まほうのくすり


本来ならば園内にて集団で接種するはずだったのだが、その当日、体調を崩して受けることが出来なかった。

母が休みの今日、掛かりつけの医者、というか父の病院に来たあきらは、普段同様遊びに行くつもりで来たのに、父の院長室でも祖父の部屋でもない、処置室に連れて行かれたことで異変に気付く。「ねちゃといっしょに、けいもいく」と、まだ『お姉ちゃん』とはっきり言えない啓介は、いつもとは違う部屋が、姉と違いワクワクしていた。


「まま、ここ、どこ?ぱぱは?」

「ここはね、おくすりをもらうお部屋よ。パパはここにはいないの」

「や。あきら、ぱぱのとこいきたい」

「だめよ、あきらちゃん。今日はここにいるの」

「ここ、きらいなにおいするもん。やだ」


仲良く弟と手を繋いでいたあきらは、自分の嫌いな匂いがしてくると、その手を強く握っていた。



インフルエンザワクチン



既に猛威を振るっている季節だが、効果を発揮させるため少しでも早く接種しなくてはならない。パパに会いに行きましょうと病院へ遊びに行く体で連れてきたはいいけれど、あの独特な消毒液の匂いがしてきたら、もう字の如く、子供騙しは効かなくなった。意を決して、母は続ける。


「あきらちゃん、今からお注射するのよ」

「…おちゅう、しゃ?や…」

「この間、幼稚園でみんな、ちくんしたのよ。してないの、あきらちゃんだけなの」

「いたいの、や」

「お注射しなかったら、風邪さんこんこんになって、お熱もたくさん出て、辛くなっちゃうのよ?」

「ちく、きらい…」


ことごとく、注射が苦手なのだ。

去年、幼稚園で受けたとき、あまりに嫌がるものだから昼寝の時間に医者がコッソリと打ったことがある。目を覚ましたら、何故か自分の腕に白い猫のシールが貼ってあり、不思議に思っていたものだ。


「風邪さんにならないためのお注射なのよ、ね?」

「や…!」


あきらの目線に合わせ、しゃがんで話す母から離れ、室内にあるぬいぐるみで遊んでいた啓介の元へ駆け寄った。


「けいちゃ、おうちかえろ」

「ねちゃ、おしまい?」

「いたいのやだもん」

「けいもやだ」

「いっしょにかえろ」

「かえろ!」


手を繋いで仲良く処置室を出ようとする姉弟を、母は慌てて止めに入る。


「ははは!弟を味方につけて一緒に帰ろうとするなんて、なかなか可愛いじゃないか」

「笑ってないで先生も止めて下さいよ、もう」


本当は父がワクチンを打つ予定だったが、急に手隙でなくなったため、何度か高橋家とも面識のある内科医が担当することになった。


「啓介くん、ちょっとこっちへおいで」


幼い二人には重いドアを、よいしょよいしょと一生懸命に押して開けようとしていたら、何故か啓介が呼び止められた。


「おじちゃんせんせい、なあに?」

「お耳をかしてごらん」


あのね、と啓介の耳元で何かを話している。その間、あきらは母の手に捕まってしまい、もう逃げることは出来なさそうだ。


「ねちゃ、」


とてとてと、まだ覚束ない足で、あきらへ近寄る。


「おくち、あけて」

「なあに?けいちゃん」


あ、と、小さな口を開けた、その中に





ころん



「あまーい…」


ほろほろと溶けていく、ミルクチョコレートだ。



「ちょこ、じゃないよ、おくすりだよ」



"おちゅうしゃがいたくならない、まほうのおくすり"


「ねちゃ、ちくん、こわくない?」

「ん、こわくない」


よし今だと、準備万端で待っていた看護師たちが、あきらに処置を施す。


「まほうのおくすりはすごいんだよ。ちっとも痛くならないからね」


小さな注射器で、ちくり射す。

けれどあきらは怖がる素振りなどせず、あまいおくすりと、手を繋いでいる啓介のおかげで、ずっと笑顔のままだった。














「ん……っ」

「はい、おしまい。今年もよく頑張ったね、あきらちゃん」

「……いい加減やめてほしいんですけど、それ…」




約二十年後


「毎年、ワクチンの時期になると思い出すよ、あきらちゃんと啓介くんのこと」

「まんまと騙された自分が悔しいです」


少々涙目のあきらは、捲った袖を元に戻しながら、もうすっかり『おじいちゃん先生』になった内科医に応える。


「いい天気だね、今日は」

「そうですね、冬の中休みでしょうか」

「青い空に、鮮やかな黄色がとても映える」

「……?」


高橋総合病院の内科は、入り口の前庭と駐車場に面している。春になれば色とりどりの花を魅せる前庭も、今日来たときには黄色い花はなく、植込みの緑しかなかったはずだ。


「本当、立派になったものだなあ」


窓を見ながら目尻に優しく皺を寄せ、まるで育った花に向かって言うようで。





ひまわりの、元気なサンバーストイエローが、迎えに来てくれた。





「ところであきらちゃん、今日はここまでどうやって来たの?」

「母が夜勤だったので、ついでに乗せてもらったんです」

「ああ、それで帰りは啓介くんがね」

「ふふ、はい」


ありがとうございましたと一礼、部屋を出ていくとき


「あきらちゃん、ひとつどうだい」


内科医のデスクトップに置いてある、ボトルチョコレートの上蓋を、ぱかと開ける。


「ふふっ、おくすり、いただきます」


白い小さな絆創膏の下が、まだちりちりするから。

ひとつ、つまんで、ほろりと溶ける、あまいおくすりに、少しだけお世話になろう。





「はい、おしまい。よく頑張ったね、あきらちゃん」

「ちく、いたくなかったよ」

「それはよかった。おくすりが効いたんだね」

「ねちゃ、げんき?」

「げんき!」





「…本当に、ご立派になられて」





院長との飲みの席での肴にしようかと、発進するFDを見ながら内科医はスケジュールを開いた。















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インフルエンザがトレンドの真冬に考えていたので時期がずれてます。すみません…。私の世代で風疹が流行していますので、2月くらいに予防接種しに行った小児科(内科では風疹ワクチンの取り扱いがなかったんです)で、かわいい兄弟が仲良く遊んでいた姿が微笑ましくて思いついたお話。キティちゃんのシールもらいました(^o^)

チビ時代はお兄ちゃんのお話を書いて以来だったので、すんごく楽しかったです。

2013,4アップ