誰かの願いが叶うころ
高橋啓介の猛進は果てがないのかと、とある解説者が番組で言っていた。国際A級を持ちながらどのチームにも入らず、かと言ってどのチームに入るか迷っている様子でもなく、国内外のレースに一時だけのゲストメンバーとして走っていたのが、去年のこと。
今年4月。スーパーGT初戦、岡山国際サーキット。マシン配給のタイミングが各々のワークスによって前後し、調整の時間もなくぶっつけ本番を迎えたGT500クラスとは違い、300クラスはほぼほぼ前年同様、充分にマシンを仕上げて持ってきていた。まだ春を迎えて間もない岡山は、日中であっても肌寒い。さゆは路面温度を確かめるついでにと、コースの下見に向かった。そのときだ。
「なんで、いるの…?」
『オレはGTには行かねェ』と、過去何度も、確かに言っていた。そして現在は知り合いのツテで海外にいると連絡をもらっている。しかし前方にいる集団の中で、ふよふよと浮いている金髪と横顔と、背中と、歩き方。さゆが見間違えるはずはない。一緒に下見をしていたクルーを放置し、さゆは集団の一点へと駆け出した。背中に向かって、思い切りダイブ。
「うおおおお!びっくりした!ってダレ…っ、!?」
「啓ちゃん!なんで、どうして!GTに来るなら来るって言ってよ!」
やはり啓介だった。どんっと背中に抱きつけば、振り向いた弟が『マズイ』と零す。
「あー…アネキ、その、」
「エントリー、名前、どこにも書いてなかった」
「うん、ちょっと、急だったもんで…」
見れば啓介のブルゾンに、フライングMの社章。このチームが、何故ずっとドライバーを公表しなかったのか。さゆは合点がいった。
「マツダスピード…」
「そういうことですよ、TRF高橋チーフ」
首から下げたタグにはディレクターの文字。さゆはキャップをとって会釈した。
「復帰、おめでとうございます監督。マツダさんがいない間、ウチはずいぶん勝たせて頂きました」
「これはまたお上手な。しばらくですね、そちらの皆さんもお変わりありませんか」
もう4年前になるのだろうか。GT戦からロータリーが撤退し、マツダ車がサーキットからいなくなったのは。GT300クラスで来季のみ参戦すると昨年度に発表があったときは、それはもうロータリーファンにはたまらない朗報だった。それこそ、さゆ以上に、涼介が喜んだほど。ただ、チームクルーの紹介はあっても、ドライバーは一切知らされなかった。マシン開発に専念し、そのときはまだ決まっていなかったのだろう。そう思っていた。だが開幕間近の3月になっても話に上がらず、マツダスピードの参戦自体、嘘だったのかと示唆されたくらいだった。そして、今日。
「ドライバー発表を、開幕戦になさるなんて」
「彼は素晴らしいロータリー乗りだ。今まで数々のレースで他の駆動式にも乗っているだろうが、やはり馴染んだマシンが一番なんだろうね」
「エントリーはFDですか」
「当然でしょう」
どうやら公に告げるのは明日の予選らしい。しかしもうこの時点で、チームマツダに啓介がいるとスタンドの一般客に知れ渡ったのだから、今ごろネット界では騒ぎになっているだろうなとさゆは少し、息を吐いた。
「アネキ、ごめん。隠してて」
「はあ…もう、びっくりだよ。啓ちゃんは絶対GTに来ないって思ってたのに」
「話に乗ってくれてチームは嬉しいよ、啓介くん。弟さんを、しばらく預かりますね、チーフ」
厄介だ。相当、厄介だ。
啓介がマツダスピードに来るまでの戦績は、全部、さゆの頭に入っている。まさか、敵になるなんて。
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『苦戦してんな』
「…うん」
『マツダより上に行ってねェじゃん』
「開幕してからずっとだよ…本当、なんであんなに乗れてるのよ」
TRFチームファクトリー。10月のタイ・ブリラムから帰国してすぐに11月最終戦への調整が始まった。ドライバー、コンストラクターズ共に、マツダスピードが現在トップ。次いで、TRFが狙っている。その差、1ゲーム。しかし、最終戦でコチラがトップに立ち、さらに先方が3位以下でないと、TRFのチャンピオンは夢に終わる。なんとしてもマツダを防がなくては。チーム主要メンバーがモニターに集まり見つめるは、マツダスピードがクラス優勝した第6戦の鈴鹿1000km。長丁場になれば、勝てる要素となるウィークポイントもどこかで見えてくるはずだと、リーダー、メカニック、エンジニア各々が、各々の立場で追及していた。さゆのポケットが振動し、彼女は一旦退室する。
