波に飲まれる前に


「このまま海とひとつになれたらいいのに」

マキシ丈の真っ白なシフォンワンピースを身に纏った彼女はふと、青く煌めく海を見つめながらそう呟いた。
波打ち際を歩く彼女は、冷めた眼をして青く広がる海を眺めている。
なぜ、そんな眼をしているのか。
ずっと疑問だった。

彼女、天霧春香は所謂幼なじみというものだった。
幼い時から妙に落ち着いており、人形のように物静かかと思えば、突拍子もないことを言いだして驚かされたり。どこか雲のように掴みどころのない、変わった女だった。

そんな彼女と共に行動するようになってから15年が過ぎた。
同じ大学に通い、講義を受けるのも、食事をとるのも、休日を過ごすのも、春香と一緒だ。
成人を迎えたにもかかわらず、お互いに浮ついた話もなく、ただの幼なじみとして変わらず傍に居る。
周りからは本当に付き合っていないのかと聞かれるほどだ。普通の幼なじみはここまで共に過ごさないのだろう。

春香以外の女と話すこともあるが、なんの感情も湧かないし、彼女なんてものができれば春香と共に過ごせなくなる。
双子のように共に過ごしてきた春香は、自分の一部のようなものだ。今更離れようとも思わない。きっと春香も同じだろう。
そう思いながら、世間より少し早い夏休み初日に、春香を連れて海へ出かけた。先日、春香が綺麗な海が見たいと呟いたからだ。
車と飛行機で2時間弱かけて、この辺りで一番綺麗な海へと到着した。もちろんネットで口コミも確認済みだ。抜かりはない。
喜ぶかと思い春香を見るが、何処と無く冷めた眼差しで海を見つめていた。

ーーーそして冒頭の発言だ。

「急に何を言う」
「音之進は、人魚姫って読んだことある?」
「また突拍子もないことを…アンデルセン童話だろう。幼い時にお前が見ていたのを見た程度だ。」
「そっか…じゃあ、知ってるよね」

タイミングが良かったのか、プライベートビーチのように周りに人が居ない。
春香は静かに海へ近づき、打ち寄せる波にギリギリ触れない場所で歩を止めた。

「人魚姫は王子様の一番にはなれなかった。殺すこともできない。だから、泡になった。」

今まで海を見つめていた春香は振り向きながら、寂しそうに笑った。

「小さい頃は可哀想って思ってたんだけど…こんな綺麗な海とひとつになれるなら、泡になってもいいかなって思うんだ」
「…お前は泡になってどうするというのだ」
「さぁ…でも、この海を見た時に、綺麗だって思ってもらえるのなら…少しは満たされる気がしたの」

春香は再び海の方を向いてしまった。
普段の私であれば、鼻で笑い「気でも振れたか」と言ってやるところだが、様子がおかしい。
ひとつため息をこぼすと、春香に近寄った。

「なぜ小難しいことを…」
「んー…人魚姫になりたいのかもしれない」

また訳の分からんことを。
突然、春香は履いていたサンダルを脱ぐと、濡れるのもお構い無しに足先で打ち寄せる波に触れていた。

タオルも何も持ってきていないのに、どうするつもりなのか。砂が足にこびり付いて気持ち悪くなるだろうが。どうやって帰るんだ。
思わず眉間にシワが寄ってしまうが、春香は気がついていないのか、自分の足を何度も濡らす波をじっと見つめるばかりだ。
「いい加減こちらに戻ってこい」と言おうとした時、春香は急に「だってね…」と言いながら振り返った。

「恋が実らないのは悲しいけど…こんなに綺麗な海とひとつになれるなら…泡になってもいいかなって。それに…海を見た時に、一瞬でも私のことを思い出してくれる気がして」

春香は今にも泣き出してしまいそうなのを我慢して、無理やり笑みを貼り付けていた。

今まで見たことの無い表情だ。
すぐ激情に駆られる私とは異なり、春香はあまり感情の起伏はなかった。怒ったり泣いたりしていたのは幼い時くらいで、最近は楽しそうに微笑んでいることの方が多かったのだ。

なぜ、そんな顔をするんだ。
そんな顔をさせて誰を思っている。
いっそ泡になりたいと願うほどの男なのか。
言ってやりたいことはたくさんあったが、グッと飲み込み、腕を組んで春香を見遣った。

「アホか。人魚姫は王子が眠っている時に泡になったんだぞ。相手が泡になったことすら気がついていないのに、海を見て人魚姫のことを思い出すと思うのか?」
「そ、それは…」
「そもそも海で泡になったあと、空気となり空中に昇っていったのだぞ。人魚姫は最終的には雲の上にいる。泡になっても海の一部にはなれんぞ」
「そ、そんなに論破しなくてもいいじゃない…!」

先程までの貼り付けた笑顔はなくなり、本当に春香は泣き出してしまいそうだった。
大人げなかっただろうか。
いや、これだけ論破しても腹の虫が治まらない。

春香は私の一部のようなものだ。
双子のように、今まで生きてきたほぼ全ての時間を共に過ごしてきた。
春香が他の男を想っていようが関係ない。これからも、ずっと共に居られれば良かった。はずだったのだ。

