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「北条凛ている?」
ある日の大観山がざわついた。肌寒さも緩和した季節の、土曜の夜。走り屋が特に集まる週末に、公道では滅多に見かけない人物がやってきた。
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プロジェクトDの終焉から二年。医学部を卒業した涼介は父の元で研修医となり、啓介は姉とは違うカテゴリーでプロデビューを果たした。拓海はしばらく運送屋を続けながら、時々、文太のレース仲間から声がかかりスポット参戦のようにサーキットに現れる。来季からのプロ契約が既に決まっていると、以前本人が教えてくれた。忙しい兄とはあまり会えないにしろ、かつてのダブルエースが今も健在とあっては、いつ、彼らが自分の前に立ちはだかってライバルと成り得るかわからない。こちらGTチームTRFも益々気が抜けない日々を送っていた。
併設のガレージに灯りがついている。業務を終え帰り際だったチームリーダーの隼人(ハヤト)は、こんな遅くまでかかる作業は今はないはずだと、消灯と施錠確認のためにガレージのシャッターを開けた。スタッフの影は見当たらない。ただの消し忘れかと、スイッチに手を伸ばしたときだった。
「…あきらちゃんの、工具箱?」
メカニックあきらの私物が、チームデモカーであり彼女の愛車でもある青い初代ランエボのそばに置いてある。ランエボは調整中のためしばらくの間ガレージに納めたままなので、最近あきらは通勤にもうひとつの愛車フィガロを使っていた。どうやら遅くまでガレージに残っているのは勉強熱心な我らがメカニックだったらしい。外の駐車場には、まだフィガロが主人を待っていたから間違いない。
「あきらちゃん、いるの?」
しかしあきらはいなかった。カチカチと、工具を扱う音がするのに。不審に思ったハヤトは、ランエボの周りを見渡した。すると、
「ここだよーはやとー」
サービスクリーパーを転がしてランエボの下から出てきたのは、小さな女の子。成人どころか義務教育も済んでいないくらいの、少女だった。
「手がちっちゃいって意外とべんりね。こまかい作業がしやすいな。あ、『元の姿』のわたしもじゅうぶん小さい手だけどね」
「……」
「でも握力がないからだめだわ、レンチでぜんぜんしめられないもの」
「……あのさ、」
「クリーパーで下にもぐるときがいちばんべんりかな、からだが小さいと「あのさ!」……なあに?」
「きみ、だれ…?」
ぶかぶかのキャップをかぶり、ぶかぶかのつなぎの袖と裾を何回もまくってようやく着ている少女。重くて持てない工具箱をどうやって仕舞うか奮闘しているその小さな背中に、ハヤトは見覚えがあった。……認めたくはないが。
「やだなあ、はやと。あきらだよ。ちっちゃいけど」
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「豪さん!大変です!」
「あ?」
神奈川勢でも抜群のメンバー数を有するチームサイドワインダー。大観山パーキングにベースを組み、チーフドライバーの北条豪が指揮を執っている。公道で滅多に見かけない人物がやってきたのは、まさに本日のことだった。
「大観山でサイドワインダーのホーム走行会があるって聞いてね、リーダーの北条氏に会わせてくれるかな」
てっきりあきらかと思った青いランエボから降りてきたのは、彼女ではなかった。あきらの所属レーシングチームTRFリーダー、ハヤトその人。神奈川に研究所を持つTRFの存在は、同県公道レーサーのほとんどが既知である。そのチームを監督と共に統べる人物が突然現れた。大観山が一際騒ぎ立つのも無理はない。
「チーム代表の北条豪ですが」
「…あれ、きみ、どこかで」
「……あきらの友人、ですけど」
「ああ、そうか、たまに富士に来てるのはきみだったのか。じゃあ話は早いかな」
にっこり笑っていても若干ピリッとしている空気はなんなのだろうか。TRFリーダーは、優しい風貌の、兄より歳上な男だと豪は認識している。笑顔に隠れた冷徹さが、少々怖い。
「おいで、あきらちゃん」