「そちらは調子が良さそうね」
『おかげさまで』
「ごめんね。この間の台場、観に行けなかった」
『いいって。ソッチ優先してくれよ』
「ありがとう、豪」
電話の相手は、北条豪。兄の凛と家業の経営を支援しながら、自身はD1やジムカーナで活動している。プロ転向まで、あと少しといったところだった。
『…さゆ』
「なに?」
『もしかしたら、オレ、』
「…豪?なにか話でも「さゆちゃん、ちょっと」はーい!ごめん豪、またあとでかけるね」
『ん。ミーティング中、悪いな』
「ううん、じゃあね、ばいばい」
扉の向こうで話していたさゆを、リーダーのハヤトが呼ぶ。自分が退室している間にチームが出した次戦への対策は、突然の思いつき以外なにものでもない、とんでもない内容だった。
「突然じゃないよ。元々、僕は視野に入れていたことなんだ。最終戦だし、この際やってみようよ」
"向こうがルーキーなら、こっちもルーキーをぶつけてみる"
最終戦たった1戦で何が変わるのか予想が出来ない。だが、その予想だにしないハラハラした状況が、好きなのだ。ウチの監督とリーダーは。
「ドライバー契約や諸々は任せておいて。さゆちゃんたちはマシンに集中しててね」
ああ、今年はなんて、波乱が多いのだろう。啓介にとっては華々しくても、自分にとっては常に暗中模索の年だった。現状の崖っぷちで下された賭けに、さゆはいい顔が出来ない。今からルーキーを加入させて、間に合うとでも言うのだろうか。啓介の相手が務まるドライバーでないと、加入の意味がない。マシンとのシンクロ、ドライバーの癖、好みのセッティング…最終戦の茂木まで、ひと月もないのに。それらを把握出来るのだろうか。不安がたまってたまって、さゆは深く長い息を吐くのだった。
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数日後、富士スピードウェイでのテスト走行にて。ウォールスタンドで思慮深くラップタイムを見つめる顔に、監督が声をかけた。
「いいじゃねェか、なかなか」
「そうですね」
「…どうしたさゆ、不満か?」
「いいえ、その…下手に知り合いなだけに、やりにくいというか」
四駆ベースの市販車を、レースではミッドシップシャーシに変えているチームマシン。どんなコースでもバランスが取れ、扱いやすい。
「ルーキーテスト、先週合格したそうです。ライセンスも問題ありません」
「ほう」
既存チームドライバーの富士ベストタイムを基準とし、タイムアタック。試走とは思えないタイム差でチェッカーを切った。
「箱根でハヤトが見つけてきたって?」
「その前に一度会ってます。走りも、そのときに見てますよ」
ふたりのとなりで、ハヤトが無線で何かを聞き出し、書き留める。走り書きを受け取ったさゆはガレージに戻り、メカニッククルーとともに準備にかかった。
「僕は彼でいけると思います。どうでしょ」
「よし、ドライバー3人エントリーしとけ。"ルーキー勝負"でいってみようや」
速度を落として帰ってきたマシンに駆け寄り、さゆはドアを開けてコクピットを覗く。訊けば試走の反応は良さそうだった。一度ガレージに入れドライバーの細かい要望も聞きながら、メカニックたちの作業が始まる。すべての道の原点…箱根の山で培われた彼の腕は、土壌が変わっても健在であった。
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「D1の成績、みたよ。表彰台おめでと」
「そりゃどーも」
「いつのまに合格してたの」
「ルーキーテスト?驚かせたくて黙ってた。ごめん」
「……この話、いつから」
「夏…が終わる頃かな」
「…はあ…まさか豪と組むなんて。未だに信じられないよ」
『啓介くんの相手は北条くんしかいないと思ったんだ。さゆちゃんも彼の走りには詳しいでしょ?』
あの夜の箱根。さゆとハヤトは、プロジェクトDの最終戦を観に行っていた。ただ祈って、無事の終結を願うさゆ。いちギャラリーではなく、チームを担う人間として見るハヤト。当時ハヤトは、じゃじゃ馬NSXを相棒に操る柔軟なテクニックを、稀に見る才能だと絶賛していた。どうやら数年前のそれにピンときたのだろう。マツダスピードとのポイント差がシビアになってきたのは正に夏。今後の対策として考えていることを伝えにハヤトがサイドワインダーを訪れたのも、夏だった。
