見覚えがあるようで無い、幻想的な風景に言葉が出てこない。本丸と同じ建物に、同じように色とりどりの花畑が広がる庭。
しかしどこか違うと思ったのは、その花の種類や配置……、この季節に咲かない花が咲いていたりすること。何より、私の刀剣たちの賑わう声が聞こえないことが、私の中で違和感となっていた。
花畑の中心に私を降ろすと、薬研はしてやったりといった悪戯な笑みを浮かべた。
「驚いたか?」
「とても」
薬研が神隠しするとは思わなかった。いずれは連れて来てくれると思っていたけれど、まさか皆さんの前でそれをするとは……。
「ここが薬研の神域……」
「ああ。俺の神域だ」
薬研の神気が充満している。足下に咲く菫からも薬研の気が感じられ、この空間全体が薬研によって作られているのだとわかった。
「わざわざ本丸に似せて作ったの?」
「お見通しか」
手を引かれ、建物の縁側へと導かれる。花を踏んだりしないかと心配になったけれど、薬研が歩く場所にだけ道ができ、まるで花が避けてくれているようだ。
二人でそこに腰掛けるとふわっと風が吹き、甘い花の香りを運んでくる。心地良い風と香りを楽しんでいると、薬研は庭を眺めながら静かに語った。
「もともと俺の神域には何も無かったんだ」
「何も?」
「何も。暗いんだか明るいんだか、空間がそこにあるだけでな。それが当たり前だった」
そう語る薬研の瞳は、その頃を思い出しているかのように遠くを見つめていた。
「その当たり前だったまっさらな神域が、今はこうして花が咲き乱れてる。何故だかわかるか?」
「……心境の変化、とか?」
「正解」
一人立ち上がった彼は藤棚へと歩みを進め、その一房に手を添えた。彼の瞳と同じ儚げな色をした花だ。
「神域の風景は俺の心次第で何にでもなる。俺が作り上げる空間だからな、戦場のような緊迫する風景にだってできる。
……今まで何も無かったのは俺が何もかもを諦めていたからだと、修行に出てわかった」
「…………」
「逸話の話、手紙でしてただろ?」
「うん……」
「その時はまだ何もわからなかった。極の修行の意味……。信長さんのとこで何を見りゃ極の力が手に入んのか、どうしたら俺は強くなれんのかって、ずっと色んな物を見て考えた。そしたらな、いつも頭に浮かぶのは夜雨…、あんたのことだった」
「え?」
振り向き優しい眼差しを寄越す薬研に戸惑う。泣き顔にも似ているけど違う。私だけを映す藤色に私も瞬きすらできない。
「俺は何のために強くなりたいのか。強さを欲する理由は一つ。夜雨を守るためだ」
「…………」
「主であり、恋人の夜雨を守る。そのために強くなりたい。
なら、俺の弱さの原因は何なのか。強くなるのに足引っ張ってんのは何かって考えたら、それは俺自身が逸話を信じてなかったことだって気づいた」
「逸話を……」
主人の腹を切らない刀。その逸話を、薬研自身は信じていなかった?
「俺の逸話があって、粟田口の刀は人々が欲するようになった。そいつはとても誉れ高いことなんだと兄弟たちからも聞いたが、俺にはどこか遠くに聞こえた。俺は主人の腹は切らなかったが……」
「主人の命は守れなかった」
「そうだ。兄弟達と俺は違う。俺は逸話は作れてもそれ以上のことはできなかった。主人の自害を止める力は、俺には無かった」
「薬研……」
「逸話なんて信じられるわけねぇだろ? 俺自身は主人の血で染まらずとも主人は血を流すんだ。
結局、主人の腹は守れない。守り刀なんて名ばかりだ。守りたくてもそんな力は無いんだって、ずっと諦めていた」
さぁっと吹く風に靡く黒髪が彼の顔に影を落とす。
小さく呟くように紡がれる薬研が秘めていた気持ち。逸話を話題に出される時、彼はいつもこんな想いを抱いていたのだと思うと、胸がきゅっと苦しくなった。
私は今、どんな表情で彼の気持ちを受け止めたら良いのだろう?
どんな言葉をかけるべきだろう?
私が考えていることもお見通しなのか、薬研は苦笑して歩み寄って来た。
「そんな顔しなさんな。今のは俺が今まで思ってきたことであって、今は違う」
「今は……」
「ああ。過去の俺と今の俺が決定的に違うこと、それはな……」
伸ばされた腕が私の背に回される。久しぶりの彼の温もりに包まれ、安心すると同時に心拍数が上がった。
さらさらした髪が頬に当たってくすぐったい。かと思えば薬研に頬ずりされ、以前までより積極的な行為にそれこそ驚いた。
「薬研っ」
「こうして肉体が……、手足があって触れることができる。夜雨を抱きしめることも、頭を撫でることも……」
「……っ」
「口づけも」
触れるだけ。合わさった唇は思いのほか熱を帯びていて、間近にある薬研の顔もほんの少し朱に染まっている。
「今までの俺は諦めを当然としていた。でも、見極めてわかったんだ。刀剣男士として顕現した俺は昔とは違う。逸話なんて不確かな力じゃなく、この手で主人を……、夜雨を守れるんだ」
「やげ……」
「その答えに辿り着いた時、ここの景色が変わったんだ。自分で言うのもなんだが、綺麗な庭だろう? この景色を作り上げたのは俺自身でもあるが、夜雨を守るって気持ちがそうさせたんだ。
……俺は薬研藤四郎。俺も"藤四郎"だ。守るのは任せてくれ」
頼もしい藤色に見つめられ、ほっと息を吐き出すと頬を何かが伝った。確かめるまでもなく、私の涙だ。
何を泣いているのだろう?
