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「ただいま…」


出来るだけそっと玄関に入る。

お願い、リビングに居ませんように。



「アネキ?」



反射的に、からだが震えた。

リビングには誰も居ないとわかってほっと息をついたとき、キッチン横のドア、バスルームからひょこっと出てきたのは弟だった。


「啓、ちゃん」

「なんだよ随分久しぶりだな!元気だったか?」

「う、うんっ、まあ何とかね」


私に近付き、湯上りの温かい手で頬を撫でられ、抱き締められた。


「おかえり、アネキ」

「ただいま、啓ちゃん」

「…アニキ、二階にいるぜ」

「…うん」

「っと、アニキんトコ行く前に」

「んッ…!け、い」

「…おかえりのちゅう、な?」




啓介は、知っている。

私と、お兄ちゃんの関係。


『オレはアネキを諦めたつもりはねェ』


スキあらば私たちの間に入ろうとするけれど、そうすると私が困惑してしまうから、本心でやっていないことはわかっている。

でも、兄妹弟三人でいるときは、いつも通りでいられることが、嬉しいの。

笑って、怒って、泣いて

お兄ちゃんと恋人どうしになっていても、三人いつも一緒で、変わらなくて、



でも



(つらいよ、お兄ちゃん)




研究所で着替えずつなぎのままで帰ってきたことにも、目を向けていなかったらしい。

つなぎに付着したオイルでエボのシートが汚れていないか、明日ちゃんと確認しよう。


「早く、着替えちゃお」


自分の部屋が、階段を上がってすぐ手前であることに、今すごく感謝している。兄に会うことなく、ドアノブに手をかけた。





「着替える前に、オレに言うことは?あきら」








「……おにい、ちゃ」

「おかえり、あきら」


どうやら、家に到着したときに願った私の想いは叶わなかったようだ。

階下での啓介の声が聞こえていたのか。

階段を上った先、壁に凭れる、兄の姿。



最愛の、ひと




「長い間、神奈川に籠り切りで疲れただろう。大変だったな」

「うん…」



やめて



「約、一ヶ月前か。しばらく帰らないってメールくれたのは」



『その手』で、ふれないで



「おいで、あきら」

「…ッッ…!」





も、ムリだよ








「や、だ」


「…あきら?」


「さわ…、ないで」


「…どうした」


「他のヒトに触れた手で、わたしにさわらないで」




ちがう



ちがう、の



伝えたいことは、こんな言葉じゃない




「わたしには、お兄ちゃんしかいないのに」

「何を言ってる、オレはあきらを「三年前ッ!」……」




「恋人がいた、って、ほんと……?」



「……何故、お前がそれを」

「…神奈川で、いろいろ、あって」



涙も拭けるくらいに

「本当、なんだ」

いつでも近くにいたはずなのに

「時間が、いっしょなの」

私は君の苦しみや震えに

「お兄ちゃんに、好きだって、抱き締めてくれた、あのときと」

何ひとつ気づけなかった

「どうして、話してくれなかったの」



わたしは、あのヒトの代わりなの?

あのヒトとわたしを、重ねていたの?

あのヒトが亡くなったあと、それでも変わらず、わたしを愛してくれてた?

わたしを愛することで、かなしみを、さみしさを、忘れようとしていたの?




「どうして、なに、も」



ポロポロと、涙が止まらない



「わた、し…っ、お兄ちゃんと、恋人になれて、しあわせ…、だった、のに」




くるしい




「ど、して何も、話して、くれなかったの…」



むずかしい恋をしていたこと

そのヒトを失くしたこと

苦しみを抱えながら、私を愛してくれていたこと



愛して、くれてた…?

ほんとう、に……?



「……私のこと…、本当に、愛してくれてる…?」



すべて話してくれていたら、理解することが出来たはず。

でも、それをずっと心に仕舞っていたこと。

お兄ちゃんの閉じた心に、気づかなかったこと。


それが、許せないんだ。




「あきら」

「いやッ…!」


頬に伸ばされた手を拒んだ。

大好きな手なのに、今は、信じることが出来ない。



つらいよ



好き



大好き





「………さよなら、お兄ちゃん」



サヨナラ、涼介くん




「あきら!!」








100の言葉より 伝えたいことがある

100の言葉より 君だけを想っている


本当に大切なものは 小さな炎のように儚い





夏の夜を、ひたすら走る。

どこに向かうなんて考えていない。ただまっすぐ。

激しい動悸とたくさんの涙は、停止せずに悲鳴となって鳴り続く。


ぽつんと佇む白い灯り。

団地の中心にある小さな公園だった。

敷かれた砂利の地面に、膝から崩れ落ちる。


「ッは、ァ…っ!はっ、は…っ…ふ、う…ぅ…っ!」



『何故、それを』


先程の兄の顔が浮かんでくる。


「おに、ちゃ…ッ!」



好き


だいすき



「つらい、よお……っ!」



ずっと、そばにいてね



「さみ、し、よ……っ」



『ふたりだけのときは、名前で。な?』

『えー?恥ずかしいよ…今さらだし…』

『ほら、あきら』




「涼、す、け…ぇ…っ」



幸せ、だった




涼介にとって、わたしは、なに

やっぱりただの妹なの





『好きだよ、あきら』




「ッ…ふ…っあぁああ……っ!!」



砂利に伏せるように、泣き叫んだ。