「ハヤトはあの戦いを再現させたいのかしら」
「だったらオレの負けじゃん」
「啓介と豪をぶつけること、よ。結果まで再現されちゃ面白くないわ」
車体の中心にエンジンを乗せて。相棒と同じ駆動式だから尚更かもしれない。走り慣れた既存ドライバーと同等のタイムを、一度の試走で出してしまうのだから。数字は嘘をつかない。ハヤトの施策に疑問はあれども、彼の腕は信頼できる。最終戦の大博打。さゆは一度、空を仰いだ。
「…あなたを信じて、マシンを預けます。みんなで勝ちましょう、北条選手」
「ああ、よろしく頼む。高橋チーフ」
テストが終わり、片付けも終盤。仕事の顔で向き合った。握手を求めたさゆの手を、豪はそのまま引き寄せた。
「ご…、ッ」
「弟に勝ったら、ごホウビくれよ」
「…別にいいけど。私に用意できるものであれば」
「…お前がほしい」
パドックに、ふたり。ガレージで作業するクルーにはチーフとドライバーがマシンの相談をしているようにしか見えないだろうが、彼らからそんなに離れていないパドックで、豪はさゆの耳で囁いた。
「好きだ」
返事はオレが勝ったらでいいよ。
する、と指の背で頬を撫で、豪はガレージに戻っていく。ぽかん…と呆けたさゆは、クルーから呼ばれるまでずっと、パドックに立ったままだった。
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「…き、あーねーき」
「、あ…」
「どしたの、無口になって」
「ん、ごめん。考えごと」
「オレのこと?」
「…かもしれないね」
レース前のオフ。サーキットを離れれば、いつも通りの仲良し姉弟。父の元で勤めている多忙な涼介がいないのは残念だが、休みが揃った啓介とさゆは、郊外のカフェのランチへ。ふかふかでゆったりしたソファに深く凭れ、さゆはマグを手に息をつく。姉の少ない口数が気になった啓介は、苦笑をこぼす。
「今年さ、なんか、ごめんな」
「なにが?」
「GTには、来ねぇっつってたのに」
「もう、言わないでよそんなの。勝たなきゃいけない相手が増えて、こっちはいい刺激になってるからさ」
「ん…でも」
「信頼できるチームなんでしょう?だから今の戦績なんじゃない。私に遠慮する必要ないんだよ、啓ちゃん。自分とチームのために、勝ちなさい」
とは言ったものの、目の前のポイントリーダーにどう勝てというのか。その秘策として、豪の投入なのだが。当日…フリー走行の金曜日にメンバーを発表する算段なので、いくら今がオフだからといって話せる内容ではない。努めてさゆは、啓介に向かってにこりと笑った。
「このあとどうしよっか。今日一日予定ないんだよな、アネキ」
「うん。お買い物でもいく?」
「いいよ。あとさ、夜に赤城いこーぜ。アネキと一緒なのも久しぶりだし」
ソファから立ち上がり、スカートの裾を直す。身支度を整えている間に、啓介がトレイを下げてくれた。ざっくり編んだニットコートを羽織り、こつんとヒールを鳴らす。待っていてくれた啓介の手を取って、主人の帰りを待つFDへ乗り込んだ。
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「んーさむいねー」
「あーでもやっぱ落ち着くわ赤城」
いつもの駐車場、いつもの定位置。平日の夜の走り屋は割と少なく、ぽつんぽつんと停まっているだけだった。兄弟たちが一世を沸かせたあれからも、いつの時代でも、赤城道路は公道レーサーにとって大事なコース。馴染みすぎたヒルクライムを走る横顔は、とても穏やかだった。
「…さゆ」
「ん」
きゅ、と啓介がうしろから包む。昔と違い、からだを考えタバコを控えた弟からは、紫煙ではなくやさしいかおり。名前を呼べば、それはキョウダイではなくなるスイッチ。
「隠し事、なし。な?」
「…でも」
カフェでの様子が気掛かりだった。話して楽になることなら聞いてあげたい。啓介は抱き締めるさゆの頭に顎を乗せ、言葉を待った。
「…啓介、」
「ん?」
「怒らない?」
「オレがさゆのことで怒ったことある?」
「…覚えてない」
「ほれ、いいから言ってみ」
