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殻を打ち破る音を、産声を、
さあ、響け
replica.
『500クラスに興味はないか』
監督から告げられたのは先月の菅生ラウンドの反省会が終わったときだった。少し残れと、ファクトリーのガレージで。
「ああ、来たか」
「少し遅くなっちゃった」
「啓介もまだだ。かまわないさ」
高崎市街の大通りから外れた、静かな路地。趣のある料亭のような佇まいの店構えに騙されて入れば、少々強面だが優しい老大将が切盛りしている値段も手頃な大衆居酒屋。数年前に店を見つけ、そのギャップと味に最初に惹かれたのは涼介だ。
「お嬢いらっしゃい!待ってたよ!」
「こんばんは親父さん。ごめんね、全然来てなくて」
「頑張ってるねぇ!レース観てるよ、いつも楽しそうでなによりだ!」
ほかほかのおしぼりが指先をじんわり温めてくれた。楽しそうと言われ、少しだけ苦笑い。
「梅酒。ソーダ割りください」
「はいよ」
「車じゃないのか?」
「今日は御殿場だったからそのまま電車乗り継いで来たの。車、ファクトリーに置いてきちゃった」
「明日も仕事だろ」
「うん。課題たっぷり」
「じゃあ電車通勤か。早めに出ろよ、混むからな」
「いいね、満員電車に揺られてOLさんみたい。でも、痴漢されちゃったらどうしよう」
「そりゃいかん。この親父が連れ添ってあげるよ。はい梅酒。お通しもどうぞ」
「ふふっありがと。大丈夫、バッグにいつもちっちゃい工具入ってるからやっつけちゃうよ」
「どんだけだよアネキ。バッグに工具入れてるOLなんて聞いたことねーぞ、武器かよ」
カウンターに涼介、左にあきら。そのまた左の椅子が引かれ、啓介が到着した。足音を忍ばせ、そろりそろりと近付き、いつの間にか背後にいたらしい。大将から見て正面にいた啓介は目を配らせ、『気付かせるな』とナイショのサインを送っていたという。
「大成功だなあ啓坊ちゃん!」
「おうやったな親父!ナマくれー」
「オレも頼む」
「はいよ」
嬉々として啓介はジッポに火を灯す。兄妹弟三人が揃うのもいつぶりかと、これまた大将も嬉々として、ビールサーバーにグラスを傾けた。
「親父さん、たこわさちょうだい」
「アネキおっさんかよ」
「いいじゃない好きなんだもん。今日は呑むの」
「ははは、けっこうなことだ!はいよ坊ちゃんたち。お嬢ちょっと待ってな」
手元にグラスが揃い、たこわさも置かれた。仲良し兄妹弟だけの、小さな宴会のはじまり。
「アニキもアネキもおつかれー」
「お兄ちゃん啓ちゃんおつかれさまー」
「あきら、啓介、お疲れ様」
ちりんちりんとガラスが軽く触れる音が、大将の口角を優しく上げた。数年前からとりわけ涼介がよく通ってくれることで、大将は高橋家の素性を既知である。 涼介が若くして院長補佐になったことも、あきらが長く車業界に携わっていることも、啓介がWEC…世界耐久戦に出走が決まったことも。
「親父、頼む」
「はいよ涼坊ちゃん」
奥に下がった大将と、自分を見てにっこり笑う兄と姉。なんだよと、啓介は呟く。 料理を提供するため少し段差のついているカウンターのそこへ、大きな一升瓶が静かに置かれた。啓介の目の前だ。
「なに…」
「木札の毛筆はオレが書いた」
「お兄ちゃん達筆よねー」
「ちょ、ま、親父ナニコレ」
「いやあ、啓坊ちゃんがデカいレースに出るって聞いたもんでなあ!お二人からいい酒探してくれって!」
「オレとあきらから景気づけだ。世界に名を残せ、啓介」
「WECおめでとう!がんばってね啓ちゃん!」
「まじかよ…」
瓶の首にかけられた木札は、ボトルキープ用のもの。そこへ、涼介の毛筆で書かれた『高橋 啓介』の名前。自分の分まで走れと込めたかのような、雄雄しく力強い筆跡だった。カウンターから瓶を持ち上げ、啓介は愛おしそうに目を細める。その様子を、涼介とあきらはやさしく見つめていた。
「親父、筆、あるか」
「おう」
「アネキ、頼みあんだけど」
「なあに?」
木札の空白…啓介の名前の両端、ほんの少ししかない場所へ、『アニキとアネキの名前も書いてくれ』と、啓介はあきらへ筆を託す。
