春の子守唄


真夜中に目蓋が何の抵抗もなくすっと開くということは、まったく眠れていなかったのだろう。蓄光の時計は、午前二時。からだは疲れているはずなのに、頭が冴えてしまっている。無理矢理寝ようとしても、こんなときはいい夢なんて見られない。自分をよそに寝息を立てる彼を置いて、そうっと寝室を出た。

眠れないときのホットミルクは、母から教わった特効薬。翌日にレースを控えた夜は緊張のため必ず寝付けなかった若輩の頃と違って、今はもうベテランだ。同じく翌日レースを控えている今晩、緊張はしていない。別の何かが、休息の邪魔をする。

ミルクパンに牛乳と少しの蜂蜜を入れた。沸騰直前に火を止め、揃いのマグに注ぐ。指先も冷えていたのか、器の温かさが沁みていく。

(着信…)

リビングに置きっぱなしのスマートフォンが光っている。明日の起床時間をセットして置いたままだったらしい。ソファに腰を沈め、履歴を開いた。



受信
お兄ちゃん
宛先:trf-takahashi@xxx.ne.jp
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件名なし
2015年5月2日 0:25
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すまんが、富士へは観戦に行けそうにない。
ホームコースでの良い勝負を祈ってるよ。

啓介に勝て。
豪にもそう伝えてくれ。

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「当然、ですよ」


あの日から、もう何年経ったっけ。



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最終戦。夏の大観山。


「随分と悠長なんだな、チーフメカ様は」


どうしても観に行かせてくれとチームに無理を言って出向いた、プロジェクトの最後の日。弟の相手が豪だと知ってからずっと、もやもやと複雑でいた。在籍するチームガレージに居ても、戦況が気になってしまって仕事にならなかった。役立たずな自分は邪魔なだけだ、なら駄目元でと監督に願い出たらアッサリだ。お目付け役のリーダー、ハヤトと共に、今に至る。


「豪」

「久し振りだな」


兄率いるプロジェクトDベースに立ち寄る前に、彼の人に声をかけられた。少し拓けたそこは、サイドワインダーのベース。


「テメェのアニキたちは、ココの反対側だぜ」

「そのようね」

「おいおい、なんだよその態度」

「…誰に向かってそんなことが言えるのよ」


*****


豪と出会ったのは三年前。富士スピードウェイでの走行会だった。排気量の関係で同じクラスで走ることはなかったけれど、お互い意識して観ていたのはこの頃からだった。あきらは、揃って兄弟で走っている姿に共感を持った。豪は、小柄な少女が大きな四駆を扱う姿に興味を持った。

『面白いのに乗ってんね、おねーさん。うるせーからギャランかと思ったぜ』
『そちらこそ。消費の激しいNSXをとっても気持ちよさそうに運転されるのね』

少しだけ皮肉を交えた、最初の言葉。クルマと走りとサーキットが繋げた出会い。大学で整備の勉強をしながらメカニックの卵として活動していること。箱根を拠点に走り屋チームを組んでいること。互いの素性を知ってからは、富士で会ったり箱根で会ったり、徐々に間柄が深くなった。いちばんの、友達だと思った。


『なあ、あきらのアニキって、群馬で相当の走り屋か?』
『うん、そうだよ。白いFCに乗ってるよ。知ってたの?豪』
『ほら、これ』
『わ、雑誌に掲載されてるの?ふふっ、ちょっとこれは恥ずかしいかな』


熱心な後輩がいる
同じ医学部で、白いFCに乗っていてな
飲み込みが早くて、医学もクルマも、教えていて楽しいよ
そいつは高橋涼介っていうんだ


凛が言っていた後輩とは、あきらの兄だと豪は知った。凛に教わって、自分は速くなった。掲載されるほどならば、兄に手解きを受ける彼も相当なウデなのだろう。

『いつかあきらのアニキと走ってみたいな』
『豪負けるよ?』
『うっせ』

雑誌を見ながら、ふたりで笑う。いつも一緒にいたから、お互いのチームメイトからは恋人かと何度も間違えられた。その度に、『気心知れた親友』だと訂正して。


それから一年が過ぎた、夏の日。


『え、豪来てないの?』
『はい、今日はエントリーしてないですよ。お兄さんも来てないですし』

連絡を取らずとも走行会に行けば豪に会える。しかし必ず揃って参加していた兄弟の名前が、リストになかった。エントリーには事前予約が必要であるから、数ヶ月前から既に出走予定はなかったのだろう。それだけではなく、最近は拠点の箱根でも、豪の姿を見ていない。どこにいるのとメールを送っても返事がない。兄の凛とは少ししか面識はないため、連絡先を交換していなかった。所在が、掴めなかった。

(変ね。ウソをついてまで、どうして)

何かあったのかと、豪のチームメイトに話を繋げてみた。信じられなかった。


『豪さん普通にいつもこっち来てますよ?富士のレースはクラス変えて、あきらさんと同じ排気量で走ってるって…、え、あれ、オレ、なんかマズいこと…』


どういうことなの
私を避けてるの


(なにか気に障ることした?いつも通りだったじゃない、どうしたのよ豪)