腹の上で組まれている啓介の腕に、手を添えた。姉弟でお出かけ…もとい、"恋人とデート"のために仕上げたネイルが、街灯に光ってきらきらしている。
「だれにも、言わないで。お兄ちゃんにも、マツダさんにも」
「アニキはわかるけど、なんでチームもだよ。レース関係か?」
言っていいものか。さゆは一度、口唇を締めた。
「………最終戦、ウチに、北条豪が入るの。ドライバーとして」
「………は、」
「あとわずかなポイント差が、どうしても詰められない。峠出身の高橋啓介は、北条豪が止める…あの箱根戦を見て、チームで、決めたの」
「おい、マジかよそれ…!」
「まだ発表されてないから、絶対にんんッッ!」
くるりとからだを反転させ、真正面から啓介はさゆの口唇を塞いだ。細腰に腕を巻き付け、片方は後頭部に添えてふたりの隙間をなくす。呼吸を奪うキスは激しくなり、苦しさにとんとん…とさゆは啓介の胸を叩く。
「っ、はぁ…も、なに…啓」
「なあ、しばらくずっと、アイツと一緒…?」
「…少なくとも、最終戦までは」
「さゆは、これでいいのかよ」
「…最初は、悩んでた。けど…豪のドライビングを見れば、さ」
低く囁く声は、直接脳に響くようだった。ぎゅうっと強く抱き締められ、上から切ない声が続く。
「……北条、アイツ昔っからさゆのこと、」
「…それも、この前」
「は!?告られたのかよ!?」
「う、うん…」
「っちゃー…ンだよ…ってまさかOKとかしてねェよなさゆ!」
「し、してないしてない!」
キョウダイでコイビト、という内緒事は、涼介にしか話していない。誰にも知られてはいけない秘密を抱えている。豪とは特に仲が良くまた走り仲間であるが、それ故に過去にも何度か、想いを告げられている。その度に、断りを入れているのだが。
「…『啓介に勝ったら、お前をくれ』って…」
「…」
「啓、きゃっ」
「ぜってーやらねェ」
もう一度強く抱き締め、さゆの心に届くように。ゆっくりゆっくりと、啓介は告げる。
「チャンピオンも、さゆも、オレは絶対に渡さない。負けてたまるか」
(…ああ、おなじ、だったな)
啓介も、豪も、勝利への執念は、同じもの。あのとき。箱根の夜と同じ、自分と相棒を信じて誰にも負けないプライドを賭けた、男の瞳をしていた。
「約束」
「ん?」
「一緒にシャンパン浴びてくれ。ポディウムのいっちばん高いところでさ」
「豪に勝てるかしら。私情抜きで言うけど、彼は本当に速いんだから」
「ンなこと知ってら。せいぜいオレの後ろでがんばってくれよ」
にしし、と挑発しながら笑う顔は楽しそうだった。チャンピオンを獲得するだけじゃなく、北条豪に勝つこと。啓介の負けられない目標が、ひとつ増えた。挑むものが増えれば、それは啓介の成長の元となる。厄介になったと、またひとつ息をついたさゆを、啓介はやさしいキスで宥めるのだった。
_______________
「ストレートが多いから、加速勝負もできるかな」
「そっから一気にブレーキだろ。コーナーのRもキツいから、足回り、左右のバランス見てくれよ」
「豪が曲がりやすいようにしてあげる。任せてね」
最終戦の朝。昨日の予選で決まった決勝のグリッドは3番手。最初からインコースを攻めていける好位置に着いた。11月初旬の早朝は冷える。かじかむ手に息を吹きかけ、さゆと豪はチェックのためコースを歩いていた。豪から聞いた注文を、セッティングシートに書き込んでいく。寒い中で手袋をしていないのは、ペンを持つため。
「さゆ」
「んー?」
「ちょい手、貸せ」
レーシングスーツの上から着ているベンチコートの中は暖かいボア仕様。ポケットも同様で、豪はさゆの冷えた右手を取りそこへ突っ込んだ。
「ちょっ、だれか見てたら!」
「いいじゃんオレたちトモダチなんだし。仲良しってだけで済むんじゃね?」
「そういう問題じゃないってばもう!文字も書けないしー」
ぷう、と頬を膨らませて睨んでも、豪にはまったく効かない。逆に可愛がってやりたいと思うだけだ。
「忘れてねェよな、オレとのこと」
「…ん…」
「オレ、マジだから。今度こそ、お前を振り向かせてやる。覚悟、しとけよ」
身長差で、こちらを見下ろす豪の瞳。二度と負けるかと、闘志に燃えていた。こつん、と額がぶつかる。吐く息が、白い。相手の温度に触れるギリギリのところで、口唇は止まった。
「見てねーとでも思ったか北条」
「…高橋」
どうやら自分たちの後ろから来ていたらしい。コースチェックに集中していて、近付いていることなど気付かなかった。
