちをわかってくれる。痛みを、喜びをわかってくれる。独占欲が強くて、ときどき、猫みたいに甘えてくる。けど、


(そんな目、わたし、知らない)


しょうがねェなとやさしく笑う、豪の目。付き合ってから今まで、こんな、ふんわり笑う豪を、見たことがなかった。それは、愛しくて愛しくてたまらないと、伝わるほど。


「風呂、いくか」
 
「…ん」


ふたりで初めての旅行。いつもと違う時間の流れ。それがこの、とても甘い空気の原因だとするなら、それはそれでいいと思った。このまま、豪に乗せられてみよう。大丈夫。もうこれ以上ないくらい、私も彼を、愛しているから。


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「わあ…っ」

「こりゃすげェな」


全部で3つある貸切風呂。あきらの好きなやつ選べよと言われ迷い迷った結果、大きな切り株をくり抜いて作った天然木の浴槽に興味が湧いた。木の質感があたたかく、見た目にも面白い。加えて、浴室から続く外へのドアを抜ければ石造りの露天風呂。灯篭の柔らかい光りが、色付いた木々たちを幻想的に照らしている。はしゃぐあきらの楽しそうな表情に、豪はくすりと笑った。


「脱がせてやろうか」

「ばかっ」

「残念、浴衣で代官ごっこしたかったなーオレ」


何なら無理矢理でも…とあきらの帯に手をかけた豪は、ぱしりと頬を叩かれた。まあいっか、あとで好きにさせてもらうからと笑いながら、あきらが背を向けている間にさっと脱ぎ捨て、先に浴室へ入る。


「どーお?」

「あー…いいわー…」


タオルをあてて、あきらは掛け湯をする。切り株の浴槽に浸かって、豪は至福の息を吐いた。


「少し深いぜ。足元気をつ「きゃあああッ!」ぶはッ、おま、この…ッ」


なんてお約束な。滑って顔から突っ込むとかマジかよ。そろりそろりと浴槽に脚をかけたあきらはそのまま、濡れた木の質感に滑ってダイブ。ばっしゃん、とかけ流しの湯が溢れ、豪の顔面に思い切りかかった。自分に倒れ込んだあきらを支え、起き上がらせる。


「おい、あきら、平気か」

「うう…なんてご迷惑を…」

「ああもー、オレってばマジで水も滴るイイ男じゃね?」

「…はい、ええ、仰る通りですね、豪さん、ほんと、すみません…」


支えてくれた豪を見れば、濡れて波打つ髪を掻き上げる、文句なしの良い男がニヤリと笑っていた。企み、何かを含むようなその笑顔。そうだ、これには見覚えが。『テメェのアニキたちを負かしてやる』と息巻いていた、あの箱根戦だ。


「こーのー、じゃじゃ馬姫が!」

「きゃああああははははっ、ちょ、っと、やめ、あははは!」


決して広くはない天然木の浴槽で、じゃれるふたり。あきらは騒ぎに紛れて気付いていないかもしれないが、今、豪の目の前には、あきらの全裸が晒されている。付き合って何度も肌を重ねてはいるけれど、いつもと違う状況で触れて溢れた欲情を、豪はあきらをからかうことで隠していた。


「ちゃんとまわりを見やがれ。だからお前はいつも警戒心がねェっつってんだ」

「はい…仰る、通りで…」

「…ほんと、もう、これ以上、やめてくれ」

「…豪?」


同じく頭からずぶ濡れのあきらの、しずくが滴る髪を掻き上げてやる。ぽか、と見上げる無垢な瞳。額に小さくキスを贈り、火照るからだを冷やしに豪は露天へ出ていった。



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「豪、」

「んー?」


露天の縁に腕を凭れかけ、豪は空を見ていた。灯篭の光があってもしっかり見えるほど、今日の星の瞬きは強い。


「…こっち、来いよ」

「ん」


ぱしゃん、とあきらが湯に足を入れる。さっきまでの欲情はとうに消え失せ、今はただ、この風情ある情景を愛する人と一緒に見ていたかった。豪は極自然にあきらを招き、膝の間に座らせる。それにはあきらも素直に、豪の胸元に背中を預けた。