あんな小さなサイズのつなぎってあるんだな、と豪は思う。まあ、モノであふれる現代なのだからな何でもアリなんだろうなと、問題視すべき論点からいささか思考がズレているのだが、それはこの現状を認めたくない拒否反応だ。開いた口が塞がらない。まばたきもせず、瞳が乾いてしまっていた。
「わー、目線が低いとけしきぜんぜんみえなーい」
そんな豪の様子を知らぬまま、あきらと呼ばれた少女はハヤトに手を引かれ後部座席から降り、夜の大観山をきゃっきゃと見渡した。富士スピードウェイのイベント用なのだろうか、小さなつなぎの背ヨークに『F.S.W』の頭文字。キャップはかぶっておらず、黒く艶のあるボブヘアがふっくらした白い頬を縁取っていた。
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事の発端は、数日前だ。
「医療用の滋養強壮サプリがあるんだが、飲んでみるか?」
業務にひと段落がついた夜に、凜からメールが届いていた。以前ほどではないが今でもたまに峠に出てきているようで、今日は池田と共に七曲りにいるらしい。研究所から箱根まではさほど遠くはないので、今から行きますと返事をして一時間。赤いZのそばで、凛と池田を見つけた。
「池田さん、ご無沙汰しています」
「しばらくだなあきら。顔を見ないから気掛かりだったんだぞ」
「すみません、シーズンが始まっちゃったんで、どうにも身動きがとれなくて…」
「はは、忙しいのは結構なことじゃないか、なあ北条」
「ああ。だが…どうした、少し、やつれてないか?あきら」
池田には頭を撫でられ、凜の指の背で頬を撫でられる。労るやさしい手つきに肩の力が抜け、気を緩めて深く息を吐いた。相当疲れているように見えたのだろうか、凜はあきらに、サプリの提案をする。
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「あきらちゃんに訊けば北条凛て男はお医者様だそうじゃないか。まったく、僕の大事なあきらちゃんをこんな姿にさせてどういうつもりだろうね、さっさと連れてきなよ、お兄さんなんだろ、きみの」
「はやと、ちょっとまって」
「あの、アニキ今日はいないんですけど…」
「呼び出しなよ」
「(怖ェ…!)いや、当直で、たぶん、無理…」
「はやと、わたしね、」
「はァ?僕のあきらちゃんがちっちゃくなったのになんて無責任な!こんな姿でメカニック業が出来ると思うかい、チームにも影響があるってのにさ!」
(う…それを言われるとヤベェ…つーかさっきから『僕の』ってなんだよ!)
「はやと、きいて」
「あきらちゃんはだまってて」
「だから、わたし」
「いい子にしてなきゃダメです」
「もー!話きいてくれなきゃはやときらいになるよ!」
「ーーッ、あきらちゃん…!」
サイドワインダー一同は彼らの言い合いにどうすることも出来ず見守っていたが、我らがリーダーがこよなく慕う、今は小学生ほど小さくなった高橋あきら嬢の天の声により場が静まり胸を撫で下ろした。ハヤトのそばにいたあきらは、とてとてと豪へ近づく。
「ごう、あのね、」
「…おまえホントにあきらなのか?」
「そうだよ、なによ、しんじられない?」
「エボのエンジン言ってみ」
「4G63でしょ、四きとう、なの」
「この大きさで専門用語言うのも、おかしな光景だな」
「ね、信じてくれた?」
「ああ、信じるよ。しっかしまあ、小せェなー、驚いたぜ」
自分の腰元ほどの身長であるあきらを、ひょいと抱き上げた。大人の彼女には、こうして触れることなど勇気がなくて出来ないのに。子供の姿だとどうして自然に抱くことが出来るのだろう。きっと、元の姿であってもあの細さだ、もし抱き締めることがあれば、軽く、折れてしまうくらい儚いのだろうなと豪は思う。呑気なもので、抱き上げた少女は高くなった視界に喜んでいる。
「でね、ごう、おねがいがあるの」
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箱根の市街地へ向かうNSXは、大観山をこれでもかとゆっくり下っていた。彼女の今のからだには大きすぎる助手席のバケットシート。乗ってすぐは普段との視点の違いに楽しそうにしていたけれど、日中の仕事の疲れがこの小さなからだに圧し掛かり、はしゃぐ声が静かになった途端あきらの頭は船を漕いでいた。車高が低いとロードノイズはどうしても車内へ響いてしまう。時間はとうに深夜であるし自分以外の走行車はチームメンバーだけであるから、出来るだけノイズを減らすために豪はまわりを気にせず法的以下の速度で下っていた。
