喜びの島


芸術の秋より少し前。まだ夏の香りが残る頃。レッスンに明け暮れる時間を、ちょっとだけ自分のために使いたくて帰ってきた。拾ってあげるから都合のいい駅で待っていてと言われたので、自分にも彼女たちにも都合のいい駅を指定した。扉が開いた途端に、緑の風が吹く。

軽井沢のロータリーには、既に青い車が停まっていた。身形だけで充分な存在感なのに、乗り手の彼女たちが更に華を添えている。『こんなのに乗ってるよ』と送ってきた自慢のメール通り、綺麗な青だと思った。


「おつかれー藍!」

「藍ちゃんおかえり!」

「ただいまーサユちゃん真子ちゃん!」


生まれ育った佐久の町。高校時代、いちばんの仲良しだった沙雪と真子。彼女たちは地元の大学に進み、私は東京の音大へ。今は進学二年目の夏だった。一年目は時間の余裕なんて全然なくて、帰郷するなんてとても出来たものじゃなかった。


「卒業以来じゃーん!さっさと帰ってきなさいよねー!」

「そうしたいけどもっと勉強しなきゃダメだもんー」

「素敵なピアニストになるんだもんね、藍ちゃんは」

「うん!夢だもの!」


大好きで仲良しな友達。夢のために、少しだけ彼女たちから離れた。新幹線ひとつで会いに行ける距離だけれど、甘えちゃいけない。自分が納得する結果を残すまで、故郷には腰を据えないと決めたんだから。


「ねえ真子ちゃん、運転てむずかしくない?」


後部座席から、ひょこっとインパネを覗く。


「普通に走る分には、特別むずかしいって思ったことはないけど…」

「なあに藍、興味あんの?」

「えっ、興味というか…、さっきからその、真ん中のレバー、カチカチ動かしてるじゃない?それを動かして何になるんだろうって思ってたの」

「ああ、シフトレバーのことね。クルマの速度を変える大事なものなの。これとハンドルを操作して、アクセル踏んで、自分の思い通りに動かすの。すっごく楽しいし面白いよ」

「でも、大学の先輩のに乗せてもらったとき、そんなにカチカチ動かしてなかったよ」

「それってオートマじゃない?車速を自動で選んでくれるの。簡単に乗れるから便利っちゃ便利だけど…なんか物足りないのよねー、真子」

「それぞれに良さはあるけど、操作性のあるマニュアル、ああ、このクルマのことね、の方が私たちは好きだな」

「へぇー」


少し曇り空の街並み。午後には青空が広がる予報だったはず。沿道のカフェに停め、時間が許すまで話し込んでいた。


「ね、藍。こっちにはいつまでいられるの?」

「一週間、かな。夏休みずっと大学でレッスンだったから、リフレッシュするためにちょっと長くお休み取ってきたの」

「秋に芸術祭があるのよね、確か」

「わ、さすが真子ちゃん、覚えててくれた!」

「私だって覚えてますよーだ!真子と観に行くからね!」

「うれしい!がんばるね、ありがとう!」



冷たいバニラアイスに熱々のホットコーヒーをかける。とろりと溶けた、アフォガード。スプーンですくって口へ運ぶと、ほろ苦い香りが鼻に抜け、ほっ、とひと息。

楽しい時間はあっという間。会話は途切れず、ずっと続く。しかし、もうすっかり夕焼けの時間だった。


「さっきさ、クルマの話してたじゃない」

「うん」

「藍がピアノに一生懸命になってるとき、私と真子も一生懸命だったんだよ」

「え、なにに?」

「クルマ」

「…整備士さん、目指してるの?」

「ふふ、運転のことよ藍ちゃん。走り屋って知ってる?プロのレーサーとは違って、一般道とか峠を走って、速さを競うの」

「え?峠?山道のこと?はしりや?」

「うーん、実際見た方が説明いらないかも。碓氷峠わかるよね藍、眼鏡橋のとこ」

「うん、もちろん」

「夜になったらそこ走りに行くから。一旦家に送るね、その恰好じゃ男に狙われちゃうよ。着替えてきなよ」


21時に迎えに来るからと、一旦ふたりと別れた。狙われる、とはどういうことだろう。走り屋?峠?碓氷峠は私もよく知る道だけど、あんな狭いところ、こんな夜に行くの?走りに行くってサユちゃん言ってたけど…なんだか怖そう…。

とりあえず、夜に出歩くというのであれば、夏の夜でも多少の防寒をしていかなければ。着ていたノースリーブのワンピースを脱いで、白のクロップドパンツにローズピンクのアンサンブルを合わせた。実家に残しておいた黒のスニーカーをシューズボックスから取り出し、お迎えに備える。







