君と読むお伽話の1ページ目
男が少女を拾ったのは、ほんの気まぐれだった。
その少女との出会いは、今でも鮮明に覚えている。凍えそうなほど寒い日の夜に、少女は男の住んでいるアパート前の階段に座り込んでいたのだ。
治安がいいとは言えない街で、年端もいかない少女が一人でいるのはさすがに危険すぎる。そう思い、声をかけたのが始まりだった。
「お嬢ちゃん、なにしとるんや」
少女はゆっくりと声をかけた男の方に顔を向けた。
使い古された服と靴。傷んだ髪。ボロボロのリュックサック。どこからどう見ても小汚い少女なのに、強い光を宿した榛色の瞳から目が離せなかった。
少女は目を細めながら力なく微笑む。その姿が今でも瞼の裏に焼き付いて離れない。
ふと、腕の中で何かがもぞもぞと動く感覚があり、男は目を覚ました。
見慣れた10畳の洋室に、背の高い男に合わせたキングサイズのベッド。遮光カーテンの隙間から朝日が薄らと漏れており、先程まで見ていたのは夢だったことを男は悟る。
「(…なんや、夢やったんか。懐かしい夢を見るもんやな。)」
腕の中にある温もりは、ポジションが気に入らないのか、布団に潜りながら未だにもぞもぞと動いている。
男は“ なにしてんねん… ”と、クックッと含み笑いをしながら、その温もりを自身の方へ寄せた。すると、男の行動に驚いたのか、先程と打って変わってピタリと動きを止め、布団からひょっこりと顔を出した。
雪のように白い肌。艶のある栗皮色の髪。温もりの正体──女は、色素の薄い大きな瞳で男を見つめ、やがて幸せそうに目を細めた。
「おはようさん、春香」
「…おはよ、吾朗ちゃん」
男──真島吾朗は、女──春香の頭を優しく撫でる。手入れの行き届いた春香の髪は指通りがよく、質のいい絹に触れていているようだった。
背中に鬼を背負っている極道者とごく普通の平凡な女。全くもって正反対な二人は、いつものように心地よい朝を迎えるのだ。
***
1987年12月24日 22時35分。
世間はクリスマス一色に染まり、普段から人通りが多い蒼天堀もアベックたちで溢れかえっていた。それもこれもトレンディドラマのせいだろう。
最近、恋人とクリスマスを過ごすまでの過程を描いた、F1層狙いのドラマが数多く放送されていた。
バブル絶頂期ともあってか、恋人に贈る豪華なブランド物のプレゼントを選んだり、おしゃれなシティホテルの予約をする行為が若者の心に刺さったようだ。
ドラマのようなクリスマスを過ごしたい。そう願う若者たちで街は賑わい、いつも以上に騒々しくなっていた。
そんな街を一人、ビルの喫煙スペースから無表情で見下ろす男がいた。
真島吾朗。キャバレーグランドの支配人、そして元極道者である。“ 穴倉 ”と呼ばれる拷問部屋から出て、極道に戻るためにキャバレーグランドを任されてから一年の月日が流れた。
現在はオーナーである佐川の息がかかった人間に四六時中監視され続け、蒼天堀から離れる事もできないという息苦しい生活を送り続けている。
「(クリスマス、か…あほくさ)」
愛用のハイライトに火を付け、厚い雲に覆われた夜空を見上げた。
今夜はホワイト・クリスマスになるそうだ。やけに浮かれていた従業員たちが、楽しそうに仕事終わりの過ごし方について話していた。世間がクリスマスだろうが、正月だろうが、真島にとってはいつもと変わらぬ地獄の日々。クリスマス?くだらない。それが率直な感想だった。
さて、仕事もあと少しだ。雪が降る前に帰れるといいのだが。
真島は鈍色の空に白煙をゆっくりと吐き、タバコの吸殻を備え付けの灰皿に入れると、室内へと戻っていった。
