涙にくちづけまたあう日まで


翌日。音之進は急に帰ってごめんと謝ってきた。
春香が理由を聞こうとすると、なんでもないの一点張り。
少し胸の内がモヤモヤとしたが、深く追求することは無かった。
あれから数日経つが、お互い何事もなかったかのように接している。

いや、何事もなかったかのようにと言うのは語弊がある。
あの日を境に、音之進は心ここに在らずな状態が増えたのだ。
また、触れようとすると、ビクッと肩を揺らしながら小さくキェッと猿叫の様な声を出すようになった。
触れられるのが嫌なのかと思い、伸ばした手を戻そうとすると、残念そうな顔をする。

全く。どっちなんだ。
結局いつも躊躇しながら、音之進の頭を撫でる。
すると音之進は頬を染めながら嬉しそうに微笑むのだ。
その可愛さといったら…!
愛らしい音之進に癒されながら、春香は幸せなひとときを過ごすのだった。


◇◇◇



今日も今日とて、変わらぬいつもの場所で目を覚ました。
音之進と出会ってから丁度ひと月が経とうとしている。
光陰矢の如しとはよくいったものだ。

音之進に出会ってから毎日が楽しくて仕方がない。
現実がつまらない訳では無い。
友達と放課後に出かけたり、学校で飼っている猫と戯れたり、家族と共に過ごす夜だって、何一つ欠けて欲しくない日常だ。
だが、それ以上に鯉登音之進という存在が大きくなってしまった。

たったひと月、共に過ごしただけだ。
そのたったひと月で、生意気なところも可愛く見えてしまうほど絆されてしまった。
訛りすぎて何言ってるか分からなかったのが、今では彼が話す鹿児島弁をなんとなく理解できるようになり、喜んでもらえるようにと、簡単なお菓子を作って持っていったり。
知らないうちに音之進との時間は、大切な日常の一部になっていたのだ。
だが…この ”時をかける夢”も、いつ終わりが訪れるか分からない。
この夢を初めて見た時のように、突然プツリと見なくなってしまうのだろうか。

膝を抱えながら、小さくため息をひとつつくと、遠くからドッドッドッというド・ディオン・ブートンのエンジン音がした。
間もなく音之進が来るのだ。

「春香!」

春香は声のする方を向くと、満面に喜色を湛える音之進が左手を振りながら来ていた。
片手運転して大丈夫なのだろうか。
そう思いながら小さく手を振り返すと、さらに嬉しそうに笑う。
うーん、今日も可愛い。

音之進は近くに停車すると、春香を呼び寄せた。
今までは近くに停めたら、すぐに駆け寄ってきていたのに…いったいどうしたのだろうか。
春香はスカートの汚れを手で払いながら立ち上がり、首を傾げながら三輪車に跨ったままの音之進に近寄った。

「春香!!今日は連れていこごたっ場所があっど!」
「連れて、いきたい場所?」

音之進は頬を染めながら、褐色の肌と対称的な白い歯を覗かせた。
はて、いったいどこへ行くというのだろうか。
いつも目覚める丘でお話をしたり、お菓子を食べたりしているだけだった。
どこか行ってみたい気持ちはある。むしろ行きたい。
明治時代の街並みに興味はあったし、生活様式や何が流行りなのかも気になっていた。
実際の生活が見れる貴重な機会なんて、一生ないだろう。
しかし初めて会った時の音之進の反応から、現代では普通の制服姿を明治の人に見られてはまずいのでは?と考えるようになった。

痴女と思われるのはごめんだ。
それに、学校に行かないなどの非行をしていた元 問題児の音之進と一緒にいるところを見られたら、街中で「鯉登さんちの次男坊と歩いている、あの女は誰なのか。」と噂になるのではないか。
音之進まで変なように言われるのは、さすがに避けたい。

音之進がどこかに行こうと言い出すことも今まで無かったし、世界に二人だけしかいないような不思議な感覚も嫌いではない。
さんざん悩んだ末、消去法で音之進以外の人が来ない丘にいる、という無難な選択をしたのだ。
明治時代の街並み…見てみたかったなぁ…

そう思っていたのに…音之進からの急な誘いに春香は耳を疑ってしまったのだ。
思わず 何処へ?と聞き返すが、いいから行こう!と場所を言おうとしない。
いったいどうしてしまったのだろうか。
人目に付くところだと困るのだが…お互いに。
しかし…せっかく音之進が誘ってくれたのだ。
春香は小さくため息をつくと、わかった。とだけ伝え、音之進について行くため三輪車の隣に立った。
すると音之進は目を泳がせながら、春香の腕を優しく掴んだ。
今度はどうしたのだろう。

「そ、 そこまで少し距離があっど。後ろに乗れ」

え?これって二人乗りできる乗り物なの?