それきり、富士でも箱根でも、豪を見かけなかった。それが、二年も続いた。



*****



「私を避けて、どこで走り込んでいたのかしら」

「まあ、いろいろとな。ちゃあんと富士でも走っていたぜ」

「そのようね。走行記録を見させてもらったわ。私が絶対富士に来られない日付になってた。コチラのスケジュールをよくご存知で仕組んでいたのね」


二年振りに会ったというのに。こんな会話しか出来ないほど、冷めてしまったのか。


「何しに来たんだよ」

「随分な言い草ね、心配して観に来たのに」

「テメェに心配されるほど落ちちゃいねーよ、自分の心配でもしてろ」

「誰が豪の心配って言った?弟に決まってるでしょ」

「だったらさっさと向こう行けよ」

「呼び止めたのはそっちでしょ」


最終戦に行けば、絶対、会えると思った。
ずっと言いたかったことが、あった。
二年間、ずっと聞きたかったことがあった。


「…女ってのはすぐ泣くな」


言いたいことが、聞きたいことが、なにも、出てこない。


「…っ、るさ…ッ」


連絡しても返事がなかった。
馴染みの場所に行っても姿がなかった。
私ばかりが、避けられていた。

辛かった。

会いたかったよ。


「勝手にいなくなって、ウソまでつかれて、連絡もくれない、会ってもくれない、私にばかり冷たくして、あんたは、なにがッ、なにがしたいの!私が、何をしたっていうの!なのにチームには普通で、何も変わってない!わたしばかり、豪を追ってた!それなのに、やっと会えたのにッその態度はなによバカ!」

「うっせーなンな喚くなよ」

「二年間、ずっと、ずっと豪を探してた!理由なく友達がいなくなったら誰だって探すでしょ!こっちの気持ちにもなれってんのよ!」

「くっそめんどくせェ。おい久保さん、ちょっと時間くれ」

「へ、はあ、いいでっけど」

「ちょっと!ウチのあきらちゃんどこ連れていくのさ!」


暖機されたNSXの脇を通って、腕を引かれる。どこへ向かうのか。ギャラリーに紛れ、草むらの茂みに入っていく。足場が、深い草でふわふわした。どんどん進む豪のペースに着いていけなくて、とうとう躓いた。だけど、


「泣くなよ、もう、頼むから」


無理矢理引かれた腕をそのまま、胸に抱かれた。あきらは今、気持ちが爆発して、乱雑な言葉をぶつけて、泣き喚いて、二年間溜め込んだ思いがぐるぐるとからだ中にひしめいている。それなのに突然抱き締められては、戸惑い、混乱するのも無理はなかった。


「はなしてッ、もうやだ、こんなのもう、やだぁ…!」
「離すかよバカ!だまってろ!」
「やぁっ…、ん、…ふぅ…ッ」


覆いかぶさる強引なキス。けれど、とん…とん…、と、背中をやさしく叩かれる。あきらのキャップが落ち、豪は髪を撫でた。呼吸が落ち着くまで、ゆっくりゆっくり時間をかけて、豪はあきらに口づける。


「涙、見せんな。弱いんだよオレ」
「な、に…?」
「お前に泣かれたら困るっていうの」


はぁっ、と呼吸を戻す。真っ赤な顔と涙目のあきらに見つめられて心に刺さるものがあるが、出来るだけ見ないように、こつんと額を合わせて、豪は語った。


「ごめん」

「…」

「避けてて、ごめん」

「…ッ、ひ、っく」

「ちゃんと、話すよ」

「ご、う」

「…二年前、オレのアニキが、恋に堕ちておかしくなっちまった。オレがずっと尊敬してたあのアニキがだぞ、たったひとりの女にぞっこんでさ、しかも、三角関係っていうんだぜ。…もう一人の男、だれだと思う」

「…知らない」

「お前のアニキ。高橋涼介だ」


びくんっと、あきらは身じろいだ。豪はからだを離し、今度はしっかりあきらの目を見て続ける。


「アニキはずっと家に帰って来なかった。恋に溺れ、愛する女を後輩に奪われ、しかもその女、立場が辛くなったのか自ら命を絶ったんだ。ショックでアニキは壊れた。オレはそんなアニキが信じられなくなった。恋する男が、みじめに見えたんだ」

「だからって、なんで、わたしを」

「アニキを壊したのは後輩…お前のアニキだとリンクしてしまったんだよ。オレは…、お前のアニキを恨んで、間接的にお前を壊してしまいそうだった。……お前に、惚れた女に、酷く当たる前に、気持ちを忘れようと、お前から離れたんだ」

