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「お前も行くんだろう?高橋」

「どこへですか?」


公道ドライバーたちが走り終えた熱い夜から二週間が経った。九月中旬。秋が深まるとはお世辞にも言えないまだ夏日であるこの富士スピードウェイでは、週末になると各サーキットをフルに活用した数々のレースが行われていた。自チームがオフである今日、耐久戦を観戦すべく、あきらはパドックパスを持って顔馴染みのチームに顔を出していた。レーシングチームカタギリもそのひとつで、友人である小柏カイが出場するとあっては応援しなければと彼を探す。

そのときだった。まさか皆川から声をかけられるなんて思ってもいなかったあきらは最初、彼の声に気付かず素通りしてしまったのだが、グローブをはめた手で肩を掴まれ振り向かされて漸く彼とわかった。少し、皆川を苦手としているあきらは、何と言えばいいか言葉が思い浮かばなく目を泳がせる。急に声をかけて驚かせたかと皆川が言って初めて、あきらは言葉を交わした。


「すみません、びっくりしちゃって」

「いや、こっちこそ。来てたんだな」

「ええ。耐久、興味があって」


皆川は暫く休憩時間のようだが、各チームは忙しなく動いている。その様子をピットの壁に凭れて見ていた。


「あ、カイくん」

目の前をカイのMRーSが過ぎて行った。現在のカタギリはまずまずの位置にいる。


「来週、お前も行くんだろう?高橋」

「どこへですか?」


そして冒頭である。


「……北条から連絡があったんじゃないのか」

「どっちからです?」

「…ああ、弟だ」

「豪?いえ、何も…」

「何をやってるんだかアイツは」


あきらはその言葉を、オーバーテイクしようとして先行車にブロックされたカイに向かって言ったのだとばかり思っていた。あとから聞いた話では、それは今この時間、この場所にあきらを呼ぶか呼ばないか迷っていた豪への言葉だったらしい。


_______________


富士で皆川さんに聞いたお誘いの話は結局豪からではなく、お兄さんの凛さんから連絡があった。『来てくれないか』と何やら力が入っている凛さんの声に、行かなければと変な義務感を感じ、今に至る。迎えを寄越すと言われ指定された店の最寄駅で待っていたら、ロータリーに現れたのは何と真っ赤なZだった。


「いっ池田さん?!」

「オレは下戸なんだ。送迎は任せてくれ」


まさかZの助手席に乗れるなんて。失礼しますと緊張していたら、固くなるなと頭を撫でられた。心地いい揺れのドライブは程なく終わり、助手席に回ってドアを開けてくれた池田さんの手を取って外へ出る。一階はダーツバー、二階はカウンター併設の少人数で楽しめそうなテーブルのフロア。どうやら今日は貸し切りらしい。


「連れてきたぞ。姫のご到着だ」


案内をしてくれた池田さんが、私の背中をポンと叩く。こつん、と鳴ったヒールに、凜さんが気付いた。


「すまんなあきら、無理を言ってしまって」

「いえ、そんな。気にしないで下さい凛さん」


まるでエスコートするように肩を抱いて店内へ誘導された。オーナーが凛さんの知り合いで、そのツテで貸し切っているのだとか。


「豪、なんとか言ったらどうだ?お前が主催だろう」

「え…そうなんですか?」


カウンターで既にグラスを傾けている主催者。反対隣に座る大宮さんが、何故かニヤと笑ったように見えた。何も話さない豪に、大宮さんが肘でつつく。


「…ほんとは、もっと早く声をかけたかったんだけど。お前、ここんとこ忙しそうだったからさ」

「そんなの、メールでも電話でもよかったのに」

「や、今TRFすっげェいい順位じゃん、GT。集中してるところ邪魔かと思って」

「息抜きくらいするわよ。邪魔だなんて思わないで豪。なによ、普段私に気を遣うなんてしないくせに」


まだ暑い外気を遮断する、ひんやりと揺らぐエアコンの風が心地良い。着ていた白い薄手ジャケットを脱いで腕にかけようとしたら、凜さんにそっと持っていかれた。さり気ない所作を目で追っていたら、にこりと視線を返される。この、少し不貞腐れた豪が時折笑ったときの目に、よく似ていると思った。