「ご活躍はカネガネ。全レース観させてもらったぜ」
「そらどーも。お宅こそ、D1でハデにやってんじゃねーか」
一触即発。 しかし、ポケットで繋がる手はそのままだった。
「豪、手」
「黙ってろさゆ」
「あー、アネキから離れてくんねーかな」
「啓介も。タンカ切らない」
「離れんのはテメェだろ、いつまでシスコンでいる気だよ」
「"家族"を好きでワリーか。テメェこそトモダチの分際でナニ手ェ繋いでんだよ」
「オレの大事なメカニックなんだぜ、本番のためにあっためてあげてんの」
「は、オレの、ね。アネキを自分のものにしたってのか」
「夕方にはそれをハッキリわからせてやる。高橋、テメェに勝ってな。行くぞさゆ」
「ちょっ豪!啓介!」
早足でコースを歩く豪の後ろから、せかせかとさゆが続く。ふたりの背中を見て啓介はひとつ、舌打ちを落とした。
「相変わらず仲良しですね、北条豪とさゆさん」
「ふん」
「イライラだめですよ啓介さん。すぐハンドルに出ますからね」
「わーってるよ宮口。絶対ェ負けねーかんな」
プロジェクトDからずっとFDを看てくれている宮口とともに、啓介はコースチェックを続ける。一般客の入場ゲートが開くアナウンスが流れた。さあ、今季最後の大舞台。最終戦もてぎラウンド、グリーンシグナル点灯まで、あと、6時間。
_______________
「グリッド出ます。よろしくお願いします」
ピットウォークとグリッドウォークが終わり、最終戦だからかいつもよりたくさんのインタビューを受けたドライバーたちも少しだけ息を吐く。ポイントリーダーのマツダスピードと高橋啓介に追って続くはTRFとそのドライバーたち。エントリーは3人。250kmの勝負の中で、監督はどこで豪を投入するのか。さゆにもまだわからないことだった。グリッドのマシンとともに待機中のファーストドライバーとの最終確認に、さゆは一度コースへ出る。
「ウチがマツダに勝ったら、さゆの恋人になるかもしれないんだろ?北条くん」
「へ?」
「さ、オレたちも頑張らないとな。啓介を負かしてやろうぜ」
ぽんぽん、と分厚いグローブで頭を撫でられた。とにかく今は、私情を捨てよう。チームの優勝が最優先。相手が愛する弟だろうが、関係ない。抜き去るのみだ。
「武運を」
「任せとけ」
フォーメーションラップの合図が鳴る。小走りでピットに戻り、リーダーのハヤトのそばへ駆け寄った。
「なんで知ってるの」
「なにが?」
「豪が啓介に勝ったら、って」
「さあ?どうしてだろうね」
「おしゃべりハヤトさんめ」
「チームが勝たなきゃいけない理由が増えて、ますますやる気になるじゃないか。さーみんな、最後の一戦だよ!悔いのないように全力で楽しもう!」
ハヤトと監督が並んでウォールスタンドに座る。さゆを筆頭に、ピットクルーが配置につく。チームガールズたちも固唾を飲んで見守る。セカンド、そして豪は、モニターの中のグリッドを見つめていた。
(まさか啓介が中盤スタートだなんて…どうしたの…なにかあったのかしら)
15番手、マツダスピード。
3番手TRFとの距離を、どうにか最後まで保ちたい。だけど、
(啓介)
FDにトラブル?宮口くんは何をやっているの?ちゃんと改善出来たのかしら?
「大丈夫だろ」
「え?」
「きっちり差を詰めてくるよ。でないと、面白くねェじゃん」
マシントラブルくらいで諦める男じゃない。だから昇ってきたのだ、ポイントリーダーへの道を。
「うん」
実況が高らかにコールする。豪と一緒に見つめるモニターのシグナルがグリーンへと。轟音が響き、闘いが始まった。
_______________
『いいよ、その調子。タイヤも良さそうだね、どんどんプッシュしていこう』
『さゆ、2周後にピットな。フロントの状態見てやってくれ』
『了解です。ハヤト、4番手との差は?』
『うーん10秒ちょいかな』
『もっとマージンが作れれば、4本とも変えます。いいですか?』
轟音と歓声のサーキットでは、インカムのやり取りが必至である。ピットガレージとウォールスタンドとの短い距離でも、しっかり情報を伝達するためにインカムを使う。第1スティントも終わりの頃、シケインを抜けた直後のラップタイムは順調に推移し、いよいよピットへ戻る周回だ。チームラジオで話すドライバーの明るい声が『手応えあり』と伝えてくる。
「啓介…」
無理、してない?
