薬「降ってきちまったな…」


ザァザァと降りしきる雨音を聞きながら、誰に言うでもなくそう漏らした。





刻「クロちゃんのこと寝かせてあげて?」





刻燿に呼び出された時にそう言われ、詳しい話を聞かずともすぐにその意味を理解できた。それくらい、ここ数日で大将の顔色は悪くなっていたから。

睡眠時間が短いのはいつもだったが、今まで隈ができたことなど無かったのにそれが表れ、欠伸を噛み締めるような表情も見られるようになった。

食事の時も食べ終わるのはいつも遅かったが、最近では盛る量が減ったのにその速度は変わらず、しかも無理に喉に通しているようだ。


声をかけようかと何度も思った。だがその度に大将が何かを思案している様子が見られ、まだ聞くべき時ではないのだと言われているようで口を噤んだ。今聞いても彼女は何も答えること無く、『すみません』としか言わないのだと本能的に悟ってしまったから。

それは他の連中も同じ。特に長谷部の旦那なんかは朝稽古を共にしているのもあって、大将と交える剣から彼女が集中できていないことをわかっていた。根掘り葉掘り聞きたいことはあっただろうに、旦那は話してくれるのを待つと言ってそっと見守ることに徹していた。「主の思うままに」と彼女の気持ちを優先して。大将のことになると本当に忠犬のような奴だ。

鶴丸の旦那は驚き提供を控えているようだったし、三日月の旦那も大将とお茶する時に心配するような眼差しを送っていた。和泉守の旦那なんて言い出すのを踏み留まるあまり時間遡行軍に八つ当たりしまくっていた。堀川がそれを宥める様子もだいぶ見慣れてきちまったな。


皆が大将を心配している。だから誰にでも良いから早く頼りに来てくれとどれだけ願ったことか。

そうして漸く、彼女は俺を呼んでくれた。刻燿から大将が呼んでいると言われ、話の内容はやはり彼女の顔色に関係することだった。



薬「…………」



膝の上で静かに眠る彼女を見下ろす。雨音のせいか寝息は殆ど聞こえない。顔の肌も白く、呼吸の度にゆっくりと上下する肩が無ければ死んでいるのかというくらいに静かだ。

ふと大将の腹に置かれた右腕に目がいき、その袖口から見えた痣に眉を寄せた。起こさないように袖を引き、そっとそれを隠してやる。

左腕もそうだったが、まさかここまで酷く痣が残っているとは思わなかった。濃く浮かび上がったと言っていたが、それにしても量が多い。腕だけでこんなにあるとなると、この浴衣の下にはもっと多くの痣があるのだろう。痛みは無いらしいが…



薬「(痛くないわけねぇだろう…)」



身体よりも心が。痛くて苦しい筈だ。過ぎた過去のことを再び夢で呼び起こされて…相当辛いだろうに。

大将が頼ろうと思えないくらい、俺は頼りねぇか?



薬「(…いいや、大将はそんなこと思っちゃいねぇ)」



頼らないんじゃない。頼り方がわからないだけだ。
虐待痕を見せてくれたことが何よりの証拠。

大将の場合は他人に見せること自体は何とも思わなさそうだが、見せた相手がそれで傷つくことは嫌うだろう。小さい頃からの知人らしい刻燿だけならまだしも、俺にもそれを見せてくれたんだ。これを頼ってくれている以外の何だと言うのか。

器用なくせに不器用なこの人は、まだ呑み込む癖が抜けていないらしい。だから刻燿は「寝かせてあげて」なんて言ったのだろう。これ以上呑み込ませては大将がぶっ倒れちまうからと。

あいつが俺に頼んだのは前に二人きりで話したことがあったからか、それとも俺が近侍だからなのか。真意はわからねぇけど、こうして俺が言った通りに眠ってくれた大将を見るに、あいつの人選は合っていたということなのだろう。ちょっと癪だが、大将が素直に言うことを聞いてくれたってのは俺にとっても嬉しいことだった。



