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「だからそれは払わないって――いやぁっ!」
 バキッ!
 立て付けの悪かった玄関扉を下敷きに、私は道のど真ん中に滑り出した。決して骨の折れた音ではなく、扉の蝶番が弾き飛ばされた音だ。
「いった…」
 殴られた頬も、強く打った腰も痛いけれど、何より痛むのは胸。心と形容される、心臓と似た場所にあるなにか。
 下唇を噛んで、溢れそうになる涙を堪えるのも今日だけでもう何度目か。
「何回言ったらわかるんだよ!こないだお前は俺に、200万借金作ってんの!今日までに耳揃えて持ってこいっつっただろ!」
 怒鳴り散らす目の前の男こそ、私を殴った張本人。私称、彼氏。彼は何て思ってるのか知らない。『俺の彼女でしょ?』なんて何度も言われてきたけど、多分営業。でも、営業って分かってても好きだった。
 『だった』。ほんの1時間前までは。今はもう、あんなに好きだった声も顔も、醜く歪んでまるで小さい子がこねくり回したカラフルな粘土みたい。そんなに大きな声で怒鳴り散らかして、アワまでふいちゃって。
 そんな私たちを、道ゆく人々は意にも介さず通り過ぎてゆく。当たり前だ。ここ、ジャヤのモックタウンでは男女に関わらず、いざこざなんて日常茶飯事。一々構っていたらキリがないのだ。
 仁王立ちで私を見下ろす男を睨みつける。どうやら打ちどころが悪かったようで、暫く立ち上がれなさそうだ。
「私が酔いつぶれてる時に勝手に伝票作った癖に――ぅぐっ?!」
 蹴られた。今度はお腹を。
 私をなんだと思ってるんだろう。あ、金ヅルか。
 こんな男のどこがよかったんだっけ。
 ぽすんっ。
 頭に柔らかいものが当たった。蹴られた衝撃で、何かにぶつかってしまったらしい。犬や猫にでも当たってしまったのだろうか。
「っ…ご、ごめんなさい」
 慌てて振り返ると、草履を履いた足が目に入る。およそ人間に当たった感触では無かったが、どう考えてもこの足の持ち主にぶつかってしまったとしか考えられない。慌てて頭を下げる。
「気にすんな!痛くねえから」
 上から降ってきた声が意外と若く、朗らかなことにびっくりして、思わず顔を上げる。
 麦わら帽子の少年がいた。
 彼の帽子の真後ろに太陽がいて、まるで後光がさしているみたいだった。
 逆光のせいで、彼の表情はよく見えない。けれど、声色からして、少なくとも怒っている風ではない。
「なんだお前、転んだのか。起きれねェのか?」
 そう言って手を差し伸べてくれる少年。
 きっとこの町の人間では無い。そして、いつもこの島を訪ねてくる、粗暴な海賊でもない。私にかける言葉と、差し伸べてくれた手。それだけでわかる。この人、良い人だ。
「すみません、直ぐに退きますから」
 差し出された手をとろうと、痛む体を叱咤しながら腕を上げる。蹴られたお腹がずきずき痛む。
 奥歯をぎゅっと噛んでおずおずと重ねた手は、むかしママが眠れぬ夜に作ってくれたホットミルクみたいにあったかかった。思わず奥歯に入れていた力を緩めてしまって、小さく体の痛みに声をあげてしまうくらいに。
「?どうした――」
「お前が謝んのは俺にだろうが!!」
 少年が帽子の影と一緒に首を傾げたところに、痺れを切らした(私称)彼氏が割って入ってきた。怒鳴りながら、今度は私の腰を蹴る。
 この人が力の弱い男で良かったなあ。
 ぼんやり思いながらも、痛みに顔が歪んでしまう。きっともっと力の強い人だったら、骨折していただろうから、まだマシだ。そう思わないと。
「やめてってば。痛いって」
 最早懇願に近い。今夜私がお仕事できなくなってしまうことなんて、彼にはどうでもいいんだろう。
「私の同意無しに、あなたが勝手に作った借金なんか払わないし、そんな義務ない」
 土に爪を立てて、もう一度睨みつける。
 多分何度言っても、もうこの人は聞く耳を持たない。それでも抵抗してしまうのは、私がまだガキだからなのかな。無意味なことって分かってるのに。
 胸が痛い。
 悲しい。
 また、間違えちゃったな。
 この町で生き延びていくには、全部自分でやらなくちゃいけないのに。傷つけるのも、助けるのも、生かすのも、全部自分。
 今日の私を傷つけてるのも、ホントは誰かに助けて欲しいのも、助け出すのも、全部自分。

 そう思ってたのに。

 ドガァン!!
 (私称)彼氏が一瞬で吹き飛んで、彼の家の壁を突き抜けて行った。
「…えっ」
 頭が真っ白になるとはこのことか。真っ白になってすぐ、回収しきれない情報と憶測が頭の中に一気に戻ってくる。
 局所的な竜巻でも起きた?