23時00分──本日の勤務が終わった。トラブル等はなく、本日の売上も目標額まで残りわずかだ。おそらく閉店までの時間までには達するだろう。店長に何かあれば直ぐに連絡しろ。とだけ伝え外へ出ると、雪が降り始めていた。
…やられた。まぁしかし、肌寒いが風は強くない。やや小ぶりの雪だから積もることもないだろう。
問題があるとすれば晩飯をどうするか、だ。どこに行ってもアベック、アベック、アベック。見ているだけで胸がいっぱいになる。
「(…しゃーない。今日はコンビニで適当に買うて帰るのが一番やろ)」
真島は心の中で舌打ちすると、アパートの近くにあるコンビニで温まった弁当を買ってから帰路についた。
クリスマスだからだろうか。売れ行きがあまり良くないのか、普段よりも陳列棚に並んでいる商品が多かった。
せっかく店員に弁当を温めてもらったのだ。冷める前に早く帰ろう。そう思い、自身が住むアパートへと向かう足を早めた。
幸いコンビニからアパートは近い。ものの数分で、自宅に着くだろう。そう考えていたのだが、目的地は目前というところで問題が発生してしまった。
アパートの目の前にある階段に、何者かが座り込んでいたのだ。
使い古された服と靴。ボロボロのリュックサック。お世辞にもいい生活をしているとは言えない格好をした少女だった。
現在の時刻は23時を過ぎている。こんな時間に、しかも雪が降っているのにも関わらず、こんなところで何をしているのだろうか。正直そこにいられては邪魔だ。親は何をしているんだ。
真島の脳裏には様々な疑問が飛び交ったが、治安がいいとは言えないこの街で、年端もいかない少女が一人でいるのはさすがに危険すぎる。そう考えた時には、すでに少女に声をかけていた。
「お嬢ちゃん、なにしとるんや。」
少女は栗皮色の傷んだ髪を揺らしながら、ゆっくりと真島に顔を向けた。色素の薄い榛色の大きな瞳と視線が合った瞬間、真島は思わず息を飲んだ。
必死に逃げ場を求める動物のような目をしているのに、どこか強い光を宿している。そんな瞳から目が逸らせられなかった。
見つめてから何分たったのだろうか。いや、実際には1分も経っていないのだろう。まるで時が止まってしまったかのような感覚に陥っていると、少女は目を細めながら微笑んだ。
「こんばんは、お兄さん」
甘くて柔らかくて優しい、それでいて凛とした声が鼓膜に響き、ハッと我に返った。
「こんばんは…ってちゃうやろ。なんでこないな時間にお嬢ちゃん一人でおるんや。風邪ひくで?」
真島は極力怖がらせないように、優しく声をかけた。ただでさえカタギとは思えない顔つきだ。泣いてしまう子どもがいてもおかしくない。
その気遣いが功を奏したのか、少女はうーん…と草臥れたように苦々しく笑うだけで、憂惧している様子はなかった。
「知らないおじさんたちから逃げてきたの。すごくしつこくて…走り疲れちゃったから、ここで座ってたの」
「なんやて…?お父さんとお母さんは?心配しとるんとちゃうんか?」
どうやら家出をしたとか、そういうレベルの問題ではないようだ。複数人から少女が追われる?一体何があったというのだろうか。真島は自身の目が自然と鋭くなっていくのを感じながら、少女に問いかけた。
「ママはずっと前に…パパは…昨日、死んじゃったんだって。」
「死んだ…?どういうことや」
「怖い顔した知らないおじさんたちがお家にきたの。“ 君のパパは死んでしまったんだ。だから今日からおじさんと住もう ”って言って腕を掴んできたから、怖くて逃げてきちゃった」
「ほんまか?お嬢ちゃん連れ去るための嘘とちゃうんか?」
「うーん…パパ、危ないお仕事するって言ってたから…本当かなって」
膝を抱えながら俯く少女の声は、弱々しいものになっていく。
無理もないだろう。唯一の肉親である父が、突然死んだと聞かされたのだ。
