25


スタッカートが弾く音は、草原を蹴る力強い脚。スラーが流れる音は、風に流れる艶やかなたてがみ。

両手で奏でるは、貴婦人のギャロップ。




憎らしいほどに聞き慣れてしまったやかましい音。今、自分が聴いている心地良い音色とは天地の差があると、いつも思う。『姉』のそばでからだを丸め、うるさくないの?と訊かれるほど響板に寄り添う。だってココが、自分の定位置なのだから。

玄関を開けてすぐとなりの部屋。純日本家屋のあきらの実家に、ひと部屋だけ造られた別空間。シャンデリアと、熟された革製のソファと、ゴブラン織りの絨毯。白い壁に沿って置かれたアップライトピアノは、あきらが母から受け継いだ。このピアノは、この部屋の主である。その主に断りを入れたかどうかは覚えていないが、十数年前から自分もこの部屋に住み着いていた。


「さくら、竜、来たの?」


その音が聞こえた途端にからだが反射した。立った耳をぴくりと動かし、たた、とソファへ駆け上る。玄関ポーチが見える窓を睨むと、家の外壁からちょっとだけ、赤い鼻が見えた。ヤツが来た、と『姉』を見る。しかしまだ弾く手は止めない。三連符が輝く展開部。自分の脚がもっと長く、からだがもっと大きかったら。この音符のようにきらきら光る陽を浴びて、どこまでも走っていたい。背中に、大好きな『姉』を乗せて。


「あきら」


本当ならば来てほしくない。ピアノの時間は、『姉』と自分との時間なのに。自分があきらに出会ったときより遥か後に現れた男に、『姉』を奪われてなるものか。今度は玄関の扉が開く音がした。ソファから跳び下り、部屋の扉の前へ向かって声を荒げる。入ってくるな、帰れ、と。しかしそこは、力と、大きさの違いを見せつけられた。


「懐かしいものを弾いているな」

「たまにはいいでしょ、昔の練習曲も。エンジン全然気付かなかった。来る前に連絡してって言ったのに」

「したさ。楽譜の上、見ろよ。ランプ点灯してるだろうが」

「あ、ほんとだ…えへへ、ごめん。私よりさくらが先に竜に気付いたね」


おいで、と言われ、ピアノチェアからソファへ移動した『姉』の膝へぴょんと上る。爪が、スカートに引っかかった。


「こら、さくら。お洋服に気を付けてよね、お姉ちゃんこれからお出かけなのよ?」

「さくら、今日のお前の姉さん、ずいぶん気合い入ってるじゃないか」

「女の子はクリスマス大好きなのよ。ねー、さくら」

「というより何かとイベント好きだよな、女性は。一体いくつ記念日があるのやら」

「たっくさんよ!さくらがウチに来てからはもーっと増えたしね」


生まれた日、家族になった日、大人になった日、ここへ来て十年が経った日。『姉』とこの家の家族と一緒に、たくさんお祝いしてもらった。でも何年か前から、そのお祝いの日に必ず、赤い鼻のうるさいクルマとこの男が参加するようになった。なんで?なんで?と、不思議に思っていた。


「さ、ピアノ片付けようか。そろそろ行かないと遅刻だぞ。この時間、県道は帰宅ラッシュだ」

「去年ギリギリだったもんね、今年は早めに行きたいね、レストラン」


お母さんに言ってくる、と『姉』が部屋から出て行った。この男と、ふたりっきりだなんて。




「さくら」

なによ、気安く呼ばないでくれる?

「雪が溶けたら、お前も一緒に乗って出かけるか」

どこへよ。あたしはお姉ちゃんのにしか乗りたくないわよ。

「オレはあきらと…、あきらを、幸せにしてやりたい」

それはあたしの役よ。勝手にとらないでよ。

「オレに、勇気をくれ。さくら」

……なによ、なんでそんなやさしく撫でるの。やめてよ。



お待たせ、と『姉』が戻ってきた。後ろから『母』がひょっこり顔を出している。ドレスアップしている服に触れてはさっきのように咎められてしまいそうなので、一度あきらの足元に擦り寄り、『母』へ甘えた。少し重くなったかしら?と抱き上げられ、『姉』とヤツの目線に合わせられる。


「いってくるね、さくら。ママとパパとおりこうにしててね」

「混んでるから、道中に気を付けて。よろしくね竜次くん」

「はい。ではしばらく、あきらさんお借りします」


出かける前のひと撫で。自分が家族になったときからずっと同じ。家族が自分と家から離れる、『いってきます』の合図だ。でも何年か前から、その合図をこの男もするようになった。


「姉さん、預かるな。必ずお前の元へ返すよ」


ぽん、と頭を撫でられる。きょとんとしてヤツを目で追うと、『姉』を助手席へエスコートしていた。赤いクルマがまたうるさい唸り声を上げ、ゆっくり、家から離れていった。



「お姉ちゃんと一緒に居られなくてさみしい?さくら」

さみしいのはママもでしょう?