(起きるなよ…)
『凛さんのところへつれて行って。やっぱり、これじゃしごと出来ないもの』
仕事中に飲んだ、兄からもらったサプリ。小さくなった原因として考えるのは妥当だろう。大観山を離れるまでTRFリーダーは「僕が連れて行く」と頑なだったが、「ごうといっしょがいい」との声でヤツはあきらのランエボに乗ってしぶしぶ帰っていった。最後の最後まで「手ェ出すんじゃないよ!」と釘を刺して。
(小せェとき、こんなんだったんだな、あきら)
自分はこのあたりの走り屋の中では、彼女といちばん近く、長い付き合いだと自負している。だがそれはここ五年間ほどのことであって、幼少時の姿など写真ですら見たことがなかった。昔の写真を持ち寄って話すことなんてなかったもんなと、運転しながら横目であきらを見遣る。
助手席のリクライニングを倒し、先程かけてやった自分のネルシャツで小さなからだのほとんどが隠れてしまう。大人の彼女がそのまま小さくなったのか、髪型は黒髪のボブだった。今は眠っているが、メイクしなくても充分に大きな黒い瞳はひとまわり小さくなった輪郭だと更に際立ってきれいだ。頬はキメ細かくふっくらとし、小さくなった彼女がいちばん困っていた手指は、壊してしまいそうなほどの頼りなさ。
(守ってやりたかったな、これくらいの歳から、ずっと)
市街地を走って大通りに出れば、病院の名前がだんだんと目立ってくる。すぐに凛に会わせるのが何となく癪だったので、少しだけ遠回りをすることにした。
(もし、アニキに訊いても、あきらが元に戻らなかったら)
凛に責任を負わせ、北条家で過ごすことになったら。あきらはこの歳から人生やり直しで、今のままじゃまともにクルマ弄れないから、少し成長するまでしばらく北条家で暮らして…いや、しばらくと言わずウチにずっと居てくれていいんだ。 群馬に帰らず、高橋の家への言い訳は追々考えることにして、ずっと北条に居れば研究所だって富士にだって近くて通いやすいじゃないか。このまま、一緒に暮らして、だんだん大人の女性になっていくあきらを、誰より近くで見ていたい。ずっと、そばにいたい。守りたい。それでいつか、オレだけの、あきらになってほしい。
(ってーのは、夢のまたユメ、だったりして)
病院周辺にある緑地公園。今夜は月が出て夜空を白く輝かせていた。併設のパーキングに停め、安らかに上下するシャツに触れる。子供特有のあたたかい体温が伝わり、自然と頬が緩くなった。
(かわいい…な、やっぱ)
きっと兄に会わせたら抱き締めて頬ずりどころじゃない。たとえばもし凛が、『小さくなる薬』とわかってあきらにサプリを手渡していたとすれば。可愛らしい姿を誰にも見せたくなくて監禁するかもしれない。一時、アタマのネジが外れたような行為をしていた兄のことだ、想像しがたいコトをし出すに違いない。しかし考えすぎか、今は真面目に跡目を継いで立派な院長になっている兄を疑ってはいけない、そんな背反な思いが豪を占める。
「ん…、む…」
「…あきら?」
恐らくからだに合わないバケットシートが苦しいのだろう。寝返りらしい寝返りも出来ず、やや困ったような寝顔。なるべく小さな声で呼び掛けてみるが、返事はない。まだ、眠り姫は夢の中だ。ふっくら柔らかそうな口唇を少し開けて、すうすうとか細い息が聞こえる。
「……あきら」
未だ伝えられない、愛しい気持ち。いつか言えたらと思って、もうどれだけ時間が経ったかな。『友人』だと、さっきハヤトに伝えたとき、ぴりっと胸が痛くなった。付き合いが長いほど、その関係から脱するに必要な勇気は大きい。自分はこんなに、臆病だったのか。走りに於いてどんな路面でもクリア出来る自信はあっても、好きな女ひとりに気持ちを伝える自信が、どうしても持てない。なにか、キッカケがあればまた変わるのか。もしそれが、今ならば。
「好きだよ」
眠っていて、しかも大人ではない子供の彼女に伝えるのは卑怯かもしれない。だが、一度言ってしまうと気持ちが溢れて止まらなかった。眠るあきらの頬を照らす白い月明りを遮り、そっと覆いかぶさった。頬に触れ、起きないことを確認したら、そのまま、ふっくらとした口唇に吸い寄せられた。