 それとも私、何かすんごい能力に目覚めたとか?それならもっと早くに発動して欲しかったけど。
 周囲の人々も一瞬、静まり返る。
 けれどその静寂も束の間、すぐに町は普段の喧騒を取り戻す。触らぬ神に祟り無し。面倒ごとには首を突っ込まないのが、この町で生き抜く秘訣だから。
「おい」
 上からさっきとは違う声が降ってきて、慌てて見上げる。
「立てるか」
 ぶっきらぼうな話し方をする、緑色の髪の人。麦わら帽子の少年は二人連れだったらしい。
「あ、はい、いえ、あの」
 立てない。びっくりして。
 でも、そうじゃなくて。
 緑の髪の男の人と、麦わら帽子の少年を交互に見る。(私称)彼氏を吹き飛ばしたのって、もしかして。
「どうして…」
 小さくそう漏らすと、男性が少年をちらりと見やった。
「ああ、おれゴム人間なんだ」
 けろっとしてそう言った少年は、腕を伸ばして見せた。確かにみょいんみょいんと伸びる腕は普通では無い。悪魔の実を食べたのだろう。
 でも、そんなこと聞いてるんじゃない。
「いや違くて、あの、どうして彼を」
 手を出しても、少年には何も良いことはないのに。面倒ごとに巻き込まれるだけなのに、なんで――なんで、助けてくれたんだろう。
「ん〜なんとなく!」
「えっな…なんとなくで?!」
「おう!」
 今度はわかる。少年がどんな表情をしているのか。
 でも、眩しくて目が灼けてしまいそう。灼けて、とろけて、このまま視力を失ってしまいそうな気さえする。ああでも、そうしたら今この少年が、それだけが私の記憶に残り続けるのかな。それならいいかも。
「ちょっと!待ちなさい2人とも!」
 目を細める私を現実に引き戻したのは、若い女性の声だった。
「ま、まさかもうケンカして…ないわよね……?」
 すたたたたと軽快に駆けてきた女性は、どうやら二人の仲間のようで、二人の前で立ち止まった。大きなくりくりした瞳で二人を見て、私を見て、(私称)彼氏の家を見て、また二人を見た。
 可愛らしい顔立ちがだんだん険しくなってゆく。
「ケンカ……してないわよね?」
 さっきの声より一段階低くなって、眉が吊り上がっている。
 綺麗なお顔の人って怒っても綺麗だけど、その分怖いんだよなあ。
 なんて呑気に考えている場合じゃなかった。やばい。これはもしかしなくても、私のせいで二人が怒られてしまうフラグ。回収される前に私が片付けないと。
「あ、あの!私の用事を手伝って頂いただけで、私が勝手に転んじゃったんです!なのでお二人は、その、すごくお優しい方々で!」
 両手をわたわた動かしてしまうのは無意識。逆に嘘くさ〜く見えるかもしれないけれど、必死さだけは伝わってくれるはず!伝われ…!
「そうなの?ふーん…」
 女性は顎の下に手を当てて私を見る。私も全身全霊の眼力で『本当なんです!』と訴える。だって、助けてもらったし、すごく優しくしてくれたもの。
 数秒間見つめあって、そろそろ私の目も溶けてバターになっちゃいそう、いや逆に乾燥しすぎてさらさら解けちゃいそうになった頃、彼女はにこっと笑って頷いた。
「そっか!よかったわ!うちの2人が迷惑かけたかと思っちゃった。立てる?」
 この人たち、なんて優しいんだろう。
 女性は髪を耳にかけると、私に手を差し出してくれた。
「あ、有難う御座います」
 今度こそ私は、彼女の手を借りてどうにか立ち上がった。腰もお腹も頬も、どこもかしこも痛いけど、心はなんだかあったかい。
「あの、本当に有難う御座いました」
 痛む腰を抑えて、深々と三人に頭を下げる。
「おう!またなー!」
 陽気に手を振る少年に、なんでだろう、目頭が熱くなる。
 また会えるのかな。会えたらいいけど、会いたくないような。もう一度会えるなら、その時はもう離れたくなくなってしまうだろう。
「はい、また」
 もう一度頭を下げて、玄関扉を拾い上げ、ずりずり引きずって半壊した家へ向かう。彼が気絶しているうちに、何発か殴らせてもらおう。
「『ワタクシはこの町では決してケンカしないと誓います』」
 後ろで少年がそう言うのが聞こえる。あの可愛らしい、けれど怒ると怖そうな女性に何か言われたのだろう。不服そうな棒読みだ。思わず口元を緩める。
 海賊だったのかな。多分そうだろうな。この町に来る人は、大抵海賊だ。
 けれど、優しい人たちだった。もしもワンピースを見つける人が現れるなら、彼等のような人がいい。
 ああ、でも。
「……いいなあ」
 ふと口から漏れ出た声に、ハッと手を口にやる。
 羨ましい。
 自由も、優しさも、強さも。
 なにより、あんなにあったかい人の側に、ずっといられるなんて。
 堪え切れなかった涙がぼろぼろ落ちる。頬を伝って、手を伝って、腕を伝って。あんな子が側にいたらどんなに幸せだろう。毎日を生きるのも、どんな苦痛でも乗り越えられるだろう。
 ガタンと引きずっていた扉を軒先に落とす。目元の化粧が崩れるのも気にせず、涙を乱暴に拭う。
 とりあえず、家の中でのびているであろう男をしばきに行かなくちゃ。