「竜次くんといるあきら、幸せそうね」

…うん。

「ママね、近いうちに、そんな日がくるんじゃないかって思うの」

……ママ?

「竜次くんは、あきらを笑顔にしてくれるのね」







日付が変わる約二時間前、赤いクルマの音がした。苦手で、世界一キライな音だけれど、『姉』を乗せて帰ってくるときだけは、世界一好きな音になる。玄関へ向かって駆け出した。早く、扉を開けて。


「ただいま、さくら!」

おかえりお姉ちゃん!ただいまの抱っこしてー?

「お帰りあきら、竜次くん」

あれ、パパ珍しいね。いつもこの時間はもう寝てるのに。

「夜分遅くまであきらさんをお借りしてしまい申し訳ありません。それでお電話でのお話ですが、是非、日を改めて…」

……どうして、パパもママも真剣な顔なの。お姉ちゃん…?

「あのね、さくら。わたしね、」


差し出された『姉』の手のにおいを嗅いで指を舐めたとき、つめたいものが舌に触れた。きらきら光るものだった。








雪が融けてあたたかくなった春。足裏に直に伝わるアスファルトから冷たさが消え、ぽかぽかと陽気が続く。


「今日はまたおしゃれだな、さくら」

「生え替わりの季節ですものねー。Zを汚すわけにはいかないからね」


ぴん、と立った耳が飛び出た抜け毛予防のパーカは、このクルマと同じ赤色。背中にアルファベットの刺繍が施されている。


「何も『FAIRLADY』にすることはないだろう、その刺繍」

「あら、ピッタリだと思うけど。さくらは賢くて可憐で優雅なお嬢さまよ」

「オレにはジェラシーむき出しのワガママ姫に見えるがな」


ウェルシュコーギー・ペンプローク。かのイギリス王室で長く愛されている英国種で、そのゴールドの毛並はまさに気品漂うものだ。


「あ、さくら、見て。お馬さんいっぱい」


桜並木で有名な土手沿いの公園には、その広大な敷地を利用した馬舎があり、馬術体験も出来るのだそうだ。気温もほどほどに上がり、青く晴れ渡った空に映える桃色の桜の花。そして、気高い赤の貴婦人。竜次とあきらの間で、短い脚を懸命に動かしているさくらは、馬術場にいる馬たちを見て思った。


(……あたしがもっと大きかったら、なんて、バカな考えだったわ)


クリスマスの夜。赤いクルマに『姉』が連れて行かれたと思っていた。必ず返すと言ったきり『いってきます』の合図をして帰って来ないのだと。でもそれは、始まりだった。『姉』を背中に乗せて走りたいという願いは、夏の星に頼んでも、決して叶うことのないもの。しかし赤いクルマに乗ったこの男が、その自分の願いを叶えてくれたのだ。さすがに背中に乗せて走るということは無理でも、その願いの根底にあるものは『ずっと一緒にいたい』ということ。


(コイツは、竜次は、赤いクルマに乗ったサンタクロースだったのよ)


竜次が家族になって、あきらの住む家が寺になった。いっぱい遊んでいいよと言われ、自分もこの広い寺に住むことになった。あきらのピアノは、今、この寺の庭に面した縁側にあり、ときどきあきらが弾いては、竜次と一緒に自分も縁側で聴きながら、あたたかい陽射しにあくびをする。

今の自分の定位置は、赤いクルマの助手席に乗った『姉』の膝の上。ずっと、彼女のそばにいられる時間を、この竜次はくれたのだ。

ふたりの指にあるきらきらの光が、その時間を永遠にした。





***************

皆さまメリークリスマス!間に合った!

今年は涼介(←アップ早すぎた)と池田のふたつのクリスマスをお贈りいたしました。涼介さんはベッタベタなあっまいお話だったので、池田さんは趣向を変えて。クリスマスにプロポーズを考えている赤ノーズのZに乗った仏僧のお話でした。恋人が大切にしているコーギーのさくらちゃんのことも、池田さんはちゃんと大切に想ってくれているよ。

あまり書いたことのない方法で書いてみました。こんなのも楽しくて好きです。


2013,12/24、アップ