「オレが今走ってられんのは、オレの実力だけじゃねぇ。アニキとアネキの名前なくして、この酒は飲めねーよ」
「啓ちゃん」
「だからさ、書いてよ名前。これは、三人の酒なの」
「私細かいの苦手…」
「メカが何言ってんだよ」
「お習字下手だよ、いいの?」
「アネキに書いてほしーの」
「う…」
嬉しいことを言ってくれる啓介のために、既にアルコールが入り正常ではない頭を集中させ、あきらは筆を滑らせる。啓介の右に涼介、左にあきらの名を。
「おー、いいじゃん!」
「あ〜…失敗しちゃったあ」
「なかなかじゃないかあきら。上手だよ」
「ほんと?じゃあ、まあいっか!」
「まあいっか、って…はあ〜ホンット、アニキはおいしいトコ持ってくんだもんなー。なあ親父!瓶開けてくれ!冷グラス三つも!」
見ているこちらが笑顔になる。この兄妹弟は相変わらず仲が良いなと、大将は親のように見守っていると言う。歳を重ね、自分の仕事に責任や役職が付けば自然と家族は疎遠になりがちな昨今なのだが、彼らにその世情は関係ない。『忙しいからこそ時間は作るものだ』と、いつか涼介が言ったことを思い出した大将だった。
「幸せモンだなあ、啓坊ちゃん」
「ああ、恵まれすぎて怖ェよ」
「……」
「どうした、あきら」
「ううん、なんでもない。ね、もういっかい乾杯しよ?」
恵まれている。
それは自分も同じだ。
だけど自分は、
恵まれたチャンスを、
伸ばされた未知の手を、
疑い、ためらっている。
「乾杯したら、ふたりに話したいことがあるの」
_______________
『来シーズン、ですか』
『お前ももうすっかり業界人だ。キャリアもある。いい話だと思うがなオレは』
『でも、私はまだ、若輩者です』
『だから尚更だ。若者にはまだまだ伸び代がある。オレが与えた知識以上のモンを向こうで吸収してこい』
ファクトリーのガレージで、監督に言われた来季のポジション。日本の自動車メーカーが背景につくワークスチーム、GT500への移籍についてだった。まだ今年のレースが残っているし、自陣のことで精一杯なのにと、あきらは俯いた。
『…わたしは、イヤだよ』
『あきら、すぐに返事を出せと言ってんじゃない。よく考えろ』
『だって、まだTRFでシリーズチャンピオン獲ってない!今ここから離れるワケにはいかないよ!やりたいこといっぱいあるのに、マザーシャーシの話だって…』
『あきら』
『わたしはここにいたい。チームのみんな大好きだもの。ハヤトも、メカのみんなも、監督も、好きだもん…』
現在のTRFは、今季残りのレースで例え優勝が続いたとしてもチャンピオンには届かない位置にいたが、総合5位の前年をクリアするため成績を伸ばしてきた。しかし、成績に順ずる重量制度やマシンとタイヤの不合がTRFを失速させている。パーツメーカー、提携タイヤとも、そろそろ来季への話し合いを進めていく…そんな時だった。あきらの涙が、ひとつ落ち。唐突に言われ戸惑い、何かをなくしたように頭がぽっかりと空白になる。
『オレは、お前が大事だよ』
『だったら、ここにいさせて。ワークスには、行きたくない』
『お前のためなんだぞあきら。一流のメカになってこいよ。オレはお前にもう充分、クルマのなんたるかを教えたぞ』
『わたしのためってなによ!それはわたしが決めることでしょう!こっちの気持ち全然わかってないじゃない!』
_______________
「それ、いつの話?」
「今月の頭…。次のオートポリスまでに返事をくれって」
「時間もあまりない、か…」
「…ワークスに行けるなんて機会、滅多にないことだし、所属したくても出来ないメカもきっとたくさんいると思う。話に上がったのは、監督のお師匠さまのチームなの。だから監督も、私に行ってほしいって」
「何ソレ。アネキの意思無視してね?」
「次戦までに考えろって言われたの。どうしたいか、自分で決めなきゃ…だけど…」
啓介に贈った酒を、今度は熱燗にしてもらった。空になった猪口をくるくると弄っている手元を、涼介がそっと止める。銚子を傾げ、あきらの猪口へとくとく注いだ。
「行きたくないんだろ、あきらは」
