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「箱根で当て逃げ?」

「最近ちらちら出てるらしいよ、相手の詳細がまだ不明らしいけど」


神奈川県某市、GTチーム『TRF』の研究所では、次のレースに向け、総員忙しなく仕事をしている。

あきらが大学を卒業して一年、チーフメカニックとして在籍しているTRFとは、もう、随分長い付き合いだった。



まだ中学生だった頃。

友達と遊びに行った、トヨタショウケースMEGAWEBの、ヒストリーガレージ。

試乗車のテストコースの奥にあるピットで見かけたX6エンジンを、風格のある年配の整備士が調整していた。

小さい頃から車に関わる生業に就きたいと考えていたし、何より兄がああなので、普段から親しみのある、車の内臓。

ガラス越しにピットを見ていたら、気付いた整備士が『見ていくか?』と声をかけてくれた。

細かい部品ひとつひとつが繋がって、大きな車の、大事な心臓になる。

どんな小さな部品も、絶対失くしちゃいけないんだよと、その整備士が話していた。

まだ子供だった私に、あまり専門用語を使わずわかりやすく話してくれたその人は、始終、笑顔だった。

整備士になりたい、いつか、自分のチューニングでサーキットを走らせたいと伝えたら。


『整備士免許を取ったら、待ってるよ』


黒くなった軍手を取って、握手してくれた。

工具で溢れたピット

充満するオイルのにおい

その人の背中に誇らしく掲げられた、トヨタの名前の下に、


「T、R、F…」



大学生になって弟子入りを頼んだ研究所で待っていてくれたその人は、私にすべてを教えてくれた、お師匠様になりました。





好きこそものの上手なれ、うまい言葉があるものだ。

するすると頭に入っていく車の知識は、自分が高校生になる頃には兄のそれと並ぶほどで。

弟子入りして四年、更に楽しく厳しくなる業界。

元々の技術も相まって、若くして頭角を表していったあきらがチーフとなったのは去年のこと。

大学三年で取った一級整備士の資格と同時に、師匠から言い渡された。

その師匠は元はトヨタ開発部に所属している人で、GTチームへの参加は、昔馴染みが監督を務めているためだった。

アイツにすべて託したよ、監督に言って離れていく背中に、涙が止まらなかった。




それから一年、あきらを中心に立ち回るメカニック部は、順調に機能していた。

監督、リーダー、チーフエンジニアと共に動くあきらは、毎日が充実して、楽しくて。

ひとときの休息、今日は天気が良いので、研究所の中庭でのランチ。

近くのカフェでテイクアウトしてきたBLTベーグルにかぶりつき、冒頭へ戻る。



「箱根のどこよ」

「某峠」

「ぼう?場所も掴めてないの?」

「点々と現れてるから情報が一致しないんだ」

「つきとめるなら、出来るだけ大勢で当たった方がいいね、各地にバラけてさ」

「それでも見つからない可能性もあるし。被害に遭ったらどうするのさ」

「その時はその時よ」

「ズバッと言うね、あきらちゃん」

「そんな話聞いた直後で何だけど、私今から群馬帰るから」

「え、あきらちゃん、仕事は?」

「午前中で終わってる。スケジュールも確認したし、何かあったらメールちょうだい。昨日交換したサスの動きが見たくてたまらないの」

「ああ、あきらちゃんのエボか。結果聞かせてくれよな」

「はいはい」

「……峠、あまり通らない道で帰りなよ」

「高速で試走してどうすんのよ、ワインディングで確かめなきゃ意味ないでしょ」

「例のヤツが現れたら、」

「こんな明るいうちに出ると思う?何もかも見透かされそうな澄んだ青空なのに」

「気を付けてよ、何かあったら「すぐ連絡します。心配しないで、ハヤト」



チームリーダーの隼人(ハヤト)は、年上の壁を感じさせない、物腰の柔らかい青年だ。

物事を瞬時に判断する冷静さ、洞察力、知力、視野の広さ。

レースを遊びと思い楽しんで勝つ考えの、少々楽天家の監督に対し、ハヤトは理論で勝負に出る考えを持っている。

二極性のトップを率いて、私たちは数々のレースを勝ってきた。


「お兄ちゃんとハヤト、頭脳戦だとどっちが勝つかな」


最愛の人が待つ家へと、愛車エボTのセルを回す。








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【補足】
時系列まとめ
19歳(大1)→TRF弟子入り
20歳(大2)→涼介と恋仲
21歳(大3)→一級整備士免許取得、TRFチーフメカニック就任
22歳(大4)→長編はここから
23歳→凛さんに出会う

こんな感じです。