「なに飲む?あきら」

「軽いやつがいいな」

「よし、コークハイな」

「ちょっと!それ強いでしょ!」


豪が提案したカクテルは断り、バーテンダーに『軽めのもので』と強く頼んだ。鮮やかな色の、カンパリオレンジ。


「そろそろ始めようか豪」

「へいへい」


私がグラスを持つのを待って、全員が豪へ視線を向けた。凛さんに促されて椅子から立ち、集まったメンバーを見渡して話し出す。


「まあ、なんだ。結果として神奈川防衛ラインは崩れたワケだけど。いい経験したと思ってるのはオレだけじゃないはずだ。箱根とプロジェクトDに、乾杯!」


ちん、ちりん、と次々に耳に響く。其々とグラスを合わせながら、『久し振りだな』『お疲れ、あきら』『ご無沙汰してます』などと挨拶を交わした。乾杯と同時に、軽く摘めるクラッカーと野菜ディップが届く。グラスを持ってテーブルへ移動しようとすると、既に出来上がってしまっている小早川に肩を抱かれた。


「あきらちゃーん!ん〜いいにおーい」

「わっ!こ、小早川さん!こぼれちゃう…!」

「もーだから『さん』はいらないって!オレはあきらちゃんとトモダチになりたいの、あ、それ以上でもッテ!」


身長差ゆえ、肩を抱かれたら自分の顔は小早川の胸元。彼が少し頭を傾げれば、鼻先はあきらの首元にある。まだ小汗をかく季節の対策として付けてきた軽いコロンを小早川は気に入ったらしい。すんすんと鼻を動かしていたのだが、彼よりやや小柄な青年に叩かれストップさせられた。


「しつこい小早川」

「ッテーな広やん、めっちゃいい音したぜ今!」

「頭ん中からっぽだからじゃねーの?」

「うっわ毒舌」


こっちにおいでと小早川から離され、腕を掴んだのは奥山。夜の峠以外ではあまり面識がない彼の行動に、内心、どきどきしていた。ちなみに小早川は大宮に泣きついている。


「あんなのさっさとあしらえばいいじゃん。キミならそんなの軽いもんでしょ」

「え、で、できませんよ!軽くだなんて、お相手に失礼じゃないですか…」

「…は?てっきり手慣れてると思ってたんだけど。あんなイケメンと暮らしてるんだし」

「なにが…」

「オトコ」

「な…ッ!慣れてなんていません!恥ずかしくていつも困ってるんですから!」

「あれ、やっぱ違うんだ。ふーん…じゃあさ、これを機に慣れようよ」

「奥山さん?」

「それ。オレのこと名前で呼んでみて。歳だってそんなに離れてないんだし、仲良くしようよあきらちゃん」


奥山と並んで座るペアソファは意外と幅が狭くて、彼があきらを覗き込むとお互いの目線が一気に近付く。目の前のテーブルに置いたグラスの氷が動いた。


「ほら、ね?簡単じゃん、早く」

「〜〜…っ、ひ、ひ、ろゃ「オレもかまってくださいよあきらさーん!」わあああカイくん?!」


グラスを持っていたら間違いなく服を濡らしていた。後ろからガバリと抱きついてきたのは小柏カイ。神奈川勢でも年少な彼は、先程まで先輩たちに可愛がられていたようだ。一際賑わっていた輪の中心に彼と皆川さんがいたのを覚えている。そこから抜け出してきたのか、顔がすっかり赤くなっていた。となりの奥山から、軽い舌打ちが聞こえる。


「ひっどいんですよぉ池田さんがー」

「ふふっ、どうしたのカイくん」

「自分は飲めないからオレの分まで飲んでくれってー、めっちゃ強いの飲ますんですー。ちょっと奥山さんどうにかしてくださいよー」

「知らねェよ、つーか邪魔すんな小柏あっちいけ」

「うぅ〜気持ちワルイっすよあきらさんー」

「それであそこから逃げてきたの?皆川さん呼んでるみたいよ」

「えぇ〜行きたくないですー…今日のレースのダメ出し喰らうしー。あきらさん、かくまって〜?」


まるで奥山との間に入るように、あきらの首に腕を絡ませて顔を埋める。ごろごろと甘える仕草が可愛らしくて、あきらはカイの頭を撫でた。スプレーで立てた髪はちょっと硬かった。啓介がふわふわのレトリーバーなら、カイくんは柴犬かな。弟世代の彼を思って、あきらは皆川へ『すみません』と目で向き合った。


「先輩からのダメ出しを聞くのも勉強よ。ほら、行きましょカイくん」

「そんなぁあきらさーん…」


抱きついているカイの腕を取って、大人たちが騒ぐ輪へ向かう。奥山にまたあとでと言葉をかけ、凛と池田、そして皆川が囲うテーブルへと。そこへ渋々戻っていくカイは、狼の群れの中の怯える子犬のようだった。