「……うん…」
「ワークス体制が苦手とか嫌いとも違って、ただ単に」
「……うん」
「オレぁ別に500も300も変わんねー気がすっけどよ。燃リスがあるかどうかとマシン供給がメーカー指定のモンになるだけじゃないの?」
「300にはいくつかカテゴリーがあって、それぞれにレギュレーション規定があるの。日本が決めてるルールと、世界基準のルール。私たちは日本…JAF規定のレギュレーション内であれば、何をやっても何を作ってもいいの。まるでプラモデルの改造してるみたいにね」
「なるほどな。ワークスになれば、そう簡単にも出来ない、か」
自由度。それは果たして、ワークスには本当にないのだろうか。それこそ、自ら経験してみないとわからないことだ。縛りはあれど、限られた中で勝利するからこそ、勝利の重みが増すのではないか。そのためには今よりもっと、シビアに、ストイックにならなくては。更に成長し、甘美の酒を味わってみたい。だが。
「あきらにとってTRFは、家族だな」
「……ん、」
「家から出たくない。とても居心地のいい部屋から外へ出たくない……最近、成績が低迷しているのは、自分にも責任があるんじゃないのか、あきら」
「アニキそりゃ言い過ぎじゃねぇか!」
今、どうにかしなければと突き進んでいることが空回りしているのは確かだった。辛うじて得ているポイントも取ったら取った分の枷となり次のレースが苦しくなる。それを打開したチームにしか優勝は与えられない。さすがは涼介だと思った。兄に映る自分の姿はごまかせなかった。チームに守られ、感情は隠せていたと思っていた。自分の判断に、迷いが出てきたことは、確かだった。
「お前が仕事に手を抜いているとはさすがに考え難いがな。ポイントを稼いでいることは結構だが、ピット作業に細かいミスが多いと思うぞ。菅生でペナルティももらっていただろう」
「あれは…っ!」
「そのピットをまとめるのは誰の仕事だ。オレには、お前がずいぶん『甘えた』になったと見える」
「おいアニキ!」
「……現状を踏まえて、お前はこれからどうしたい。何年メカニックをやっているんだ、あきら」
自分を守り育ててくれる環境に甘えていながら、大して成し得てもいないのに移籍なんてただの逃げでしかないと思っていた。
(成長を約束された道は進むべきだろうか?)
(安心する部屋にこもったままでいいのだろうか?)
(差し出された未知への手は怖くないだろうか?)
逃げることでやってくる不安にぶつかり恐れ他と交わる勇気もない。それなら、安心できる今の場所で結果を出せば文句なんてないだろう。
だけどそれと同時に、自分はいつの間にこんなに弱く臆病で、挑まず、愚かになったのかと思った。
「あきらはどうして、メカニックになりたかったんだ?」
そんなの、私じゃないって思った。
_______________
「お前の弟、いい走りするようになったなあ」
「本当ですね〜。啓介くん、来季ウチと契約してくれないかなあ。あきらちゃん誘ってみてよ」
「いやよ、ハヤト自分で言って」
世界耐久戦の国内ラウンドが開催されているこの週末、あきらたちTRFは揃って富士スピードウェイへ観戦に来ていた。スポットとは言え世界耐久シリーズ初参戦の啓介に、国内レース関係からの注目は高い。なかなかの走りをしていることもあって、期待値が上がりそうだ。
「約束は今月末だぞ。考えはまとまりそうか」
「はい」
「なんだ?えらいスッキリした顔だな」
「啓介だって自分でWECの参戦を決めたのに、お姉さんの私が負けてるのは、悔しいもの」
啓介が参戦するにあたり、各媒体から様々な意見が飛び交った。既存の若手ドライバーには世界戦経験者も多い中での啓介の抜擢。期待より『どうして高橋なんだ』と落胆の方が多かった。
「監督から頂けたチャンス。恵まれすぎて怖いって思いました」
偉大な監督サマのお名前あってVIPルームへ招待されたあきらは、ウェイターにサーブされたシャンパングラスを傾げ、こう告げる。
「来年。これよりもっと美味しくて幸せなお酒をプレゼントします。『TRFの私』として、私が監督に贈る最高のね」