私を見つめている春香の両肩を掴み、怒りに身を任せて叫んだ。

「だいたい、お前には声も足もある。わざわざ人魚姫なんぞになる必要は無い。お前の声が聞けなくなる?そんなこと私が許さん!泡になって消えるなど論外だ!!」

なぜ、こんなにも腹が立つのか。
なぜ、こんなにも取られたくないと思うのか。
なぜ、なぜ…私だけを見て欲しいと思うのか。

「なんで、」
「ゴチャゴチャ考えず、今まで通り私の隣にいろ。お前の望みを叶えるのは私だけでいい」
「え…?」

ただの独占欲かと思っていた。
春香は私の一部だ。私が守らなくては。そう思っていたのにも関わらず、春香が別の男に気を向けている。それが気に食わないのだと。

だが違った。違ったんだ。
ずっと認めたくなくて、この関係のままでいたくて、真実から目を背けていたのだ。
だが…もう逃げられない。この感情の名に、気がついてしまったのだ。

「お前はただ、私の隣で笑っていればいいんだ。これから先も、ずっと」
「それって……どういう意味?」
「…察しろ」

肝心な言葉を言わなくてはいけないと分かっているが、口が上手く開かない。
まだ恥じらいが残っているのだ。
春香を見ると、これでもかというほど目を見開いて固まっている。
どうしたものか。内心焦っていると、春香は声を震わせながら私の目を見つめた。

「音之進…私ね、音之進みたいに頭が良くないの。ちゃんと言葉にしてくれなくちゃ…分からないよ」

春香は今にも泣き出してしまいそうだった。
小刻みに震える身体、八の字になった眉、瞳に溜まっている涙。
そんな姿を見て、胸の奥がキュッと締まる感覚がした。

…もう伝えると決めたのだ。ここまで言って怖気付く訳にはいかない。
私は一度、目を瞑りながら大きく息を吐くと、春香を真っ直ぐ見つめた。

「……いいか!私はこういう類は得意ではない…一度しか言わん」

春香の肩をグイッと自らのほうへと引く。
突然の事で体勢を崩した春香を素早く抱きとめると、私は自身の胸に春香の顔を強く押し付けた。
春香は、突然のことに驚いたのか硬直している。
そんな春香の耳元に口を寄せ、彼女にしか聞こえないような声で囁いた。

「…好きだ」

春香はバッと顔を上げ、私を見つめる。
まるで信じられないようなものを見るように目を見開いていたが、ついに溜まっていた涙が一筋流れた。
さっきからコイツは目を見開きすぎではないか?

「ッ!…遅いよ、バカ」

返ってきたのは罵倒だった。
勃然と憤怒が湧き上がり、思わず抱きしめたまま、強い口調で叫んでしまった。

「バカとはなんだ!人が腹をくくって言ったのだぞ!お前は私以外の男のことを想って、先程の発言をしたのか!」
「ちがっ…ちがう、」

春香は堰が切ったように、ボロボロと涙を流してしまった。
なぜ泣くのだ。泣くな、泣くな。

「泣くな…怒鳴ってすまなかった」

片手で抱きしめたまま頬を伝う涙を指で拭うと、春香は私の背中に腕を回し、おそるおそる抱きしめ返してきた。

「ッ好き、大好きッ!ずっと前から…愛してる」
「…わかったから泣くな」

嗚咽を漏らしながら胸の内を伝える春香に、やっと胸の奥のわだかまりが取れた気がした。

私はずっと、何年も前から春香が好きだった。そのことに今更気がつくとは思わなかったが…。
この愛ひとつで春香を攫ってしまえるなら、もっと早い段階で気がつくべきだった。無駄な意地を張らずに素直に認めてしまえばよかったのだ。

私と春香は、これからも変わらず共に生きる。
変わるのは2人の関係性が、幼なじみから恋人になるくらいだろう。
だから私は、今まで通り…この腕の中にある存在を守り続ける。

「愛してる」

春香の在るべき場所は、私の隣なのだから。


***



綺麗な海とひとつになりたかった。醜い感情を持った自分も、綺麗な海とひとつになれば、美しいと褒められるような気がしたから。

音之進とは、常に隣にありながら決して交わることの無い、平行線のような関係だと思っていたのだ。
言うならば、双子。そうだ、双子のようだった。
どんなに恋い焦がれようが、彼にとっては所詮双子の片割れ程度だろう。
想うだけ無駄だ。そう思って、自分の想いに蓋をしていた。

人魚姫のようなラストでもよかったのだ。
好きな人とは結ばれない。だが、綺麗な海の一部として生き続けることができる。そんな人生でも…よかったのだ。

だけど…やはり、彼の隣にいられるほうが、ずっと幸せなのだ。

「ずっと傍にいて…」
「…ああ。これからも、共に生きよう」

抱きしめている腕の力を更に込める音之進。
幼い時から変わらない、彼の愚直さが愛おしい。

「愛してる」

ああ…このまま幸せな海に抱きしめられていたい。


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