薬「夜雨、こっちを向いてくれ」


『……っ、…』



私を呼ぶ彼の腕が少しだけ緩められ、ゆっくりと振り向くとボヤけた視界の中に藤色が映った。いつの間にか溢れていた涙を拭うこともせず、彼の優しい微笑みから目を逸らせない。



薬「俺は夜雨が好きだ。誰にも渡したくない。添い遂げたいとさえ思ってる」


『…、やげ…』


薬「勝手に"血の契約"をしたと言ったな?上等じゃねぇか。好いた女が自ら来てくれて喜ばないわけねぇだろ?刀だ神だ人間だと区切りをつけて諦めるのはやめた。一人の男として、俺は夜雨が欲しい」


『!!』



欲…しい…?

私を?

でもそれは…、私は……



『……私は…っ、私は怖い…。薬研が私を求めてくれて…その気持ちはとても嬉しいのに…、同じくらい、…怖い…っ』


薬「…何が怖い?」


『っ、また…失いそうで…』



求めることは奪われることだと、いつの頃からか私の中でそう変換されていた。それは助けを乞い見返りを求められたことから来るのだろう。



『薬研が折れそうになってたのを見て頭が真っ暗になって…、どうしても失いたくなくて"血の契約"をして…。私は普通の人間であることを棄てた。そうすることで貴方が戻ってきてくれるならと』


薬「…………」


『なら今は?貴方の気持ちに応えたら…、私が欲望のままに気持ちを伝えたら、今度は何が無くなってしまう?戦いが終わって充分幸せになれたのに、貴方の気持ちを聞いたらもっともっと欲しくなって…っ。でもっ、貴方を求めたらまた…っ』



また失ってしまう。

彼と共に過ごす日々が幸せだった。抱き締めてくれる温もりも。私に向けてくれる笑顔も。名を呼んでくれる声も。全てを欲した結果、彼を失いそうになった。

だから今度もまた何かを無くすのだろう。これまでよりももっと大切な何かを。

犠牲なくして幸せは手に入らない。現に私は母さんを亡くしてからの十六年間を掛けて、やっと重荷がなくなったのだ。今目の前にある幸せは…掴むことは簡単だけれどその犠牲は計り知れない。それが私には怖い。



薬「…そうか」



俯き、ぽろぽろと零れる涙。萎縮する身体がなんとも情けない。審神者としてずっと胸を張れてきたことが嘘のように、今の私は自分の気持ちにさえ押し潰されそうな程に弱い。

これが、"私"。

誰かの為にと考えていなければ自分の足で立つこともできない。内気で、泣き虫で、後ろ向きで、自分のこととなると途端に意気地無しになる。負けず嫌いという殻の中で無様に縮こまっていたこれが本当の"私"だ。

情けない…。

目を閉じ一人落ち込む。すると、握られている手がゆっくりと引かれた。



『…?』



開かれた手は何かに当てられ、見れば薬研の胸に押し当てる形になっている。トクントクンと掌に響く鼓動は速い。



薬「生きてるだろ?俺」


『…はい』


薬「俺のこの命は夜雨に救われた。救われた俺が今度は夜雨を欲している。あんたのその瞳も俺の色に塗り替えちまったし、眷属化もさせちまったにも関わらずまだ欲しいんだ。欲にまみれてんのは俺だってそうさ。失うことは怖い」


『…………』


薬「だから俺は俺の刃生と心を夜雨にやろう」


『ぇ…?』


薬「"刃生を掛けて守る"って言っただろう?俺はそんくらいあんたを好いてんだ。もし夜雨に失うものがあるとするなら、それはあんたの心だ」


『こ…ころ…?』


薬「あんたの抱く気持ちが…、もしも俺と同じなら、俺はその気持ちが欲しい」


『!』


薬「夜雨が欲しい。夜雨の恋心が欲しい。夜雨の全てが欲しい」


『やげ…ん…っ』


薬「ははっ、俺の欲望も相当だろう?」



包み隠さず言葉にされた薬研の欲。それは私の欲望と全く同じで…、同じであることに安堵するとまた涙が溢れてきた。

薬研も私も欲しい物は同じ。
お互いが持つ、お互いへの恋心。
失うものは、彼に捧げる恋心。

…なんだ。何も怖がることは無かったんだ。



『…っ、……き…』


薬「?」


『…好き…っ、薬研が…好きっ』


薬「!夜雨…」


『好き、大好き…っ。私も薬研が欲しいっ。私の全てを薬研にあげるから、だから…』



貴方の全てを、私にください。



そう言った途端、身体が薬研の温もりで包まれた。少し苦しいくらいに抱き締められ、さらっと流れる彼の髪が頬を擽る。



薬「やっと聞けた。夜雨の気持ち」


『薬研…』


薬「待ち遠しかったぜ」


『っ、ごめん…なさい…』


薬「いいさ。待ってた分、今凄く幸せだから」


『それは…私も』



腕を伸ばし彼の背に回す。存在を確かめるようにきゅっと力を込めると、耳元で彼がクスッと笑った。



『?』


薬「こうして夜雨に抱き締めてもらえる日がくるとはな。初めの頃は俺の服をつまむだけだったのに」


『ぅ…』



何も言えない。あの頃は今よりもっと自分を抑え込んでいて、頼ることを恐れていたから…。



薬「でもま、漸く互いの気持ちが通じたんだ。これまで我慢してた分、あんたの心を幸せで埋め尽くさせてもらうぜ、夜雨?」


『…っ』



み、耳元で名前呼ぶの反則…。ただでさえ薬研の声は私の心にいつも響いてくるのに…。

安心したり、動揺したり…、笑顔や泣き顔、私の表情を取り戻してくれたのは薬研だ。それだけでも幸せなことなのに、もっと幸せにすると?

ならば…



『上等。薬研を幸せにするのも私だけだから。負けないよ、私』


薬「!ははっ!さすが負けず嫌いだな。じゃ、どっちがたくさん幸せにするか、勝負といくか」


『いざ、勝負。…ふ、あはは』


薬「ははは!」



不思議だ。さっきまで悶々と考えて膨れ上がらせていた蟠りが全て消え失せた。

声に出して笑えることが嬉しい。私を救ってくれた彼が…、彼の想いが…、全てが愛おしい。



薬「これから先ずっと、俺は夜雨のもの。そして夜雨は俺のものだ」


『うん。薬研は私のもの。私は薬研のもの。
薬研、大好き』


薬「俺も。愛してる、夜雨」



藤の瞳で見つめ合い、また笑みを溢す。

二度と離さない。そんな呪いでも掛けるかのような瞳の輝きはうっとりする程に美しい。

どちらからともなく縮まる距離。触れた唇から伝わる熱。愛しい彼の温もりに私の心は幸せで満たされていった。










勝負するまでもなかったね…

私の心は
既に貴方でいっぱいにされていたのだから

でもそれを口にするのは悔しいから
まだ暫くは負けず嫌いの私に付き合ってね?

私の愛しいひと

 

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