「あーオレ。おひさー」

『慎吾、なによ』

「今日そっち晴れてんだろ、妙義さっきからポツポツきちゃってよ。今から碓氷いっから」

『えぇ?来るの?今日は約束あるから構ってやれないよ』

「は、マジか。ついに男かよ沙雪」

『ちょっと、ついにとは何よ失礼ね』

「運転中か?となり真子ちゃん?」

『そーよ、そういうアンタの隣は中里くんでしょ。日産の音がする』

「そうそう、碓氷行くっつったらノリノリでよー毅。喜んで32動かしてるぜ」


余計なことを言うなと、中里の声が沙雪に届く。もう18号に乗っているところらしい。めんどくさいことになりそうだと、沙雪はバックミラーに映るを藍見た。






「……ここ、本当に、碓氷峠……?」

「私たちから離れちゃだめよ藍ちゃん」


夜の碓氷峠に来たことがないから、それと比較することは出来ないけれど。これは、あんまりじゃないだろうか。


「どうしてこんなにクルマがたくさんいるの?!みんな寝ないの?」

「走り屋なのよみんな。一般車がいなくなる真夜中に集まって、ここを走り込むの」

「さっサユちゃん!美容に悪いよ!寝なきゃ!」

「あははっ!おーちついて藍、だいじょうぶ。みんなただクルマを走らせることが好きなだけなの。今からそれ、見せてあげるよ」


いつもの半分くらいで軽く流してあげてねと、沙雪は藍を助手席に座らせ、四点式のシートベルトをしっかり締めた。普段は沙雪がここに座って運転のナビゲートをしていると、ブレーキの具合を確かめながら真子が言う。


「何人かコーナーに立ってるから、対向車の様子は彼らで確認するのよ真子」

「オーケー沙雪。じゃ、行こっか藍ちゃん!」

「え、えええ!ちょ、っと…!きゃあぁああ!!」







「あっれ、沙雪お前ひとり?シルエイティどしたよ」


少し、場が騒がしくなった。妙義ナイトキッズが突然やってきたからだ。何しにきたんだ?沙雪たちとバトルか?などの声が上がる。沙雪はそれを鎮め、妙義が雨だからコッチに来たんですって迷惑よね、と嫌みを含ませて言った。