◇◇◇



率直に言おう。楽しかった。
音之進の指示の元、なんとか三輪車に乗ることが出来たのだ。
まずは三輪車のフレーム部分に足を乗せる。
フレーム部分には足を固定するものなど付いていないので、体幹が意外と必要だった。
そのため音之進の肩に掴まり、体制を崩すまいと頑張ったのだ。
慣れない間は体が緊張で固まっていたが、しばらくするとあれ?意外と楽しいぞ…?と思うようになり、かなりリラックスして乗ることができた。

自転車の二人乗りを(本当は良くないのだが)したことがあるが、荷台に座るのでどうしても風を感じることが出来ない。
だが、ド・ディオン・ブートンは座席がないので、立って乗ることになる。
心地よい風を感じながら、早過ぎず遅すぎず景色が変わっていく。
現代では味わうことが出来ない不思議な体験に胸が躍るのを感じた。

「うわー!すごいすごーい!!」
「そうじゃろ!もう少しで着っど」

最初の緊張はどこへ行ったのやら、抑えても抑えても微笑がこみ上げてくる。
しばらく心地よい時間を楽しんでいると、音之進が着いたぞ!と三輪車を停車させた。

そこは、木々に囲まれた小さな花畑だった。
色とりどり咲いた花が咲き乱れており、奥には桜島が見える。
いつもの丘とまた違った景色に、思わず感嘆した。

優しい風が頬を撫でる。
揺れる横髪を耳にかけながら、三輪車から降り、二人は花畑に近寄った。

サクラソウだろうか。
ピンク、白、紫の花が所狭しと咲いている。
他にも所々赤や黄色といった別の花が咲いており、目の前の美景に息を飲んだ。
素敵な場所…と思わず立ちつくしていると、音之進が袖を軽く引っ張ってきた。

「春香、少し屈め」

はて。どうしたのだろう。
言われた通り少しだけ屈むと、音之進は少しだけ背伸びをして、春香の髪に小さな赤い菊を差した。
驚いて音之進を見つめると、満足そうに顔をほころばせていた。

「やっぱい似合う」

あまりにも優しく笑う音之進。
その姿に不覚にも胸がときめいてしまった。
流石は顔がいいだけある。
少しだけ高鳴った胸を抑えながら、春香は大きく息を吐いた。

「音ちゃん…お姉さんは将来が心配だわ」
「ないごて?」

不思議そうに首を傾げる音之進。
これで無自覚なのか…?末恐ろしい。

「音ちゃんに恋する女性がたくさんいそうってことだよ」

イケメン御曹司で優しいなんて、非の打ち所がないだろう。絶対モテる。
まあ、音之進の場合は少しだけ真っ直ぐすぎるところがあるから、そこを直せば、の話だ。
それでも、引く手数多なんだろうなぁ…としみじみ感じていると、音之進は突然爆弾を投下した。

「興味無か。おいは…心に決めた人が居っで…」
「え!なにそれ!聞いてないよ?!」

ひと月一緒にいた子が初めて自身の恋愛話を始めたため、春香は聞きたくて仕方がなかった。
だれだれ?どんな子なの?
音之進に詰め寄ると、鬼灯のように顔を真っ赤にし、口をつぐんでしまった。

からかい過ぎてしまっただろうか。
ごめんね、と口にしようとした時、音之進は深呼吸を一度すると、春香の両手を自身の両手で包み込んだ。

「春香…すっじゃ…おいと、といえしてくれ」
「え?私?といえって…?」
「おいと、め、夫婦になってくれ!」

…え?ちょっと待て、音之進の好きな子の話だったはずだ。
なぜ私と夫婦になりたいと言っているんだ?