各チームがざわめき、それぞれのマシンを迎える準備が始まった。しかし、マツダの動きはまだない。スティントが長すぎやしないか。
「すごいな、何台抜く気だ」
「1ピットで済ますつもりでしょうか」
スタートを任されたのは啓介。それからずっと第1スティントを長く引っ張っている。各車がピット作業中に、マツダの順位はどんどん加速していく。
「始まってからもう、1、2…4台抜いてますね」
「まずいな…さゆ、出来るだけ早くピット出してやれ。啓介より前に出るぞ」
『…了解』
監督とリーダーの指示に、ピットクルーに緊張が走る。からだの天辺から末端まで、神経を集中させていた。
『豪』
『はい』
『啓介、止めてくれるか』
『…やりましょう』
ピットインでのドライバー交代。チームのインカムで、走るドライバーも、ここにいるクルー全員にも、伝わった。
高橋啓介と北条豪の正面対決。足が、ぶる…と震えた。
「ここで見ててくれ」
「豪、」
「勝とうな」
イヤホンを付け、フルフェイスを被る。セカンドドライバーと固い握手を交わし、豪はピットレーンへ出て行く。
(だめ、しっかりしなきゃ。わたしは今、どこにいるの。勝たなきゃいけないのよ)
ぱん、と頬を叩く。豪に続き、戻ってくるマシンを迎えた。
_______________
『(スリックがあまり減ってない…!)監督!このまま行けます!給油だけで、第2スティント持ちます!』
その間わずか5秒。ピットレーンに入ってくるマシンの挙動と、スピードが弱まり完全に止まるブレーキの効果を目視し、さゆは判断した。4番手とのタイム差を更に2秒ほど拡げ戻ってきたマシンのタイヤは、とても良い状態で表面が溶けていた。それを確認した監督も頷き、交換するつもりでいたクルーたちは手を止め、給油のみの作業をこなす。
(豪!)
乗り込み、離れる間際。さゆに向かって手を上げた。お前を信じて、いってくる、と。
「やさしく走ったからね。タイヤ、大丈夫だっただろ?」
「ありがとう、すごくいい感じだった」
「好きなのかい?」
「…どうでしょうか」
「かっこいいじゃないか、彼はいいドライバーになるよ」
ファーストドライバーが仕事を終えてフェイスマスクを脱ぐ。チームへの貢献心、啓介との再戦、さゆへの愛…豪を動かす強い想いに、揺らいでしまいそうだった。
『タイヤ無交換とは思い切ったもんだ』
『監督』
『ラップタイムと挙動を見れば、まだまだ行ける足だ。ま、啓介に勝つためにはオレもそうしたかな。悪くない判断だ』
『ありがとうございます』
『その分、シャーシに負担がくるぞ。抜かるなよ』
『はい』
豪が出てすぐ後、マツダスピードに動きがあった。しかしそれは、ルーティン以外のもの。あとから聞けば、タイヤを使い切るまで第1スティントを伸ばす作戦だったらしい。TRFのピット中、コース上で何があったのか。実況の声はまるで聞こえなかった。記録を撮っていたクルーによると、FDは他のマシンと少し掠るほどの接触があったという。
(カナードが!)
