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随分、雨が降ったものだ。


昨晩からの雨は朝になっても止むことなく、冬独特の重い空模様となったある日。

出席しなければならない講義に間に合うか逆算していると、何の助けか『暇つぶし』と言って出掛ける直前の啓介を捕まえ、大学まで送ってもらったのはもう何時間も前のことで。

予報通りの一日となった空に心まで重くなりそうだと、研究室の窓から溜め息をひとつ。

松本に任せてある愛車の診断が、事の他難航していると連絡があったからすぐに見に行きたいのだけれど、そもそも足がないこの状況を何とかせねば家にも帰れない。大学が終わる頃にFCを渡しに行くという話だったんだが。

頼みの啓介は、先程から短間隔でコールしているがまったく出ない。

今日に限って、同じ方向に帰る友人がおらず、本当にツいていない日だった。


(前橋までバスか……それからあとは電車だな……)


研究室に貼られている交通網の時刻表を見ながら、何時に帰宅し、それから松本の工場までどれだけで着くか考えていた。

普段車に慣れている分、咄嗟のときの公共交通機関に戸惑いを感じる、プロジェクトDの頭脳。



「うお、スゲーなあの車。めっちゃ目立ってる」

涼介の弟の車といい勝負なんじゃね?



同じ研究チームの岡田が、涼介の方を向かないまま窓に向かって話していた。


時刻表を見るとまだ大学前発のバスには余裕があるようで、焦る必要もなく、何処の走り屋だ、と軽い気持ちで覗き込んだ先に。




「井上教授、急ぎますのでこれにて失礼します」

「何だ高橋、今日は急げるような足がないんじゃなかったのか?」

「今、見つかりました」

「ちょ、涼介!って身仕度早ェなオイ……」



元々片付けを終えていたバッグを抱え、コートを羽織らず鷲掴みし、一礼を忘れず、研究室を出た。



願ってもない、嬉しい誤算だ。





「おかえり、お兄ちゃん」


研究室から見える駐車場には、重い空に負けない鮮やかな青と、可愛らしい水玉模様の傘を差して佇む、妹の姿。研究棟から出て、同じ傘の中へ滑り込んだ。


「驚いたよ、迎えに来てくれたんだな」

「松本くんから連絡もらったの。FC時間かかってるって。間に合って良かった」

「でもあきら、お前、今日一日神奈川じゃなかったか?」

「大丈夫、早上がりなんだ」

見ればチームつなぎのままのあきらは、本当に直接来てくれたらしい。


「ありがとう、あきら」

「どういたしまして」




一路工場へ向かうと、奥のガレージには主を待つ白が眠っていた。


「すみません涼介さん、FC遅れてしまって」

「いや、構わないよ。それよりあきらに連絡してくれたんだな、お陰で助かった」


涼介が松本より説明を受けている最中、ガレージ内に高い機械音が響き、あきらが足早にその場を離れていった。


松本との話を終えてもまだ戻って来ないので、妹の様子を見に窺うと、何やら電話で揉めているようだった。


「……、そうじゃなくて、さっき言ったじゃない、うん、そう、あとはリーダーに任せてあるから彼に訊いて、……え?それは明日にするから、うん、じゃあ、よろしくね」



「何かあったのか?長電話だったけど」

「わ、びっくりした!んーん、大丈夫。お兄ちゃんはお話終わったの?」

「ああ、待たせたな、帰ろうか」


揃って松本に挨拶を贈った二人は各々の愛車に乗って帰路へ着いたのだが、どういう訳かあきらは今、涼介の部屋で質疑応答をさせられている。




「……ちょっと聞くが、まさか仕事を残して帰って来たんじゃないだろうな」

「早上がりって言ったじゃない」

「さっきの電話は?」

「ただの質問よ。いつも自分のやるべき以上のことをやってるつもりだし、他のスタッフに任せられるから今日は早く上がったの。いけない?」

「俺はてっきり、あきらが俺のために仕事を投げ出したのかと」

「大事なチームなのに投げ出すなんて!でも、FCのことは私も気掛かりだったから、松本くんから電話があったとき、出来るだけ早くお兄ちゃんを迎えに行きたくて、高速飛ばしちゃった」


サーキット仕様の初代ランエボが雨の高速をひた走る、一体時速何キロ出したのやらと涼介は思ったが、自分のために急いでくれた妹が、可愛いくて仕方がなくて。


「あきら、おいで」

「ん、なに?」

「ぎゅ、してあげるから」

「どうしたの、急に」


傍に来た妹の背中に腕を回し、後頭部に手を添えて抱き締めた。

自分より遥かに低い位置にある首元に顔を埋めると、鼻腔がオイルの香りに充たされた。


「……お兄ちゃん、オイル、ついちゃうよ」

「いいんだ」

「私がよくないよ……汚れちゃうよ」

「いつも神奈川から私服に着替えて帰ってくるあきらが、つなぎのまま来てくれたんだ。それが嬉しいんだよ」

「……ふふっ、変なお兄ちゃん」




シートが汚れるからと、つなぎ姿で乗ることはしなかった妹が神奈川から帰ってくる間、頭を占めているのは涼介のこと。

少なくとも、その間はあきらの全部は涼介で染まっていた。

汚れもいとわず、急いでくれた。それを考えると抱き締めずにはいられない、兄なのだった。






(迎えに来てくれたお礼に、何かしてほしいことは?)

(え?うーん……と……)

(何でも言ってごらん)


(外は雨だし、もう夜も遅いから……、一緒に、寝てもいい?)

(可愛いおねだり、かしこまりました)



さあさあ降る雨音は、仲良し二人の眠りを誘う、やさしい、静かな、子守唄












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アベマリアは聖歌ですね。やさしさに溢れる歌なので、兄妹とリンクさせてみました。

今日、予報じゃ雪だったんですけど一日中雨で。でも冷たい雨じゃなくてよかったなと思いつつ、涼介さんて雨似合うよねと妄想ニヤニヤ止まらない家主です。


松本修一は啓介にも電話したけど一向に出なかったので、忙しいのは承知で妹ちゃんに連絡したのです。啓ちゅけケータイ切れてんじゃないかっていう\(^O^)/


2013,1アップ(長編のリハビリのつもりで……)