お兄ちゃんと私


「お兄ちゃん、英訳教えて欲しいんだけど…」


今、平気?と、控え目なノックが三回。

何かを頼みたいときの、妹のサイン。

自動車工学の大学に通う、あきら。

オレの、大事な妹だ。



「いいぜ、入れよ」



開いたドアの向こうに、はにかんだ笑顔。手には、普段リビングに置いてある簡易チェア。


――教えて貰う気満々だな。


ありがとう、とオレの傍に来たあきらに、自然と優しい顔になる。


「忙しくなかった?パソコン、何か勉強してたんじゃ…」

「大した作業じゃないから大丈夫さ。ノート見せてみろよ」


簡易チェアをオレのデスク側に置いたあきらは、PCを覗き見、ノートを開く。


「…お前、授業はどうした?今日は平日だろう」

「今日は試験休みなの。範囲がかなり広いから、昨日徹夜してたんだよ」


それでも終わらなくて、頼ってきたのか。

平日の昼間、あきらは部屋着のままだ。一日部屋に籠るつもりなのだろう。かく言うオレも、大学は午後休だった。


「啓介にも見習わせたいな、あきらの姿勢」

「啓ちゃんは無理よ、机に向かってる姿なんて似合わない」


確かにな。じっとしていられなくて、ふて寝がオチだ。


「さて、と。参考書貸してやるから、先ずは自分で英訳してみろ。添削してやる」


こくん、と頷き、参考書を受け取り、机に向かう。

顎に触れるほどのショートボブの黒髪を、耳にかける。

さらり、髪が揺れた。






見つめる、妹の横顔。

母親に似て、丸い大きな目。

深い黒色の瞳。

オレや啓介のような、切れ長の目でなくて、

あきらのこの丸い瞳が、オレは好きなんだ。


その目をもっと見たくて、前髪に触れた。


「…なぁに?顔に何か付いてる?」




現れた、丸い瞳と




額の傷



「…まだ、少し残っているな」

「…全然気にならないよ、ワガママ言った私が悪いんだから」













「おにいちゃん、ふたりのりしてみたい」


あきらが小学校に上がった年、涼介と手を繋いで遊びに来た公園で、自転車で遊びに来たのだろう年上の小学生たちを見ながらそう言った。そのうちの数人が、自転車の二人乗りをしていたらしい。


「むりだよ、ぼくはまだ自転車に乗りなれてないし、転んであきらがケガしちゃったら大変だ」


涼介、小学二年生。最近、少し大きめの白い自転車を買ってもらったばかり。


「…でもたのしそうなんだもん…」

「あのお兄ちゃんたちはぼくより背が大きいから、出来るんだよ」


背丈だけではない。あきらを後ろに乗せて走る力が、涼介にはまだないのだ。


「…おにいちゃんの、うしろ、ぎゅってしててもだめなの…?」


俯き、残念がるあきらを、どうにかして笑顔にしてやりたかった。

だが、自分に二人乗りは出来るのだろうか。

幼い涼介は、不安もあるが、少しばかりの可能性を信じてみた。


「…おうち帰って、お父さんに相談してみようか。お父さんが、いいよって言ったら、乗せてあげる」


少し困った顔で、あきらを覗き込む。


「ほんと?」

「ほんと」


それから、パッとにこにこ顔になったあきら。

二人で、また手を繋いで家に帰った。

父にお願いして、傍で見てもらいながら、近くの広場で練習をした。










「…あの時、あの石に気づいていればな」

「大泣きだったよね、私」

「父さんのあの慌て様は凄かった」

「とてもお医者さんには見えなかったねー」


父の監視下の元、二人乗りの練習をしていたとき。目線を進行方向に向けていた涼介は、足元にあったコブシ程の石に気付かなかった。それに車輪を取られ、大転倒した二人。涼介は腕を擦りむいた程度だったが、あきらは額を切ってしまった。見守っていた父は、医者とは言い難い程に動揺し、慌てふためいていた。挙句、『お父さん落ち着いて』と、涼介に言われる始末。額の傷は深いものではなかったが、あれから長年経った今も、その跡が残っている。


今後一切、妹に傷を負わせないと、心に決めた小学生の涼介。その気持ちは、大学生になった今も、変わらない。だが、大学の実技やメカニック業で生傷を増やす妹に、いつもヒヤヒヤさせられている(顔には出さないが)。…これが、どこかの輩に付けられた、ともなれば、この兄は黙っていないだろう。大事な妹が他の男に取られるなんて考えたくもない、涼介なのだった。


「ところで…、自工大でも基礎教科の試験なんてあるんだな」

「車ばっかり触ってちゃ、それこそ正真正銘、車バカになるわよ。単位ちゃんと取らなきゃ」

「問題ないだろう、あきらなら。オレが教えなくても、全問正解なんだから」


自分で見てみろと、渡されたノートと解答。教えてほしいと頼んだ英訳は、兄に頼むことなく、すべて正解だった。


「さて…、教えてほしいのは英語だけか?」

「うん、徹夜したおかげで、他の教科は終わってるの」


そうか、と、何やら兄は考えた。


「オレはこの後、予定がなくて困っているんだが」

「…は?」

「勉強が一段落したのなら、『二人乗り』でもどうだ?」

「……ふふっ、自転車で?」

「生憎、オレにはあきらを後ろに乗せて走れる力がないからな。自動車で良ければ、だが」

「じゃあ、今度は後ろじゃなくて、隣に乗るね」


着替えて準備してくる、と、自室に戻ったあきらを見て、涼介は微笑んだ。








大事な妹を守るのは、兄の、男の、役目だ。




前に立ち、降りかかるすべてのものから妹を守りたい。




隣に立ち、妹の細く華奢な肩を自分の腕で守りたい。





彼女を守るのは、啓介でもなく、オレだけでいい。




今は、


まだ















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来冬にカナダ旅行を予定してまして、折角なら英会話も楽しみたいとスピー★○△ニングを注文しました。


…余談すみません。

実際の自工大では、基礎教科の勉強もあるそうです。だんなさまの母校は、ほんとの基礎の基礎、中学レベルくらいだったみたいですが(特に英語)整備士さんの勉強って数学と物理と技術が固まったもののようなんでしょうねー、わたしムリ。



2012,07下書き
2012,09アップ