モニターに映ったリプレイ。フロントバンパーの横に付けられた、空気を流してダウンフォースを出すパーツ…右のカナードがなくなっていた。少しとは言え、時速200km近い車速なのだ、ダメージは大きいだろう。
(啓介、焦らないで。大丈夫よ、まだ一度目のピットじゃない)
今日の自分は、どこかおかしい。
メカニック、姉、恋人、友人…どれもが混在して、ぐるぐるした感情のままここに立っている。足がふらつく。
豪のマシンは、2番手のマシンを射程に入れた。小柄なミッドシップは、ぶれることなく相手を捉え、空気抵抗のないスリップストリームに入った。最終ヘアピンの立ち上がりは、さすがあのNSXを扱うだけに滑らかにクリア。長距離のバックストレートで2番手を抜き、いよいよ、トップのマシンへ。その頃、啓介はようやくピットを終えて走り出していた。やっと、2台がコースで相見えるときがきた。
だけどそれを、見守ることが、出来なかった。
気付いたときには、轟音も歓声もなく、秒針の音だけが聞こえた。もう、夕陽が射していた。
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(情けない)
倒れたのか。ガレージで。
(あたま、痛…)
どうなったの、レースは、結果は。
「けいすけ…、ご、う…」
「さゆ?」
「アネキ、起きた?」
ぼんやりする頭で呟いた。小さなその声を拾って、レーシングスーツのままのふたりが眉を潜めて見つめている。
「ん…」
「ああほら、無理すんな」
「オレ、先生と監督呼んでくる。高橋ちゃんと看とけよ」
「すまん北条」
医務室。きし、とベッドからからだを起こすと、啓介が背中を支えてくれた。豪が退出したあと、糸が切れたように啓介から力が抜け、そのまま、抱き締められた。
「レース終わって、パドックにさゆいなくて、TRF覗いたらめっちゃバタバタしてて…、医務室とか救急車とか聞こえて、さゆが、倒れたって、オレ、おれ…っ」
「…啓介」
首に埋もれる啓介から深いため息と、ぐす、と鼻声がした。泣いてるの?と聞こうとしたら、喉が乾燥しきっていて声が出なかった。代わりに、一所懸命走っていた、重責を背負った大きくて愛おしい背中に、手を回した。
(聞かなきゃ、レース)
「さゆ、」
「っ、こほ、なに?」
「…オレたちが、勝ったよ」
「……そ、っか」
「TRFのマシン、後半トップだったんだぜ。FD、接触してからちょっと調子悪くなっちまって。ずっと変な挙動が出てたんだ。緊急ピットに何度も入ったよ。だけどその間、TRFも異常があったんだ」
「…予感が、的中したのね。足に負担がかかることはわかってた。ドライブシャフトでしょう」
「それがなかったら、オレたち、完全に負けてた。めっちゃ速ェんだもん北条」
「そ、か……はは、タイヤ、変えておけば、よか、った、かな…そしたら、足、軽くなって、勝っ」
言葉が何も出てこなかった。
喉が引きつるような嗚咽と、ぼろぼろ流れる涙。姉として、恋人として、啓介とマツダスピードの優勝は嬉しい。だけどフィールドが同じならその感情は邪魔で、倒さなくてはいけない敵になる。それも優勝がかかっている一戦では、おめでとうと、素直に言えなかった。複雑な涙が止まらなくて、ついには呼吸もままならず、こほこほと咳き込む。啓介が背中をさすっていると、豪が医者と監督を連れて戻ってきた。平気かと労る監督に、また涙が溢れた。
「かん、とく…わたし、なんてことを…っ」
「レースの話は今は忘れろ。打ち上げは後日にするから、今日はもう安静にするんだぞ」
「血圧がとても低いの。貧血を起こしたときに頭を打っているから、一度脳外科にかかった方がいいかもしれないわ」
「茂木なら、北条よりウチのが近いか。アネキ、帰りにアニキんとこ行くからな」
「ん…ありがと…、ごめんなさい、少し、北条くんとふたりにしてくれませんか…」
輪に入らず医務室の入り口で待っていた豪は、呼ばれさゆに近付く。医者と監督が去り、啓介が出て行く間際に一度だけ豪を見た。牽制…というより、任せたと、慈愛のような目だったと豪は言う。
「心配した」
「ごめんなさい」
「…はー…びびった…」
ベッドサイドに座り、正面からさゆを抱き締める。お互いレース直後の恰好で、オイルやらタイヤのにおいがした。
「負けたよ」
「…うん…」
「だけど最高のレースだった。コースレコード、オレが塗り替えたよ」
「…そっ、か」
「任されたからには結果をって、思ってたけどな。やっぱ、すごいよ、お前のいる世界。…オレ好みのいいマシンをくれて、ありがとな」
「…ご、」
「泣くな」
泣きたいのはコッチだよと、豪はさゆの髪にキスをする。
「オレは諦めてないから。誰よりも、強くなってみせる」
それだけ言ってもう一度強く抱き締める。髪をするりと撫で、豪はさゆから離れていった。