「…やっとまともに触れた」

「…ばぁか」

「……きれいだな、今日は、特に」

「うん…やっぱり箱根って、星、きれいに見「きれいなのはあきらだ」……え」


肩に顎を乗せ、あきらの腹の前で腕を組む。これから話すこと、聞いてほしいことを、全部、伝えたいから。離しはしない、もう、絶対に。


「GT戦で頑張ってるあきらも、オイルにまみれてクルマ直してるあきらも、さっきみたいに警戒心のないあきらも、オレは全部、好きだよ」

「豪…?」

「警戒心のなさは、ホント勘弁だぜ。峠でもサーキットでもお前はもっと自分を大事にしろ。まあ、オレが見ていてやるからいいとしてだな。それもお前のかわいいトコロだから許してやる」

「なにそれ、喜べないんだけど」

「…どんなときも、お前は、きれいなんだ。見た目以上に、心が、さ」

「…」

「アニキの一件で、オレはお前から離れた。すっげェ、後悔した。別にお前が悪いワケじゃないのにな。アニキ同士の問題なのに、あきらにまで八つ当たりして…ガキだった。それでも、お前はずっと、オレが富士に戻ってくることを待っててくれた」

「…」

「待っててくれて、嬉しかった。オレを、信じてくれて、ありがとう。だから、今度は、オレの番…な」

「ん…」


すん、と鼻を鳴らす音。思い出して、泣いているのだろうか。


「笑って、泣いて、怒って、叫んで、そんでまた、笑って…ってさ、そんなあきらを、オレは見ていたい。ずっと、となりで」

「…」

「返事は、今年のGT戦がすべて終わるまで待つよ。あきらがオレを待っててくれた時間に比べれば、短いモンだ。だから、」


湯が、動く。

豪はあきらと正面から向かい合う。

啓介と闘ったあとに見せた、堂々とした瞳と同じ、迷いのない、強い瞳で。



「オレと結婚してくれ」



過去を思い出して、泣いていたのではなかった。

こんなにオレは、お前を想っているんだよ。その気持ちが、預けた背中から伝わってきたから。


「あーもー、ほんと、お前ってすぐ泣く」


ぽたり、ぽたりと湯に落ちる涙。喜びに溢れた目元に、豪は約束のキスを贈った。



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ずっと放ったままだったスマートフォンを見れば、着信とLINEの驚くべき数。出発前、『兄と弟から研究所に連絡があってもスルーして』とハヤトに言付けたけれど、まさか履歴欄が埋まるほど直接かけてくるなんて考えもしなかった。ゲンナリと表情を暗くした恋人を、豪は怪訝に思う。


「ハヤトさんか?」

「だったらまだいいよ…」

「……マジか」

「……マジです」


来たとき同様、澄んだ空を頭上に赤いNSXは森を走る。せっかくだからドライブして帰るかと、馴染みの峠を経由することになった。ご機嫌だったはずのあきらから深いため息が聞こえ、これは早急に妹姉離れをしてもらわないと将来的に大きな障害になると豪は思った。いや、恋人になった当時から既に障害ではあるのだが。普段のデートでさえいい顔はされず、今回の旅行だってあきらは兄弟に内緒で出てきたほどだ。


(エンゲージリングを贈るまでに、なんとか策、立てねェとな)


勝負はGT戦が終わったあと。あきらから正式に返事をもらって、ちょうど12月といったところか。涼介と啓介にしてみれば、赤いソリならぬNSXに乗った悪のサンタクロースが、煙突から爆弾という名のプレゼントを投下していく、兄弟の人生で最悪のクリスマスとなるだろう。




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サイトオープン2周年を迎えました。改めまして、皆さまいつも本当にありがとうございます。

豪さんのプロポーズは今後予定している企画で書くつもりだったのですが、先日訪れた奥飛騨の旅館が素敵すぎて急きょお話に使いました。景色も、お湯も、お料理も、時の流れも、すべてが素晴らしい場所でした。お宿の情景や季節の景色など、伝わっていれば嬉しいです。思い浮かんだプロットが最初から最後まで脱線せずに繋がってお話にまとまることもあまりないことだったので、自分でも驚きながら仕上げました。やり尽くした感が…いっぱいです…。わたしはとにかく豪さんの髪を濡らしたかった!大満足!

2014,11月アップ