「待ってたぜ小柏」

「私も一緒に聞いてあげるから。経験豊富な先輩の言葉は敬わなきゃ」

「そうじゃないんですってー…」

「あきら、お前はこっちへおいで。グラスはどうした?」

「飲んじゃったんでさっきスタッフさんに返しましたよ。って凛さんのお隣ですか…?」

「なんだ、嫌か?」


ゆったりと大きめなソファが二脚。テーブルの向こうでは、池田さんと皆川さんに挟まれて何やらお説教を受けるカイくん。文字通り、肩身が狭そうだ。


「嫌ではなくて、その…なんだか緊張しちゃって」

「オレじゃなくて豪がいい?」

「……え?」

「てっきりそうかと思っていたんだが。違うようだな」

「凛さん?」


彼女にストロベリーフィズを。そばを通ったスタッフに凛がオーダーする。


「乾杯してからずっと、豪と話していないだろうあきら」

「あ…、そう、かも」

「拗ねてるぞ」

「はァ?」

「あきらが奥山と話しているときかな、下のダーツバーに行ったよ」

「…ったく、もう」

「すまんな、手を焼かせて」

「凛さん、誤解してほしくないので言っておきますけど、凛さんが考えてる関係ではないですから!私たちは!」


ストロベリーフィズを受け取って、凜に会釈をしてソファを立つ。出入り口で会った大宮にどこへ行くんだと聞かれ、『少し外します』とだけ伝えた。


「随分付き合わされたようだな大宮、相当顔が赤いぞ」

「どうにかしてくれよ死神サン、アンタの弟くん」

「本人を向かわせたから、これで落ち着くはずだ。おい皆川、そのへんにしておけ」

「ぎ、ギブです〜…!来週、ぜったい挽回しますからぁ〜!」

「あんな腑抜けなライン取りは許さんぞ小柏」

「厳しいねェ先輩殿は」



_______________


アルコールが入ったからだがふわふわと揺れる。かつん、かつんとゆっくり階段を下り、階下の扉を開けた。四人掛けほどのこじんまりとしたカウンター、壁面には四枚の的。一番奥に、ひとり、狙いを定める彼がいた。


「さっきの、意外だった」

「……」


しゅ、とすん。やや外側に刺さる。


「憎んでると思ってたから」


しゅ、こつん。弱かったのか、的に弾かれて刺さらずに落ちる。


「『プロジェクトDに』、なんて。兄の計画に、反感を持ってると思ってた」


しゅ、ころん。掠りもせず、床へ。


「ありがと」

「……べつにお前のために言ったんじゃないし」

「でも、嬉しかったもん」


豪から一本のダーツを勝手に取り、見よう見まねのポジションにつく。


「えいっ」

「…やるじゃん」

「才能あるかな」

「言ってろ」


カウンターに置いたストロベリー。グラスの周りについた水滴が、木製のテーブルへ滑り落ちる。見兼ねたバーテンダーが、コースターをくれた。


「上、すっごい盛り上がってるよ。行かなくていいの?主催さん」

「アニキがいるから大丈夫だろ」

「…この集まりって、神奈川、よね?なんでここに私がいるの」

「神奈川人じゃねェの?」

「群馬人です」

「あれ、そうだっけ」


本当に拗ねていたのだろうか。凛さんの言葉が疑わしいくらい、いつもの豪にしか見えないのに。


「さっき、奥山に何言われた」

「え?」

「オトコがどうとか」

「…ああ、お兄ちゃんたちと一緒にいるから、男性に慣れてると思われたらしくてね」

「オレ思うんだけどさ、今までよく無事だったよな」

「なにがよ」

「ほとんど男社会のクルマ業界でだよ。夜の峠にも行ってんだろ」

「ひとりでは行ってないよ、兄弟からキツく言われてるから」

「神奈川ででもか」

「う…、と、時とバアイによるけど」

「お前、峠とかサーキットで何て呼ばれてるか知ってんの」

「なに…まさか白い彗星ならぬ青い隕石とか言うんじゃ」

「あー隕石近いかも。重そうな丸っこいケツとかそっくり」

「ひっどい!夏の間ダイエットがんばったのに!」


豪と出会ったのは、もう、四年前くらいか。不思議、もっと長い付き合いのように思える。群馬で育った私だけど、神奈川にいると安心する。チーム所在地、ホームコース。第二の故郷だと言っていい。神奈川県民…そう言われても嫌じゃなかった。でもそれをお兄ちゃんたちに言ったら怒られそうだなあ。しかし、私は何と呼ばれているのだろうか。あまり大きな声では言えないが、兄に付けられた二つ名のようなやや小恥ずかしいものは控えてほしい。程よい明るさの照明と、豪との会話。すごく、落ち着く。