_______________
「MRIは問題ない。だが血圧がまだ正常じゃないから、手足に若干の痺れはあるようだな。一日だけ入院していけ」
「でもお兄ちゃんわたしすぐ行「返事」……はぁい」
高崎市、高橋総合病院。到着した頃すでに時間外だったが、夜勤の涼介が看てくれた。問題ないならすぐにチームへ戻りたい。だが兄の、若先生の圧力には逆らえない。
「啓介、これからは追われる身だ。GT戦に残るにしろ離れるにしろ、チャンピオンの称号があるからには敵がもっと増える。忘れるなよ」
「わーってるよアニキ。ちぇ、素直にお祝いしてくんねーのな」
「ふたりのどちらかが必ず獲ると思っていたからな。どちらにしても、オレは嬉しいよ」
さゆのバイタルを書きながら、個室で兄妹弟、語り合う。ベッドに寝、まだ血色が戻っていないさゆの頬を撫で、涼介は笑った。
「さゆ、お疲れ様。いろいろあったろう、もう眠りなさい」
「ん…ありがと」
「オレ、いるから。大丈夫だぜアニキ」
手を振って涼介と別れた。個室に、啓介とふたりきり。
「…すごく、考え込んでいたのね」
「ん?」
「レースに私情を持ちすぎたわ。倒れたのも、きっと、自業自得」
「…さゆ」
「なあに?」
「オレ、もっと強くなるよ。走りも、心も。どうにも、今回は焦っちまった。予選でまさかの中盤グリッドになったしよ…。さゆと北条が一緒にいるって、すっげー悔しくて、オレがいないときになにやってんだろとか、インカムでなに話してんだろとか、気になって仕方なかった。接触したのも、オレのモチベーションが原因だ。まだまだガキだって、思い知った」
「啓介」
「マツダからロータリーのドライバーにならないかって声がかかって、やってみたいと思った。まさかスーパーGTに参戦だとは、びびったけど…さゆの世界を見たかったし、一度戦ってみたかった。でも、あークソ!スッキリしねぇ!もっかいやりてェ!」
「…ふふっ」
「だから、ポディウムの約束はまた今度な。もっともっと強くていいオトコになったら、一緒に乗って。ね?」
啓介が触れたさゆの手は、まだひんやりしていた。両手で包んで、あたたかさを譲るように。
「それまで、これ、なくさないで」
仕事を終え、まだ少しオイル汚れが残っているさゆの指。右手を取って、啓介は輝く薬指に口付けた。
「前に赤城で言ったよな。北条にも、だれにも…うーん、アニキにだって、さゆは絶対ェ渡さない」
イエローゴールドは、チャンピオンの証。誰もが認める頂点になって、必ず迎えにいくと啓介は約束した。
誰かの願いが叶うころあの子が泣いている、そんな歌があったと思い出した。でも、泣いているだけじゃ、そこからは何も生まれないしその場から動けない。土壇場で力量を発揮出来ず何がプロだと、また泣きたくなった。啓介も豪も、今の自分に満足していない。願いが叶ったわけじゃない。恋だって、勝負だって、闘う相手がいるから成長するんだ。
「啓介」
「ん?」
「私を、離さないでね」
「たりめーだ」
幾分か心が落ち着いた。強くなろう。ふたりと一緒に。
ごあいさつ
さゆさまーーー!!たいへんお待たせいたしました!GT戦、とってもとっても楽しく書かせて頂きました!時間がかかってしまいすみません…
チャンピオンを獲ってアネキも死守できた。けど、何かが足りない。これで本当に勝ったと言えるのか。啓介も豪も、まだまだルーキーということで…そして私も書き手としてまだまだです…ちょっと、書きやすいように姉ちゃんと恋人にしちゃいました。NGだったらまた仰ってくださいね。
いろいろと元ネタが満載でして…昨シーズンのGT戦をいくつか拝借しつつ。
TRFの1stドライバーさんは、スバルの佐々木選手をイメージしてます。優しくて朗らかで、タイヤの使い方も繊細で…。あまり喋って頂くとお話がゴチャゴチャしそうだったので、あのくらいで留めました。決勝15番手スタートのFDが、どんどん追い抜いたシーン。これもスバル、タイ戦が元です。最後尾スタートから17台抜いて結果5位というBRZ…諦めないって、素晴らしいと思いましたね。
そしてタイヤ無交換作戦。もてぎ戦で私がとっても感動した19号車wedsスポーツです。あの果敢な攻防、これぞレースでした。お話のレース展開は実際のリザルトとは異なりますが、土壇場での判断、勝利への執念…チームがひとつになっている姿に感動です。youtubeでGT公式アカウントがありますので、さゆさまよろしければぜひ全戦を観戦してみてください。もしやもうJスポなどなどご覧になっておられたり…?
短編とは言い難いとっても長いお話になってしまいました。タイトルは宇多田ヒカルですが、歌詞の内容とお話の関連はまったくありませんので、くれぐれも歌詞検索などされないように(笑)(笑)
いつもおやさしいコメント、メール、ありがとうございます。さゆさま大好きです!
2015,1,21りょうこ