「今ダウンヒルやってる。たぶん、もう戻ってくるけど」

「お前乗らなくていいの。ケンカか」

「違うわよ、代わりに乗ってんの」

「誰が」

「……」

「なあ、誰だよ」

「うっさいわね誰だっていいでしょ」

「…アレか、真子ちゃんに恋した秋名の」

「あんなヤツに私の場所を渡すと思う?」

「じゃあ誰だよ」

「おい、帰ってきたぞ」



中里が示した先に、青が戻ってきた。逆光になっていてわかりにくいが、助手席には確かに誰かが乗っている。


「ほんと、何で今日に限って来るのかな慎吾」


はあ、と深く溜息。シルエイティに駆け寄った沙雪は助手席を開け、目が点になっている藍の頬をぺちぺちと叩き、無事を確認して四点式を外す。


「無事じゃないわよサユちゃんー!」

「お、おつかれー藍」

「なに?!これ本当にお昼に乗った青い子なの?!なんで横になって動くの?自分の目の前が壁だったんだけど!」

「……走ってるとき、妙に静かだったのよね…失神してるのかと心配してたの。ちゃんと見てたんだ藍ちゃん…」

「こっこわかったよー!」


わああ、っと沙雪に抱きつく藍。よしよしと宥める真子。そこで初めて、碓氷の連中、そして妙義の彼らが藍を見た。



「誰だ、あの子」

「沙雪と真子の友達か」

「相当泣いてっけど大丈夫か?」

「けっこう軽く走ってたみたいだぜ真子」

「真子の軽いってどんだけだよ。オレらにしてもキツいだろ」


微笑ましくも心配しながら三人の女子を見遣るチーム碓氷。その三人へ、にやりと笑って近付く男がいた。


「どうしたカワイ子ちゃん、そんなに怖かったのか?」

「…手ェ出しちゃダメよ慎吾」

「あら庄司くん、来てたの」

「だから庄司くんてヤメロって。ホラ、顔上げてよ」

「あっち行ってよもう!」

「……ふぇ、」


沙雪の胸に埋めていた顔を上げると、見たことがない男性がふたりいた。ちょっとニヤニヤした人と、ちょっと、怖そうな人。


「だれ…」

「…はあ、まあいっか。藍、コイツら妙義山で走ってるナイトキッズってチームなの。チャラいのが慎吾で、そっちが中里くん」

「藍ちゃんての?オレ庄司慎吾。沙雪と幼なじみなんだわ。よろしくね」

「あ…はい」

「ンだよ沙雪こんなカワイイ子いたんならもっと早く連れてこいよ」

「アンタには絶対会わせたくなかったのよ!」

「藍ちゃん東京にいるもんね、こっちになかなか来られないし」

「へー東京に住んでるんだ。出身はコッチなの?」

「……ッ」

「おい、慎吾」

「沙雪の友達ならさ、今度一緒に妙義にも来いよ。オレら歓迎するぜ。な?」


さっきから震えが止まらない。真子の運転は怖くなかった。彼女は運転しながら私を気遣ってくれた。クルマが、どうしてあんなに動くのか信じられなくて、未だに足が覚束ない。未知の世界を経験して、気が動転して、真っ白になって、泣いてしまって、顔を上げたら知らない人。あたまがぐるぐるする。


「…っ藍!」


耳からキーンと金切音がする。血流が乱れる。目の前が白んで、力が抜けた。






黒い天井だった。

友達とは違う香りがした。


「気分は?」


「……ぁ…」


たしか、中里、さん。


「さゆ、まこちゃ、」

「慎吾と一緒に軽井沢駅のコンビニに行ったよ。貧血に効くもの買ってくるって。水、飲めるか?」

「…は、ぃ」

「…ああ、まだ未開封だ。ちょっと待ってろ」


かち、とキャップが開く音が、遠くに聞こえた。こんなに近いのに。まだ、耳が正常でないのかもしれない。ひとくち含むと、冷たさに少し寒気がした。


「倒れたときは、びっくりした」

「え…わたし、」

「顔面からアスファルトに突っ込むところだった」


誰かのクルマに寝かされている、とだんだんわかってきた。これは、後部座席だろうか。中里さんの顔が、私の真上に見える。


「……って真上!?」

「おいッ!」


急に動かしても言うことを聞いてくれない私の身体が、座席から落ちそうになる。中里さんに押さえつけられ、その、膝枕、させられた。


「…すみません…」

「慌てて動くな。倒れたばっかりなんだぞ」


恥ずかしくて目を閉じた。こめかみがうるさい。血流が、一気に流れているようだ。どれくらい、目をつぶっていたかな。どきどき、うるさい。


「…戻ってきたな」

「…そう、みたい」


タイヤを軋ませて、美しい青が戻ってきた。私の背中に手を回し、ゆっくり起こしてくれる中里さん。背中の手が、ぽかぽかとしていた。


「藍!」

「大丈夫?藍ちゃん!」

「起きて平気なのかよ!」

「あ…、うん、なんとかね…中里さんが、介抱してくれたから」


彼を見ると、ふい、と逸らされた。あれ、さっきと、何か


「少し休んで行きましょうか?」

「んーん、だいじょうぶ。もう帰るの…?」

「ったり前でしょ!藍が倒れたんだもん!」


もう一度、中里さんを見る。今度は、目を合わせてくれた。


「ありがとうございました。あの…お礼、させてください、中里さん」

「いや、気にするな。あれくらい」

「でも…」

「…今度、妙義に来てくれ。それでいい」

「あ、はい、その、えっと、よかったら、番号、交換しませんか…?」

「……ああ」








「ほんとに大丈夫?藍ちゃん。ごめんね、私の運転のせいで…」

「真子ちゃんのせいじゃないって。一度にたくさん起こってビックリしただけなの」


佐久へ向かう夜道。藍に震動を与えぬよう舗装された滑らかな道路を選んで、家路へと。若干の痺れは残るが、徐々に引いていくだろう。血流も落ち着き、頭もスッキリしている。


「それにしてもなかなかカッコいいとこあるじゃん中里くん!」

「沙雪ったら」

「倒れる藍を咄嗟に抱き留めたのよ!サッと走ってきてギュッて!」

「……え?」

「あのまま横抱きで、32、あ、彼の黒い車ね、後部座席に藍ちゃんを寝かせたのよ。で、私たちに駅のコンビニで氷と温めるもの買ってこいって」

「え、え?」

「落ち着いてたわよねー、ちょっと見直しちゃった!………藍?どしたの?」

「……〜〜!なん、でもなぃ…」





「惚れたろ毅」

「バ…ッ!……っち、そうだよ」

「あーあ、オレもいいなって思ったんだけどなー藍ちゃん。泣いた目見た?ウサギみたいでかわいかったなー」

「…おい」

「ジョーダンだよ取らねェよ。『今度は』うまくいくといいな」

「うるせェ」





それから、約二か月。

夏の残り香はすっかり消え、山の木々も人々も衣替えを済ませた秋の頃。


『遅くなってすみません。あのときのお礼がちゃんとしたいんです』

女の子らしい優しい字で書かれた一筆箋と同封されていたのは、演奏会のチケットだった。


あのとき、東京へ帰る前に、約束通り彼女は碓氷のふたりと共に妙義へ出向いてくれた。彼女をとなりに乗せて少しだけ走ってやると、初体験より度胸が据わったのか、何となく楽しそうにしていると見受けられた。碓氷のふたりへ彼女を返してやると、ここのカーブでクルマがこんな動きをしたとか、すっごい速かった(自己ベストの50%ほどだが)とか、笑顔で話していた。それを見た慎吾と沙雪さんが含み笑いをしているように見えたがまあ気にしないでおく。