乱「主さん、いるー?って…、あ」


薬「しー。どうした乱、厚。いち兄も一緒か」



三人分の足音が聞こえ、現れた兄弟たちに静かにするように促す。

…いつもなら足音や気配で起きるだろうに、大将はぐっすりと俺の膝に頭を預けたままだ。



厚「珍しいな、大将が昼寝してんの」


一「相当お疲れのようですな」


乱「顔色悪かったもんね」



声を潜めて話していても身動ぎ一つしない。いち兄の言う通り日頃の疲れも溜まっていたのだろう。

誰か来たら起こせと言われたが…



薬「悪いが、大将に用なら後にしてやってくれ。最近良く眠れてなかったみたいだからな」


乱「わかった。でも用は薬研にあるんだよねぇ。部屋にいなかったからここかと思って」


薬「俺に?」


厚「おいおい、まさか食事当番忘れてねぇだろうな?」


薬「…………」


厚「忘れてたな」


薬「悪い、すっかり」



言われて思い出した。今日は俺と厚と乱での食事当番で、もうすぐ十一時。昼餉の支度を始めねぇと多人数分作るのに間に合わねぇ。

…のだが…



乱「主さん起こすのは可哀想だね」


一「薬研、当番は私が代わろう」


薬「すまねぇ、いち兄」


一「謝ることないよ。昼にまた呼びに来るから、それまで主のことは頼んだよ」


薬「ああ。ありがとな。乱、悪いが大将に羽織かけてやってくれねぇか」


乱「うん、りょーかい」



ふわりと羽織がかけられても大将は動かない。本当に熟睡だな。こんな無防備な大将なんて滅多にお目にかかれないだろう。



乱「そんじゃ、お昼作りに行きますか」


一「そうだね」


厚「また後でな、薬研」


薬「おう」


乱「間違っても主さんに手ぇ出さないでよね」


薬「誰が出すかよ、さっさと行け」



三人が出ていき足音が遠ざかると再び静寂が訪れる。膝上の彼女はやはり起きる気配が無い。悪夢に魘されている様子も無いし、ちゃんと休めているらしいその様子に頬が緩んだ。

…一先ずは大丈夫そうだな。今だけでも悪夢に襲われずにいるのなら、ゆっくり休んでくれ。

そっと頭を撫でてやりながらそう願う。

嫌な予感がすると言っていた。悪夢だって現れていないのはこの一時だけなのだろう。政府での視線のことや、前に言っていた裏切り者らしい奴のことだって…謎はまだまだ多く残っている。



薬「あんたの重荷を肩代わりできりゃ良いんだけどな…。そんなことしたらあんたは心を痛めちまうか」


『……ん…』


薬「!たいしょ?」


『…………、…』



ほんの僅かに身動いだ彼女は俺の腹に顔を埋めるように体勢を変え、再び眠りの波に拐われていった。すり、と額を擦り付けて甘える様子は物凄く貴重だ。



薬「…っ、…(心の臓に悪ぃ…)」



熱くなる頬を手で扇いで必死に抑える。

いつもこうして甘えてくれりゃ良いんだが…、それは恥ずかしいとか言いそうだなと安易に想像できて苦笑した。

無意識にでも甘えてくれた。今はそれだけで十分だな。



薬「また頼ってくれな、大将?」



顔にかかった髪を払いながら呟いた俺に答えるように、彼女はほんの少しだけ表情を和らげた。

雨はいつの間にか止んで、厚めの雲間から光が射していた。










『寝すぎましたね、すみません。膝痛くありませんか?』

薬「大丈夫だ。それより夢は?」

『見ませんでした。薬研のお陰です』

薬「大袈裟だな。だが、見なかったなら良かった。また眠れなかったらちゃんと言ってくれよな?」

『ありがとう、薬研』

薬「おう」


 

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