「ナイショ」

「は?」

「知らない方が身のためだぜあきら」

「そこまで言っておいて教えてくれないの?いいよ、上で誰かに訊いてくるから」


手元のストロベリーフィズを、くっ、と一気に飲み込んだ。カウンターの椅子から立つ。グラスを置いた手を、豪が掴む。熱い手だった。


「待てよ、ってお前細すぎ、手首。よくこんなのでクルマ弄れるな」

「ちゃんと筋肉ありますからご心配なく。はーなーしーて!」


振り切ろうと掴まれたまま腕を動かした。瞬間、くらりと視界が揺らぎ、足元のヒールが傾く。


「あぶね…ッ!」


追加で頼んだカクテルをシェイクしていたバーテンダーが慌ててフロアへ駆け寄ったが、どうやら大丈夫だったようだ。


「…お連れ様は眠り姫だったのですね」

「上でどんだけ飲んできたんだよ、ったく」


足元が傾いた瞬間、掴んだままの腕を自身へ寄せて抱き留めた。彼女のからだが緩み、体重が豪へかかる。そのまま、床へ座り込んだ。


「『富士の天使』、寝顔、イタダキマス」


自分の胸にある小さな顔。ほの甘く熟れた桃色の頬に、キスを残した。


_______________


「おい奥山、そこをどけ」

「はァ?何様だテメェ」


ダーツバーにはカウンター席しかないため、あきらを寝かせるべく横抱きに階上へ連れてきた豪は、ひとり悠々とソファを陣取る奥山へ向けて放った。


「寝てんだよあきら。静かにしろよ」

「ってーか何であきらちゃんお姫サマ抱っこしてんの弟」

「弟言うな。いいからそこをどけ」


あきらのためだ、と言われるとどくしかない。仕方なく奥山は、フロアの中心、テーブルを囲う大きめのソファへ移動した。先程と変わらず、凜や池田がそこにいる。


「あーらら寝ちゃったのあきら。なんか薬盛ってイタズラしたんじゃないのー?」

「してねェ。勝手に寝たんだよ」

「絡むな大宮。豪、ブランケットかけてやれ」

「さんきゅアニキ」

「あきらさん…かーわいいっスね〜…」

「こうしてるとまだ子供に見えるな。サーキットに立てば一流か」

「あっれ、皆川サンがあきらちゃん褒めてるー!さては好きれしょー!」

「ダッセェな小早川、呂律回ってねーし」

「広也、お前も絡むな。あとあと面倒になるぞ」




あのコってさ、たしか

あー知ってる知ってる!プロジェクトDのさ、

そうそう、高橋兄弟の妹?あれ?姉ちゃんだっけ?

つーかさ、超かわいくね?あのナリでメカニックとか信じられねんだけど

兄弟からドラテクとか教えてもらってんのかなーいいなー

他の『テク』も教えてもらってたりな、オレもメンテしてもらいてー

わかるー!あんだけかわいくてテクもあったら最高だよなー


いつか、箱根の夜の峠で聞いたギャラリーの下衆な野次。ちょうどそのとき、あきらはひとりで赴いて、新シャーシのテストをしているようだった。チームメンバーを誘ったけれどみんな手が塞がっていたからひとりで来たと彼女は言う。バカかふざけんなと、オレは言った。そんな野次が聞こえてきたから尚更、その夜は彼女のそばから離れなかった。何かがあってからでは遅い。『無垢』を、穢してなるものかと。




「警戒心、今ひとつ、だな…」


あのとき、自分がその場にいてよかったと思う。彼女の足りない部分は自分が補ってやればいいじゃねーかと、豪はソファで寝息を立てる天使の鼻を抓ってやった。





(そろそろお開きか、豪)

(あきらはどうする、起こして駅まで乗せて行くか?)

(あー、いいよ池田サン起こさなくて。オレTRFの研究所まで送ってくから)

(…ちょっと待ちたまえ豪くん、さっきオレとあんだけ一緒に飲んだじゃん)

(アルコール飲んでねェよ大宮サン。気付いてなかったの)

(マジか)







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近くのコインパーキングにちゃっかり停めてますよNSX(^^)豪オチ…にはならないようにしてみたのですが、どうにも真ん中ちゃんと豪くんの会話が書きやすくてですね。彼女の呼び名、果たして奥山は『ちゃん』付けで呼ぶのかという。信司は未成年なので連れてきませんでした。

『富士の天使』というお名前はこのお話だけに使わせて下さい。他で使うのはちょっと恥ずかしい…。

2013,11月アップ