「…それじゃあ、帰る場所は?」
「…おうち帰ったらさっきの人たちがいるかもしれないし…親戚もいないし…どうすればいいんだろって思って…ぼーっとしてたの」
守ってくれる両親もいない。家にも戻れない。
しかし追っ手は、今でもこの少女を探している。
これは警察に保護してもらうのが一番だろう。
幸い交番なら蒼天堀内にあるため、蒼天堀から出ることができない真島でも送ってやることはできる。
何かあっても、そこら辺のチンピラ程度であれば、腕に多少の自信がある真島にとっては準備運動にもならない内に倒すことができるだろう。
面倒なことこの上ないが、声をかけたのはこちらだ。最後まで面倒をみてやるか。そう思いながら、真島はため息をひとつついた。
「あー…警察、行くか?」
交番まで連れてったるで、と声をかけると、先程まで俯いていた少女は勢いよく顔を上げ、突然取り乱した口調で「警察はダメ!!」と叫んだ。
「はぁ…?なんで警察はあかんねん」
「…とにかく、ダメなの。」
「じゃあ…孤児院は?」
「きっと調べられたら、すぐバレちゃうよ」
私の家を知っていたくらいだもん。と少女は苦い笑みを微かに頰に含んで再び下を向く。
両親が他界し、親戚もいない状態なら、児童養護施設に入所することになるはずだ。満18歳には出ていかなくてはいけないが、少女は見たところ11〜12歳。おそらく入所できる年齢だろうし、入所したら5年以上はどうにか生活できるだろう。
しかし少女は警察も孤児院も、頑なに拒んでいた。一体何があると言うのだろうか。
「お嬢ちゃん、これからどうするんや。」
「うーん…とりあえず逃げてみる。逃げて…捕まったらおしまい。世の中、弱肉強食っていうし」
ね?と少女は芝居がかった笑みを浮かべた。
相手が何人いるか不明だが、生きていく能力のない少女が追っ手から逃げ切れるとは考えにくい。それを分かっていて尚、逃げようと言うのか。まるでゲームをするかのような口ぶりだが、全てを悟り、その運命を受け入れようとしている。
いくら女の子の方が精神的に成熟するのが早いと言っても、少女は年齢の割にかなり達観していた。いや、そうならなくてはいけない環境だったのだろうか。
真島は出会って間もない少女の運命を悟り、少しばかり案じてしまった。
「…しばらくの間、うちにおるか」
「え?」
無意識の内に口からこぼれた言葉は、意外すぎるものだった。発した真島自身も驚きが隠せなかったのか、口に手を当てている。
少女も驚いたのか、無理やり貼り付けていた笑みが消え、ぽかんと口を開けていた。
蒼天堀の中でしか生きられぬ、奴隷同然の生活をしている真島は、子どもを保護できるほど肉体的にも精神的にも余裕がある訳では無い。
なんてことを言ってしまったんだ…しかし、一度言い出してしまったことだ。やっぱり無し、とは言えない。仕方がない…あとは少女の判断に委ねるとしよう。
真島は一度大きく息を吐き出すと、少女を見つめた。
「ほとぼりが冷めるまでや。その変わり、俺と同居することになる。布団もないし、狭いで。」
「いいの…?」
「女児に手を出すほど落ちぶれとらんからな」
「…優しいんだね、お兄さん」
少女はそう言うと、先程の貼り付けた笑顔ではなく、自然な笑みを浮かべた。
なんだ。ちゃんと笑えるじゃないか。未だに年相応の表情はしないものの、作り物ではない姿を見て、真島は目を細くした。
「私は春香。天霧春香。しばらくの間お世話になります、お兄さん」
「…真島吾朗や」
この少女との出会いが、人生を大きく変えることになるとは、当の真島は思いもよらなかっただろう。
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