ゆめとうつつの境界線


22時17分。
眠るとそこは昨日見た夢と同じ場所だった。
緩やかな斜面には芝生と小さな花々が、目の前には平屋と大きな桜島がある。
夢の続きが見たくなったのだろうか。
自分の格好が昨日に続き制服姿だった事を確認してから、小さくため息をついた。

鯉登音之進。
そう名乗った少年は今日も現れるのだろうか。
昨日この場所にいた時には、俺の場所だから退けと言っていた。
お気に入りの場所ということであれば、待っていれば来るだろう。
そう思い、芝生に腰をかけながら街の景色を眺めていると、聞き覚えのある猿叫が響いた。

「キエエエエ!」
「あ…また会えたね、音ちゃん」

噂をすればなんとやら。
まさか本当にすぐに会えるとは。
本当にお気に入りの場所なのだろう。
昨日までの威勢はどこに行ったのやら、驚き固まっている音之進に手を振ると、音之進はもじもじしながら、おそるおそる近づいてきた。

「また、ここにおっと?」
「んー…気がついたら?」

…やっぱり天霧どんは変や。
音之進は口元を弛めながら、そう言った。
昨日はすごい形相で退けと言っていたので、今日も言われるかと思っていたが…居てもいい、という事だろうか。
それに少しだけ心を開いてくれたのか、以前よりも口調が優しくなった気がする。
都合のいい夢を見ているだけかもしれないが、嬉しい変化に頬が緩んでしまう。

春香は音之進を隣に座らせ、どうしても気になったことを話し出した。

「ねえ、前から思ってたんだけどさ。春香でいいよ。私も音ちゃんって呼んでるし」
「キエエエエエ!!」

だからなんなんだ、その猿叫は。
最初は音之進の不思議な猿叫に驚いていたが、だんだん慣れてきてしまっていた。
何も言わない音之進を見つめていると、照れているのか耳まで赤く染め、口をパクパクとさせていた。
意外と初心なのだろうか。

可愛い反応をする音之進に、なんだか楽しくなってきてしまった春香は、音之進の頬を軽くつついて促した。

「ほら、呼んでみてよ」
「……ッ!!!……春香…」

音之進は大きく深呼吸をしてから、聞こえるか聞こえないかぐらい小さな声で呼んだ。
ただ名を呼ぶだけなのに、緊張した様子だった。
なんて可愛いのだろうか。
出会った時の生意気さが懐かしくなる。
うんうん、えらいね。と頭を撫でると、音之進は嬉しそうに目を細めた。

今日はとても幸せな夢だ。


◇◇◇



音之進と話す時間はあっという間だった。
最近は自顕流という薩摩藩を中心に伝わった古流剣術の稽古をしているらしい。
筋がいいと先生に褒められた、模擬試合で惜しくも1戦負けて悔しかったなど、楽しそうに話してくれた。
ちなみに自顕流の掛け声がキエエエ!のようで、ついつい驚いたりすると出てしまうようになったという可愛いエピソード付き。
聞いていて飽きないし、なにより楽しそうに話す音之進が可愛くて仕方がない。
自然と頬が緩んでしまう。

そういえば…日中にもかかわらず音之進は外にいるが、学校には行ってないのだろうか。
剣術の稽古はするが、学校には行かない ということはないと思うのだが。
不思議と気になってしまい、聞いてみることにした。

「ねえ、音ちゃん。学校って行ってるの?」
「…楽しゅうなかで行かん」

突然の不良発言に面食らった。
楽しくないからって、貴方ね…と少し呆れてしまったが、それ以上に音之進の変わりように驚いてしまった。
先程と打って変わって静かになり、春香から視線を逸らしたのだ。
そんなにも聞かれたくない事だったのだろうか。
音之進は神妙な顔つきのまま、自分の両膝を手に抱え俯いた。

「…ご両親から叱られないの?」
「がられん」
「どうして…」
「おいは…兄さあ みたいにはなれんで…」

それだけ言うと、音之進は口を噤んでしまった。
お兄さんと比べられているのだろうか。
それとも…自分で比べて劣等感を抱いてしまっているのだろうか。
他人が容喙すべきことではない気がするが、音之進が黙り込んでしまうほど、彼にとっては深刻な問題なのだろう。
お節介は百も承知で、春香は音之進を真っ直ぐ見つめた。

「…余計なことかもしれないけどさ、私はお兄さんのようになる必要はないと思うよ?音ちゃんは音ちゃんでしょ?」
「おいは…おい、やけど…」
「…だけど?」

音之進はひと呼吸おいてから、ポツポツと話し始めた。
13歳離れたお兄さんはとても優しく、音之進から見ても尊敬できる素晴らしい人だったようだ。

「兄さあは、父上と同じ海軍で…日清戦争の黄海海戦で松島に乗っちょった。じゃっどん清国ん砲弾で…け死んだ。父上は他ん船から大破すっとを見ちょいやったと。」

音之進は自身の手を強く握りしめた。

「父上は、兄さあがけ死んでから、おいのことがらんくなった…それどころか…笑た顔も見せんくなった」
「………」
「おいは鯉登家のおちこぼれじゃ…兄さあの惨たらしか姿を想像してから、長時間船の上におれんくなった。立派な海軍将校にないがなっはずがなか。…じゃっどん、父上は、おいのことがらんくなったんじゃ。おいが死ねばよかった……」