同封のチケットは二枚。……誘うしかないだろう。


「あー!慎吾と中里くん!」

「こんなトコでも会うとはな沙雪」

「藍ちゃんからチケットもらったの?」

「ああ、そっちもか」


都内某所。大学から近いとあって、愛車は大学内に停めてホールへ徒歩で向かった。キャンパス内のイチョウが黄色に色付いている。ポプラの葉が落ち、足元で軽やかに鳴った。ピアノ専攻で、毎日どんなレッスンを受けて、どんな生活をしているのか、交換したアドレスでたくさん話した。彼女のリアルが、すぐ近くにある。妙に緊張した。

一年で最も盛り上がるのはこの芸術祭らしい。それぞれの学科の発表がステージで演奏され、学科別のトリが、ピアノ科だった。




「『喜びの島』って、なんかスゲェ曲だな」

「え?」


ひとしきり、沙雪と真子に『かわいい!』『きれい!』『よく似合う!』と褒められたあと、ドリンク買ってくるねと慎吾と三人で場を離れていった。ドレスの上から軽くコートを羽織り、中里と共にホール敷地内の公園、ベンチで待っている。


「なんか…、輝いてるっていうか、ポジティブっていうか。悩みなんてなさそうな曲だな」

「ふふっ、そんな風に聴こえた?中里さん」

「違ったか?」

「ううん、当たってるかも。これ、ドビュッシーが愛する人と旅した島を模してるって言われてるの。幸せすぎて彼は悩みなんてなかったのね、きっと」


ふわふわしたブルーのドレスの裾を指でいじる。色を揃えた髪飾りが秋の風に揺れた。


「……藍さん、は」

「え?」

「悩みとか、あるのか」

「…うーん、すこし」

「…オレも」

「ただ、ね」

「ん?」

「……いま、ちょっと、うれしい。かな」



「……悩んでること、言ってもいいか?」



「…わたしも」





「好きだ」
「好きです」











「やーっとくっついた!」

「いじらしくてかわいいじゃない藍ちゃん」

「あーあ、オレまた独り身だぜェさーみしー」



『曲目を変えるの?』

『絶対芸術祭までに間に合わせます。お願いします先生』

『あと二か月ね。今からアナリーゼと譜読み、暗譜…頑張りなさい』



「中里くんに聴いてほしかったんだって」

「うっわなにそれかわいいことすんねー藍ちゃん」

「あらら、幸せそう」


ホールのロビーの一角。中里と藍からは死角になるところから、沙雪と真子、慎吾が見遣る。どうやらこのあとは、藍じゃなくてここにいる慎吾を乗せて帰らなきゃいけないなと、沙雪と真子は微笑んだ。




「ねえ、中里さん」

「うん」

「さっき、初めて名前、呼んでくれましたね」

「え…」

「藍さん、て」

「…あ〜、その、うん」

「さん、いりませんから、えっと、」

「…じゃあ、オレも、」

(…)
(…)

「……藍」

「…はい、毅」







************

昨年10月に『FallingD』藍さんへお贈りしたお話です。藍さんがこよなく愛していらっしゃる妙義で書かせて頂きました。ちょっと中里のドラマCDネタをかじっています。同年夏に藍さんには個人的に大変お世話になりましたお礼、そして相互リンクのお礼でもあります。藍さん愛してます。らぶ。ドビー(愛称/勝手に)のピアノ曲はキラキラしていて好きです。ベルガマスク組曲もオススメですよ。

貧血のとき、温める場合と冷やす場合があるようです。どちらにも対応出来るものを買ってくるように慎吾たちに頼んだ不敗伝説。不器用な中里。友達想いの慎吾とマコサユ。妙義と碓氷はずっと仲良しでいてほしいです。『行くよ真子!』『オーケー沙雪!』の掛け合い大好きだー!!


『FallingD』様へはリンクページよりどうぞ。ご訪問の際には先様へのご配慮をお願い申し上げます。


2013,10月贈呈
2014,1月サイト掲載