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「豪、ごーお、起きて」
「……ん…?」
目を瞬かせると、先程と景色は変わらない。月が少し高くなっていること、車内の時計が一時間ほど過ぎていること、となりに、あきらがいること。
「……おまえ、あきら?」
「私以外だれがいるの?」
変わったのは、大人の、オレがこの世で、心底惚れている、『いつもの』あきらが、笑っていたこと。
「子供用のつなぎってすっごく小さいのね、パンツ部分はなんとかなったけど肩がキツくて合わないから上は脱いじゃったの」
豪のシャツ、大きいね。
はにかんで、オレのネルシャツの袖口を掴んで呟いた。
その顔が、その声が、その、目が。愛しくて愛しくて、たまらない。もう、無意識だった。
「あきら、あきら…ッ」
「ちょ、豪っ、どうしたの!」
シフトノブを乗り越え、大人に戻ったあきらを強く強く抱き締めた。煙たい香りが苦手な彼女のために、いつしかあまり吸わなくなったタバコの代わりに付けている柑橘系のコロン。ネルシャツの残り香が、埋めたあきらの首元から届いた。オレの香りを彼女が纏う、とても扇情的だった。
「やっぱりオレ、お前じゃないとダメみたい。小さくても、だめ。『お前』が、いい」
「な、に…?」
「ごめん、すっげー好き」
「……え…」
「ずっと、ずっと好きだった。言いたくてどうしようもなかった。いつ言おうか、あきらと会うときいっつも考えてた。小さくなった姿見て、このままお持ち帰りして、オレ好みに育てて、オレだけのもんにしてェとか、さっき思ってた」
「ご、」
「でもさ、やっぱ、『お前』がいい」
柔らかい彼女が、心地いい。ネルシャツから伝わるあきらの柔肌と体温に、心臓がどくんと叩く。想像以上に細く儚い、大人の彼女のからだ。つなぎで覆われた肌は年間通して白くきれいで、純粋な光を携える黒い大きな瞳に今は月が映っていた。ときどき見え隠れするオンナの色香に、くらくらする。
「……避けないの、オレのこと」
「…ッ」
「都合よく取るよ……いい?」
俯く彼女の頬を両手で包んでそっと上げる。目が、かちりぶつかった。朱く潤んだ瞳なんて、先程までの子供のあきらには到底、似合わない。
オレを煽るのは、燻らせるのは、
「好きだよ、あきら」
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後日、大観山。
「こないだは、ありがと」
「からだ、どこもおかしくないか?」
「うん、へーき」
落ち着いた頃に、病院で凜に会った。事の経緯を話したら、どうやら凛もまったくわからない事例だったらしい。そう言えばあの日は月がとても輝いていたなと思い出したら、原因はサプリではなくすべて月の魔法だったのではないかと空想めいた考えが過る。豪にしてみれば、あの可愛らしい、言うなれば本当に天使のような小さくて愛らしいあきらを兄に見せなくてよかったと、ほっとした。でもまだ、はっきりと彼女から聞いていない言葉には、ほっとすることが出来なかった。
「なんか、恥ずかしかった」
「なにが」
「豪に、小さい頃の自分を見られたこと」
「いや、むしろ嬉しいけど。正直、すっげェかわいかったし」
「……ばぁか」
今は夜だが、昼間は芦ノ湖がすっきり見える展望台の、柵にふたりでもたれる。湖を見下ろすように、あきらはぽそぽそ呟いた。
「今度、群馬に来てよ」
「え、オレに兄弟とケンカしろっての。ちょっと自信、ない」
「そうじゃ、なくて、お兄ちゃんたちがいないときに」
「…あきら、おま、それ…っ」
「…アルバム、見せてあげる、から、私の」
とと、とオレに近付いたあきらが背伸びして、耳に残した小さな声。
ああ、もう。
一生、離してやんねェ。
わたしも、好き
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おうじさまのキッスで元に戻ったおひめさま。ちょっとメルヘンな神奈川でした。真ん中ちゃん、小学三年生くらい。豪さんメロメロです。がっつり甘いお話が書きたくて、ここしばらく皆さまよりご好評頂いております豪さん×真ん中ちゃんでお送りしました。ハヤトさん、うーん残念。
2014,4月〜6月