「…来年か。先方はそれまで待っちゃくれないぞ」
「待っていただきますとも。待ってでも私が欲しいと、言わせてみせます。それとも監督はご自身の教育に自信がないと?」
「お前言うようになったじゃねェか」
「…ズルイ答えを出して、ごめんなさい」
必ずそちらに行くと約束した。
だから、一年の猶予がほしかった。
メカニックとしての姿勢を正すために。
そのときは必ず、クラスチャンピオンの称号を持って行くから。
「二年後にはどうなってんだろうな、あきらは」
「作業着の色が青になることは間違いないですね」
「はあ…オレもお前に甘くなったなあ。オレがアチラさんに怒られるじゃねェか」
「監督はあきらちゃんに嫌われたくないんですもんね、反省会のときだってあのあとすっごく落ち込んでましたし」
「言うなハヤト!」
そうだ、本当の自分は、メカニックになりたかった自分は、
(強くて速いマシンを作って優勝すること。それだけだったよね)
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「いらっしゃいお嬢!今日は一番乗りだよ!」
「あれ、お兄ちゃんたちまだ?じゃあ、親父さんに一番に見せちゃお」
「おや嬉しいね。なんだい?」
二年後の冬、あの居酒屋で。
「ひゃーさっぶ。親父、熱燗な」
「ああ、あきら。今日は早かったんだな」
暖簾をくぐり、冷たい外の空気を連れてやってきた涼介と啓介。今日の宴会を誘ったのはあきらだ。
「残念。坊ちゃんたちより先にお嬢が見せてくれるところだったんだがな」
「へ?なにアネキ?どーいうこと?」
「えへへ。今日はこれ、持ってきたの」
啓介に贈ったあの酒は、あれから既に数本空け、その都度新しく追加されている。しかしその瓶の首に下げられた名入りの木札に真新しさはなく、味のある艶色に変わっていた。木札と共に下げられるは啓介が二年前初参戦したWEC富士ラウンドでのゴールドメダルと今季惜しくも敗れたシルバーメダル。
「親父さん、これも一緒に下げておいてくれる?」
「ほ〜これが例の!大切に飾らせてもらうよ」
啓介のものと合わせて下げてあるあきらのメダル。ひとつは、約束を遂げた一年前の刻印。そして。
「選ぶものも、ほしいものも、私はたったひとつでいいの」
啓介は、疑わずに自分は恵まれていると言った。
涼介は、ためらわずに自分を信じろと言った。
あきらが『自分自身』になって勝ち取った、ふたつ目のゴールド…今季GT500クラスチャンピオンのメダルが添えられた。
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あまり頭文字Dしていなくてすみません。真ん中のGT500ステップアップを書けたらいいなと思っていたので、3周年記念に書かせていただきました。タイトルは坂本真綾さん『レプリカ』より。
誰だって居心地のいいところから動きたくないですよ。チーフの立場でやり残したことがあるのに来季に突然移籍しろなんてそりゃあ断りますって。だけどそれでいいのかと彼女は葛藤します。もらった成長のチャンスを流していいのか。現チームで遂げていないことをクリアすることも大事。大恩ある監督の願いも聞き入れたい…でも成績が伸びていかないのに余計なこと考えたくない。涼介啓介の言葉もあり、彼女はオートポリスに向かう前に既に決断しました。それが自分自身の原点に帰る節目となったようです。あれこれ考えるのは自分じゃない。『レプリカ』に打ち勝ったんですね。ところで監督のお師匠さまと言えばどなたでしょうか?お気付きの方も多いと思われますが#100号車の御大です。お名前はもちろん伏せております。
改めましていつもご訪問ありがとうございます。サイトオープンから3年が経ちました。常連さま、一見さま、皆さまのご支持あって続けております。本当に、感謝が絶えません。最近ちょっと鬱気味でしたが、私も真ん中のように打ち勝たねばと思い過ごしております。ご迷惑やご心配等々お掛けしまして申し訳ないです。生きてますので、今後ともどうぞよしなにお願いいたします。
2015,10,31
【SZY.】りょうこ