「……惚れ…って、いうか!なんで、さっき、き、キス…!!」

「…ここまで言わせて、まだ言えってかよ」

「ちょっと、ごめ、整理させて…!ええっと、お兄さんと三角関係で、ウチのお兄ちゃんが絡んでて、で、好きって、」

「うん」

「さ、避けてたのって」

「だからごめんて。連絡くれたのも椿に来てたのも知ってんだよ、知ってて避けてたんだよ。ああもうそうだよ、かっこ悪ィよオレは。好きな女泣かせてなにやってんだよ」

「え、ちょ、わあ!」


がしがしと髪を掻き、豪は情けない自分へ向けてため息を吐く。それから、腹をくくった男の顔であきらの肩を抱き、真っ向から告げた。


「オレは、友達とは思ってないの」

「ひ、ひどい!」

「あのね、お前人の話ちゃんと理解しろよ」

「だって、わたしずっと、豪をいちばんの友達だと思って探してたのに!」

「いちばんの友達も嬉しいけど、それ、もう卒業させてくれ」


わたわた焦るあきらの前髪を上げ、デコピンをひとつ。その可愛い額に、愛を込めてキスを。




「ずっとあきらが好きだった」





_______________





「どうした」

「あ…ごめん、起こしちゃったね」

「眠れないのか」

「んー、ちょっと」


懐かしくなって、思いを馳せていた。手元には、全勝を成し遂げたプロジェクトDの記念写真。それと、仲直りして、でも啓介に負けて悔しくて笑っていない豪とのツーショット。


「返事はオレが勝ってからでいいよとか、カッコつけすぎ」

「今さらぶり返すなよ」

「負けたし」

「だから言うな」


あの日から、たくさん時間が過ぎた。拓海と啓介は、カテゴリーは違えど共に世界で走っている。そして先日、啓介が国際戦を終えて帰国した。今季スーパーGTの第二戦、今はその前夜だ。


「あんな走りを見せられちゃ、惚れない方がおかしいよ」

「へえ、それは初耳」

「悔しかったから言わなかったの」


D1で表彰台常連の豪と、S耐やWECで揉まれ成長した啓介。拓海は参戦しないが、ふたりの再戦を観に行くと約束してくれた。


「今度はどっちが勝つかしらね」

「アイツ帰ってきたばっかじゃん。疲れてハナシになんないぜ」

「啓介と戦えてうれしいクセに」


薬指に光るプラチナの輝きは、幾分か落ち着いた。しっくりと指に納まり、そこにあることが当たり前になった。写真を持つあきらの左手を取り、豪は指輪に口づけを。


「あきら」

「ん」

「一緒に勝とうな」

「はい」


結婚して数年。お互いを尊重し、仕事は辞めなかった。スポンサーの繋がりあって、今季は夫婦同チームで戦っている。ミーティングもレースも、いつも一緒にいられる。分かり合える関係だからこそ、精神的に大きな支えになる。勝利を、一緒に喜べる。


「お前以上に、心強いお守りはいないよ」

「本当かな、この前ガールズと仲良くしてたのはどなただっけ」

「あれはSNSに載せるからって撮られただけだって…、なあ、コッチ向けよ、勝利の女神サマ」

「…ばあか」


ソファの背もたれに縫い留められ、豪が覆いかぶさる。このまま流されちゃったら明日が心配だなあ、なんて、近づく吐息を感じながら思っていた。


「ちょっと、やだよ豪」

「んー、やだダメ」

「待って、ってば」

「待たない」

「あっ、さっきお兄ちゃんから豪宛にメールきてたの!」

「無視しとけ」

「お、お兄ちゃん、応援してるって!」

「…はあ、もう、お前ってどうしてそうなの」

「え?」


あとちょっとだったのに。調整だのトレーニングだのと、最近『ご無沙汰』だったのだ。験担ぎ…ではないが、いつまで経っても愛らしい妻に触れて、英気を養いたかった。それなのに、いつまで経っても彼女の頭から消えない兄弟の存在に時々、妻にとっての優先順位というものを問いただしたくなる。訊いたところで、『どうしてそんなこときくの』とかなしい顔をされるだろうから訊かないが。いちばんの友達が、いちばんの恋人になり、今はいちばんの夫だと、思ってくれているだろうか。


「…マシンだけじゃなくてオレもメンテしてほしいぜ」

「なあに?」

「なんでもないよ。で、メールって?」


覆いかぶさる体勢から直り、あきらのとなりへ座る。腰に腕をまわしからだを密着させて、スマートフォンを操作する手元を一緒に見ていた。


「…応援、っつか、プレッシャーじゃねェか」

「そう?」

「『啓介に勝てるものなら勝ってみろフフン』て言ってんだろあの似非アニキめ」

「お兄ちゃんはやさしいから、どっちも応援してくれてるんだよ」

「ふん、絶対勝ってやる。なんたってこっちはあきらが一緒だもんな」


隙アリ…と、先ほど頂けなかったあきらの口唇を奪う。悪戯が成功した少年のように、ぺろりと舐めて。


「…もう、ちょっとだけだからね」

「あれ?許してくれるの」

「言わせないでよ、ばか」


真っ赤に照れながら、豪のスウェットをきゅっと握る。可愛い仕草に頬が緩み、豪は幸せそうに笑った。


「おいで、あきら」


ずっと一緒にいよう。
もう二度と、さみしい思いはさせないから。
一緒に勝って、一緒に笑おうな。
どんなときも、何年経っても。


「オレの、いちばんの愛しい人」



おしまい