悲しいことなんて何も無いのに、どうして涙が出てくるの?
彼の指で優しく拭われても、零れ落ちていくそれはとめどなく溢れてくる。
「泣かないでくれ、夜雨。泣き顔も可愛いが泣かれるのは困る」
「そ、そういうこと言われたら私が困る……っ」
「ははっ、すまんすまん」
よしよしなんて言いながら再び私を腕の中に閉じ込める。力強い包容は極になったせいもあるのか以前にも増して安心感がある。
この涙は薬研が無事に帰って来た安心から出たものでもあるけれど、もう一つ。私が抱いていた不安が取り除かれたことから出るものだ。
「"昔の私"は……、貴方が受け入れられるものだった?」
"守る"と言ってくれるのだから受け入れられたのだとわかる。
最後の手紙を読んだ後、こんのすけに頼んで薬研を別の時代へと送り込んだ。
……私の過去に。
私が親戚に虐げられていた時間に。
死にたがりの瞳をした私を薬研に見てほしいと、こんのすけに頼んだ。
「受け入れたさ。あんたの過去を俺が受け入れないわけがねぇだろう」
「一番酷いところに送ったのに?」
「わかってる。あれが受け入れてほしい過去の夜雨なんだろう?」
毎日痛かった。辛かった。苦しかった。
包丁を持てばどこに刺したら楽に死ねるかを考え、縄を見ては首を吊ろうか、川に飛び込んだら、屋上から飛び降りたら……。
死に方を考えてはシロを思い出して頭を振る。虐待されながらそんな日々を送っていた。
薬研が受け入れてくれている私はあくまで本丸で過ごしてきた私だ。私が私自身で作りあげた"クロ"という審神者。語った過去だけでは足りない私の成り立ちを、薬研の目で見てほしかった。どんなに醜い過去でも受け入れてほしかった。
「信じたいって思った」
「…………」
「虐待から解放されて、信じられる人たちに囲まれて、今はすごく幸せだって感じてる。
でも、心のどこかでは人間不信の私がいて、完全に信じられる人っているのかいないのか、私でもわからなかった」
「だから俺に過去を?」
「本当の私……、嘘偽りの無い私の素顔はどれかって思った時に浮かんだのは、薬研の前で泣く時の私。それと、死にたがりだったあの頃の私。
私の瞳を好きだと言う貴方が、過去のあの荒んだ瞳を見てもまだ私を受け入れられるのか。受け入れてくれるって信じて貴方を送り込んだ」
私も強くなりたかった。
私の弱さは人を疑う心。他者を信じきれない自分自身。薬研は私が過去を語っても「守る」って言ってくれて、それでも少しだけ疑っていた。
守るなんて口先だけじゃないのか?
本当はその場の雰囲気で流されてしまっただけじゃないのか?
疑り深い自分が嫌いだった。
だけど、いつも傍にいてくれて愛情をくれる彼をこれ以上疑いたくもないし、こんな私を終わりにしたかった。
仲間を心の底から信じられる強さがほしい。だから、薬研を信じて過去の私を見せた。
「実はな、俺も見たいと思ってたんだ」
「え……?」
「修行から帰る前に、もし少しでも許してもらえるんなら夜雨の過去を見に行きたいって。俺自身、ちゃんと極まってんのか確かめたくてな、駄目元でこんのすけに頼もうかと思ってた」
まさか夜雨の方から見てほしいなんて言われると思わなかったけどな、と言って笑う薬研。肩から力が抜けて彼に寄りかかれば、そっと髪を鋤くように撫でてくれた。
「過去の夜雨を見て、やっぱり強いなって思った」
「あの瞳でも?」
「それでも踏みとどまった時の瞳は今と一緒だぜ? 強い光で"負けない"って書いてあった」
「まぁ……それは思ってたけど……」
「あんたの負けず嫌いな瞳は昔も今も、俺色に染まっても変わらねぇ。いつ見ても綺麗だ」
覗き込んでくる彼の顔があまりにも間近に迫っていて反射的に身体を離す。
……が、距離が全く離れない。
「や、げん…顔…っ」
「ん〜?」
「「ん〜?」じゃなくてっ、近い…!」
「嫌いか? 俺の顔」
「好き…………ぁっ!?」
「じゃ、良いよな夜雨」
押し倒され、深く塞がれた唇。抗う術も、理由も無い。
抵抗しない私に満足したらしい彼は隣に寝転んで視線を合わせ、ゆるりと大人な笑みを浮かべた。
「安心してくれや。これ以上のことは、夜雨の心の準備が整うまで待つ。そういう約束だったろ?」
……優しいところは変わらない。
やっぱり薬研には敵わないや。一生勝てないんだろうな……。
「ありがとう。薬研が信じられるひとで良かった」
「俺も夜雨が信じてくれて嬉しい。
……あ」
「?」
「改めて夜雨にちゃんと言いたいことがあるんだがな」
「……ふふ、私も」
頬に手を添え、同じ色の瞳で見つめ合う。
「ただいま、夜雨」
「おかえりなさい、薬研」
極となって帰ってきた彼からのお土産は、想像していた以上に甘美で愛しいものだった。
「これからも宜しくね。私の愛刀様」
「勿論だ。大将の守りは俺に任せてくれ。自殺なんかしたくてもさせないよ」