突然の告白に頭が追いつかず、ぐるぐると頭の中で言葉が行き交う。
音之進は、私が好きなのか?そんな馬鹿な。
確かにひと月もの間、共に過ごした。
しかし、そんな素振りなんて…
今までのことを考えてみたが、頬を染めて見つめてくることがあったことを、ふと思い出した。
……あった。確かにあった。
まさかアレが……?
春香は心の中で頭を抱えながら、音之進に笑いかけた。

「もう、冗談がすぎるよ音ちゃん」
「おいは本気だ。おはんがすっじゃ。おいと、ずっと…一緒に生きて欲しか」

包み込んだ両手に力が入る。
普段はキリッとした凛々しい眉を八の字にしながら見つめる音之進に、春香の胸は大きく高鳴った。

…本気なんだ。
元より音之進はいい意味でも悪い意味でも真っ直ぐだ。
こんな冗談を言うわけが無い。
断らなくては…断らなくては…

春香は無意識に震える唇を噛み、顔を歪ませながら音之進に向かって微笑んだ。

「ごめんね、それはできないよ」
「な、ないごち!!おいが、おいが…こどもじゃでか…」
「んーん…音ちゃんが悪いわけじゃないの」

ナイフで心を刺されているような、ズキズキとした痛みが春香を襲う。
口の中が急速に乾燥しているような感覚になり、上手く言葉が出てこない。

音之進が悪いわけではない。
ただ…ただ、こちらの都合なのだ。
もう…本当のことを伝えるしかない。
春香は握られていた両手を解き、逆に音之進の手をとると、今まで絶対に言うまいと心に秘めていたことを口にした。

「本当はね、私、100年後の未来から来てるんだ。」
「未来…?」
「うん。眠るとね、音ちゃんに会えるの。」

不思議だよね、と苦笑する。

「ずっとこっちにいれないのか?」
「うん…寝ている間だけだし…本当はいつこっちに来れなくなるかも分からないの」

この夢を見たのも突然だった。
22時17分。眠ると明治時代にいた。
気にしたことがなかったが、今まで生きてる中で22時17分に眠ることもあっただろう。
その時は一度たりとも明治時代に行くことなんてなかったのだ。
つまりはこれから先、明治に行くことができなくなる可能性もあるのではないか。

「きっとね、音ちゃんにはもっといい人がいると思うんだ。まだ出会ってないだけで、私なんかよりも、ずーっと音ちゃんを支えてくれるような人が…」
「そげんおなごおらん…。おいは…春香がよかど…」
「音ちゃん…」

今にも零れそうなほど瞳に涙をためながら見つめる音之進に、春香は胸が張り裂けそうな気持ちになった。

音之進は御曹司だ。
きっとご両親が決めた良家の娘と結婚をするだろう。
後ろ盾どころか、いつ居なくなるか分からない女に現を抜かしていると知られれば、ただでは済まされないはずだ。

それに、まだ音之進は若い。若すぎるのだ。
きっと…もう少し成長すれば、今起きたことなんて若気の至りだったと笑い話にできるだろう。

「じゃあ…もしも、音ちゃんが大人になっても…まだ私のことを好きでいてくれていたら、もう一度言って欲しいな」

春香は今にも泣き出しそうな音之進をぎゅっと抱きしめた。

「きっと…それまでに、もっと素敵な人に出会えると思う。その時は私じゃなくて、その人を選んで…?」
「…わかった。」

確証のない約束だ。
幼い音之進には残酷なことかもしれない。
音之進は春香の背に腕をまわすと、息が詰まるほどぎゅっと強く抱き締め返した。
その苦しいほどの温もりに、じーんと鼻の奥が痺れるほど熱い涙が溢れてきた。
ごめんね。ごめんね。

「好きになってくれて、ありがとう。音之進」

その時、いっそう大きな風が吹いた。
突然の事で音之進を抱きしめる腕に力が入る。
あまりにも強い風に思わず目を瞑ってしまう。

次に目を開くと、視界に入ったのは天井だった。
慌てて飛び起きるが、普段と変わらない自室だ。
夢から覚めてしまったのだろうか…。
ふと、枕元を確認すると一輪の赤い菊が置かれていた。

今夜、突然消えてしまったことを謝ろう。
…そう思っていたのに。


この日を境に、明治時代へ行く夢を見ることは無かった。





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