…もう無理だ。そう感じた時には既に体が動いていた。
春香は音之進の顔を両手で包み、無理やりに自分の方に向かせた。
驚いた顔の音之進と視線がぶつかる。

「ねえ、音ちゃん。お兄さんの代わりに死ねばよかったなんて言っちゃダメだよ。」

聞いていて悲しかった。
これは夢のはず。夢のはずなのに、どうして…。
本当に明治時代にいるのではないかと錯覚してしまう。
帝国海軍、日清戦争、兄の戦死。
黄海海戦なんて、聞いたこともないのに。ないはずなのに、全てが作り話と思えないほどリアルだった。

「…春香…」
「お兄さんの代わりがいないように、音ちゃんの代わりだっていないんだよ。音ちゃんは音ちゃんしかいないの。」

音之進とお兄さんは13歳も離れていたのだ。
未だ13歳にも満たない音之進からしたら、お兄さんのようになりたいと憧れを抱くのはわかる。
だが、お兄さんの代わりに死ぬだとか、お兄さんのようになれないから叱られなくなったというのは違うと思う。
音之進には音之進の人生があるのだ。
まだまだ未来がある。進める道もたくさんがある。
必ずしもお兄さんと同じ道を歩む必要はないのではないか。

目を見開いて呆然と見つめ返す音之進に、春香は目頭が熱くなるのを感じた。
泣いてはダメだと自分に言い聞かせ、涙をグッと堪えながら音之進に微笑みかけた。

「それにね、お父様はきっと音ちゃんのことを大切に思っていると思うんだ」
「そ、そんなわけなか!父上は、おいよりっ…兄さあが生きちょりゃと思っちょるはず」
「んーん。それは違うよ。」

おそらく、音之進のお父様はとても愛情の深い方なのかもしれない。
お兄さんが亡くなってから、変わってしまったと言うなら尚更。
自分の子が死んで悲しくない親はいない…はずだ。
時代が違えば、お国のために戦い名誉ある死だと言うのかもしれないが…我が子が目の前で亡くなるのは常人であれば辛いだろう。

「お兄さんも大切だった。だから、失った時はとても辛かったと思う。でもね…失った辛さを知っているからこそ、音ちゃんを失うことが怖いと思うんだ」
「そうか……?」

平和な時代に生まれた春香には、戦時中どのような気持ちで過ごしていたのか分からない。
授業で習った大まかなことしか知らないのだ。
だから軍人の親が子に向けて、どのような気持ちで接していたのか分からない。
しかし…少なくとも愛情はあるはずだ。

「立派に成長して欲しい。でも、できることなら生きて欲しい。でもお父様は立場のある方だから…すごく葛藤しているんじゃないかな」

そうしている内に、どう接すればいいのか分からなくなってしまっているのかもしれない。

「だからね、ちゃんと音之進の事を大切に思ってくれていると思うよ?今は分からないけど、きっと…いつか話してくれる日が来るよ。」

だから、死ねばよかったなんて二度と言わないで。
そう言いながら春香は音之進の頬をするりと撫でた。
音之進は擽ったそうに目を細めている。
そのまま手を離すと、少し寂しげな顔で春香を見つめ、俯きながら そうだろうか…と呟いた。

「そんな日が来るだろうか」
「きっとね。まぁ、まずは非行ばかりしてないで、できることを増やしていこう?」

できないことを頑張ることも大事だが、そればかりでは気が滅入ってしまう。
それに、人にはそれぞれ向き不向きがあるのだ。
今は苦手なものばかり目につくから、悲観的になってしまうのかもしれない。
もっと見聞を広めてみれば、音之進にとって自信になるような強みが見つかるかもしれない。
その為にも学校に行く必要がある。

「苦手なことを克服するのは、すごく時間がかかるからね。他の道を探すのもありかも。海上がダメなら、陸で。なーんてね」

無理だよね、と困ったように頬をかいて笑う。
すると音之進は目を丸くさせ、眉尻を下げて笑った。

「春香は…まこち、変わっちょる」

学校は…気が向いたら、行く。
確かに音之進はそう言った。

「うん。えらいね、いい子…お父様に認めて貰えるように頑張ろうね、音ちゃん」
「うん…あいがと」

音之進の頭をそっと撫でる。
会ったことも無い音之進の父からは、なんてことを吹き込んだんだと怒られてしまうかもしれない。
しかし、あんなにも落ち込んでいる音之進を放っておくことは出来なかった。

春香はただ、感じたことを伝えた。
こういう時の勘は当たるほうだと自負している。
今回は絶対に合っていて欲しいと切に願うばかりだった。





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