ドットの日々


「どうしたら運転が上手くなれますか」


何を訊こうかと口から出たのは、さあこれからって超初心者が揃って言うありきたりなことだった。


ドットの日々


なんてもったいないことを訊いたんだと思った。今自分のとなりにはレーシングチーム所属の高橋あきらさんが座っていて、オレにはまず有り得ないそんなオイシイこと(高橋兄弟が居ようモンならオレはきっと殴られる)が起こってテンパった結果がコレだ。ここは…そうだ、折角の知り合い(友達っていうのはおこがましいから)なんだし、普段訊けない業界の裏話とかを訊くべきじゃないのか、オレ!

「イツキくん?」
「はっはい!」
「大丈夫?汗すごいけど…」
「えっあっす、すみませんあきらさん!」

早朝、メンテナンスと称してあきらさんは秋名へ走りに来ていた。サーキット走行では判明しなかったことも、峠になると途端に発覚・解決することが少なくないという。メーカーから新しいパーツが届くといつも具合をチェックするために群馬や神奈川の峠を走っているのだとか。

「言うなれば峠って私たちのニュルブルクリンクなのよね。過酷な路面を想定して試走することで、たくさんのデータが取れるのよ。でも本当は、人がいないからって公道でこんなことしちゃいけないんだけどね」

各国のメーカーが太鼓判を推す伝統のニュルブルクリンク。歴代の名車がここで生まれ、クルマ作りに於いて最も尊敬すべきサーキットである。その真似事をしているのと、あきらさんは笑った。

「運転が上手くなりたいって、イツキくん」
「え」
「ニュル行っておいでよ。いい練習になるよー」
「ちょ、そんな、無茶っすよォ!」
「あはは!」

秋名湖の駐車場に青いランエボとパンダ色のレビン。かく言う自分も、拓海の真似事をしているようなものだ。早朝から秋名に来るなんて。しかも本人には内緒で。少なからず、同じ走り屋・同い年なのに…と、違い過ぎる彼との差に悔しさと羨望があったから。

「朝の秋名湖って気持ちいいねー」
「っすねー」

走っていたら偶然にも道中で二台が擦れ違った。あきらさんが上りで、オレが下りだった。展望台でUターンしてオレが給水塔の場所まで戻ると、いろんな車載機器を弄っているあきらさんがいた。朝の挨拶をして、休憩がてらに今はふたりで湖畔のベンチにいる。あきらさんの傍らにあるタブレットが光った。膝に置きタップしている。覗こうとしたら、制された。

「これはダメです」
「ゴクヒってやつですか」
「パーツの走行データをチームとメーカーに送ったの。その返事よ」

ひと言だけ返させてねと、あきらさんは両手で画面をタップしている。たたん、たたんと指の音。そよぐ木の葉と鳥のさえずり。夏の風になびくあきらさんの黒髪と真剣な横顔。邪魔をしてはいけない(お仕事中だから尚更だ)神聖なものに見えて、オレはごく、と息を呑んだ。しかし、その仕草や横顔が。

「…高橋涼介みたいだ」

考えるより先に思ったことが口に出た。これじゃ最初に訊いたことと同じだ。何事もまず一呼吸置くなり考えてから行動しないとまた誰かの迷惑になってしまうというのに。でも今の場合はあきらさんしかいないし優しい人だから、妙義の中里さんのときみたいな怖い思いは少なくともしなくていい…ってそういう問題じゃない!ホラ、あきらさんが仕事の手を止めてきょとんてしてるじゃないか!カワイイなーもー!ってオレしっかりしろ!

「あっオレ、ごめんなさい軽率でした!」
「お兄ちゃんが、どうかした?」
「いえ、その、あきらさんが、おにーさまに似てたもんで」
「え、私お兄ちゃん似かなぁ」
「や、あの、ホラ、よくパソコンとか、峠で触ってたし…。やっぱ、速く走れる人ってデータ管理するのが普通なのかなーって」
「あ、そういう似てるってこと?普通っていうか…。お兄ちゃんは趣味が行き過ぎててやることがプロっぽいのよね。自分の走行データを取って、問題を見つけて、もう一度走って、解決して…その繰り返し。積み重ねた結果が、彗星サマって呼ばれるようになった。…お兄ちゃんだって、上手くなりたいって悩んだこと、あるよ。月並みの励ましになっちゃうけど、誰だって最初から上手いわけじゃないよ」
「でも、高橋啓介は最初から速かったんじゃ」
「啓介は昔二輪で走ってたけど、それをすべて四輪に活かせたとは限らなかった。転向した当時、お兄ちゃんの元で相当の努力をしていたわ。ふたりはそれぞれの方法で、経験を積んでいるのよね。でも誰しもがふたりと同じ境遇ではないし、きっとほとんどの人はイツキくんみたいに自動車免許を取った頃から自然に思うことだよ」
「そう、すかね」
「極端に言えば、子供のときからカートをやっていたら、経験豊富なんだし大人になる頃には運転は上手よ。無免だった拓海くんみたいにね。イツキくんは、今からやっても拓海くんに追い付かないって思ってる?」
「お、追い付かなくても、少しでも近くに行けたらって、思います」

「いけるよ、絶対」


たたん、とあきらさんがタブレットをタップした。


「彼、レーサーの夢を19歳のときに志したのよ」


見せてくれたのは、佐藤琢磨選手のプロフィール。


「どんな目標でも、持つことは素敵なことだわ。それが日を追って大きくなって、自転車を降りた彼はたった5年でF1マシンに乗った。やる気と目標があれば、遅かろうが早かろうが、夢は叶うよ。拓海くんにだって、勝てちゃうよ」

「…」

「イツキくんは、『上手くなりたい』って私に相談してくれた。誰かに助言をもらうことだって、確かな一歩だよ」

「…はい」

「点と点を繋げて文字を書くっていう、小学校の書き方ドリルみたいじゃない?目標がカタチになったら、嬉しいものね」


あきらさんはそれ以上は言わず、タブレットを仕舞って駐車場へ向かった。これから神奈川だからまたね、と元気に手を振ってくれた。


「…あっちーなァ、まだ朝なのに」


もう少し時間が経てば、平日だろうが夏休みである秋名湖に人が集まってくる。これからもっともっと、暑くなりそうだ。


「よーしッ燃えてきたぞォ!な、オレのレビン!」


8月5日。早朝の秋名湖にて。



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速くなるための課程はひとつじゃない。涼介と同じことをイツキもすれば速くなるのかって言ったらそうじゃないと思うんです。いろんな方法を試して、繋いで、いつか一本線になればいい。自分で探すもよし、師匠に着いて行くもよし。だから彼女も、こうすれば速くなるよなんて安易に言えなかったんです。

佐藤琢磨さん。
インディ参戦100戦目を達成されました。以前アナザースカイで、F1だけがすべてじゃないと仰ったこと。F1のシートがなくても走ることを諦めなかった琢磨さん。インディカーで活躍され、苦しくも楽しそうな環境で、活き活きとしておられた。諦めないって素敵だなと思いました。

そんな琢磨さんのお話を織り込みながら書いた、イツキの悩める8月5日でした。プロD中の夏のお話。

2015,8月5日りょうこ